畑倉山の忘備録

日々気ままに

インドネシア賠償ビジネス(上)

2018年11月25日 | 鬼塚英昭
大東亜戦争で日本が敗北した後、東アジア諸国が次々と独立していった。日本の現代史家のほとんどは、大東亜戦争をアジア解放の戦争であったと主張している。しかし、アジア諸国を侵略した戦争であったことは間違いない。初代インドネシア大統領スカルノはいち早く日本に戦後賠償を要求した。

1957年11月、岸信介首相はインドネシアを訪問した。スカルノと岸の話し合いの結果、2億2300万ドルという賠償金額が決まった。インドネシア賠償委員会ができて細目の賠償金の要求案が日本側に提出された。交渉の結果、インドネシア側がプロジェクトを作成し見積書を日本側に提出し、個別の案件につき日本側が応じることになった。

この賠償プロジェクトが具体的に進行すると思われたとき、木下商店という商社が、岸首相と組んでいることが判明した。(中略)

これから本格的に木下商店が賠償ビジネスを開始しようとしたとき、インドネシアに支店さえ持っていなかった。在インドネシアに支店を持つ商社はすでに17社あった。しかし、これらの大手商社も木下商店の一括入札に敗れた。この木下商店の背後にいた石原広一郎(ひろいちろう)、小林中(あたる)という財界グループが岸を動かしていた。

瀬島龍三は大野伴睦、河野一郎にこの利権を伊藤忠が奪うようにできないかと相談した。二人の大物代議士は瀬島に「児玉誉士夫に会ってみろ。俺たちの紹介で来たといえばいい。あんた、三浦義一を動かせば児玉は必ず動く」と言った。瀬島は親友となった読売新聞の記者渡邉恒雄を誘い、児玉に会いにいく。

児玉誉士夫は右翼ではあるが、中国からダイヤモンド・金・銀を敗戦まぢかに日本に持ち帰り、その財を鳩山一郎、河野一郎らに提供して、政界の黒幕となっていた。

(鬼塚英昭『瀬島龍三と宅見勝「てんのうはん」の守り人』成甲書房、2012年)