探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原家、鎌倉府滅亡の時の動き

2014-04-18 12:50:04 | 歴史

松尾小笠原家、鎌倉府滅亡の時の動き ・・小笠原家の盛衰

鎌倉幕府末期及び建武期の小笠原家の動きを、教科書的に簡単に記すと、鎌倉期、小笠原氏は鎌倉御家人として執権北条氏と行動をともにし、建武期には、足利高氏とともに、北条得宗家から離れ、後醍醐上皇に味方し、後醍醐と尊氏が反目すると、南北朝期には足利尊氏に与して、建武二年(1335)、小笠原宗長は信濃守護職に補任、宗長は入道(出家)になっていたため、守護職は貞宗が継ぎ、埴科郡船山を守護所としました。

では、なんで鎌倉幕府が亡びるに至ったかを、簡単におさらいしますと、少し前、二度の元寇で、自然の力も借りて、かろうじて元を撃退することが出来たが、戦費が嵩み、戦勝といえど、元から領土を奪ったわけではないので、戦功のあった武士に満足な報償を与えることが出来ず、武士から信用をなくし、不満を残しました。更に、元からの三度目の攻撃に備えるための費用が掛かり、鎌倉幕府の財政は壊滅的になりました。地方から出仕した武士は、借財をしながら、戦功を目指してきたので、困窮します。その困窮を救おうとした徳政令で、金を貸す金持ちがいなくなり、さらに武士層の生活が苦しくなります。鎌倉幕府末期は、この様に不満が渦巻き、不安定になっていました。・・・このころ、執権の北条高時は、政治を怠け、自分達一族だけが贅沢な暮らしていたため、武士たちの不満は高まる一方でありました。

武士たちの中には、土地を報償できない鎌倉幕府よりも、土地を与えてくれる守護に奉公する者もあらわれるようになりました。守護は、鎌倉幕府から半ば独立したような形となり、これが室町時代に守護大名と呼ばれるようになりました。
土地の有力者の名主たちも次第に力を蓄え、他人の土地を奪ったり、金を取ったりするようになった。これら名主の中には、鎌倉幕府の力が及ばなくなると、守護や地頭の命令を聞かない者もあらわれた。この者たちを悪党とよぶ。この悪党の中で有名な武士が、楠木正成である。・・・半ば独立したような形となった守護や悪党たちは自分の利益を守るために、やがて鎌倉幕府を亡ぼす原動力となっていくのである。
 
天皇家にも少し問題が起きていました。後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統と大覚寺統とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出すなどという変則的な体制が成立します。
そんな中、文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位しました。
天皇は、天皇家も変則的、幕府も二重構造といった体制を変革し、天皇親政の世の中を実現しようと考え、クーデター計画を立てますが、これがあっけなく事前に露見します。元亨四年(1324)、天皇の下で計画を進めていた日野資朝・俊基が逮捕され、土岐頼兼らが討ち取られます。天皇は「自分は知らない」としらを切り通し責任追及を逃れました・・正中の変。天皇はこれに懲りず、逮捕されたものの翌年赦免された日野俊基を中心に再度倒幕の計画を進めますが、元徳三年(1331)、天皇に謀反の計画ありという密告に対して幕府は速やかに兵を差し向け俊基らを逮捕します・・元弘の変。・・ここで追求を逃れきることはできないと考えた天皇は、8月24日、突然三種の神器を携帯して奈良へ脱出、27日に笠置山に入ります。これに呼応して9月14日、楠木正成が天皇を支援する兵を起こしました。
これに対して持明院統の後伏見上皇は皇太子の量仁親王に皇位継承を指示、親王は9月20日践祚して光厳天皇となります。先行して8月9日改元も行われて元弘元年となっています。
後醍醐天皇の側はこの時は持ちこたえることができませんでした。笠置山はあっけなく陥落し、後醍醐天皇はやむなく三種の神器を光厳天皇に譲り、翌年3月後醍醐上皇は隠岐に流罪になりました。日野資朝・俊基も処刑されます。

光厳天皇は3月正式に即位、4月にはまた改元が行われ正慶元年となります。この時、後醍醐天皇は、退位して後醍醐上皇になっています。

この一連の後醍醐天皇のクーデターに対処したのは、幕府の意向を踏まえた六波羅探題でありました。六波羅探題の重要な構成員の小笠原宗長は、北条得宗家の御家人として、後醍醐天皇成敗に動いたものと考えられます。

しかし上皇側はこれで引き下がりはしませんでした。その年の秋、楠木正成らが再度挙兵すると、翌正慶二年(1333)2月24日、上皇は隠岐島を脱出。これに対して、幕府は足利尊氏らを鎌倉から討伐に向かわせます。幕府は尊氏が寝返るかも知れないという情報があったため、尊氏の子千寿丸を人質に取るのですが、尊氏は家族の命より時代の流れを優先しました。・・もう鎌倉幕府の命数は尽きていると考えていた尊氏は、後醍醐上皇側に寝返って、光厳天皇を京都から追い出してしまいます。

鎌倉幕府と後醍醐上皇側の対立の戦略上のポイントは、幕府の拠点の鎌倉と、天皇と政治の中心京都です。足利尊氏は、後醍醐上皇と同盟するとともに、後醍醐の北条氏打倒の論旨で挙兵した新田義貞と弟の足利直義を鎌倉攻撃に向かわせます。京都は、北条の京都軍事勢力拠点・六波羅探題の分断と味方化です。尊氏は、六波羅探題の有力武将・小笠原宗長を、もはや北条の命運なしとして誘います。・・・ここで、以後長い付き合いになる小笠原家と足利家の盟友関係が成立します。

新田義貞は関東で挙兵しました。義貞は自力で幕府の手から脱出した千寿丸(後の足利義詮)と共に幕府軍と交戦、稲村ヶ崎から上陸して鎌倉に攻め入り、市内で激しい戦闘を繰り広げます。北条高時らは葛西ヶ谷まで逃れ、東勝寺で一族と御身内人二百八十名とともに自害します。高時は時宗の孫にあたります。・・・鎌倉幕府滅亡(1333)。

隠れていた楠木正成が再び赤坂城に立てこもると、逆に全国の守護も鎌倉幕府に対して反乱をおこしました。後醍醐上皇も隠岐から密かに抜け出し、鎌倉幕府方の有力な武将である足利尊氏までが反乱をおこして、ついに京都の六波羅探題を攻め落とす状況となりました。・・ここで6月4日後醍醐上皇は京都に戻り「自立登極」します。「自立登極」の意味は不明。・・要するに二年前の退位を取り消して、元号も元弘三年に戻したと言うことかと思いますが・・・。結果歴史から本来正式に即位したはずの光厳天皇は、正式な天皇としての地位が歴史から抹消されます。そして翌年1月29日建武に改元。退位を取り消して、再び後醍醐天皇になった。・・・これが建武の中興です。

足利尊氏は元弘三年(1333)8月の除目で、従三位・武蔵守となった。しかし、彼の名を、建武政府の中央諸機関の後の構成部門のなかにも見出すことはできない、という奇妙な政権が出来上がります。
この事実は、当時の人々の目には、不可解で、奇妙なことと映じたらしく、”尊氏なし”という言葉が所々でささやかれていたといいます。その時、尊氏は六波羅を滅亡させたあとに、奉行所を設け、諸国から続々と上京する武士を配下に治めつつあったのです。六波羅滅亡、建武政府の成立から数カ月の間、全国各地から上京しる武士は、「御手につきたてまつり、軍忠を致す」という着到状を奉行所に提出し、尊氏から「了承した」という証判をうけ、彼の配下に入ったのです。
5月中に、土佐の住人須留田心了、和泉の日根野盛治、美濃の鷲見忠奏などが、6月に入ると、美濃の水谷重親、信濃の市川一族、加賀の狩野頼広、安芸の平賀廉宗、石見から藤原廉員、紀伊から隅田忠長などだ上京している記録が残ります。
さらに、信濃の小笠原宗長から、関東合戦の詳細な状況を、大友貞宗、島津光久からは、九州における戦況を逐一報告されていた尊氏は、京都にありながら、全国的な歴史の推移を、的確に把握していたと言えます。このことは、鎌倉幕府の滅亡という極めて不安定な政情の中で、諸国の有力武将が、誰を最も信頼していたかをはっきりと示すものであります。

続々と、尊氏傘下に入る諸国の有力武将に、尊氏は何を託されたのであろうか。この託されたものを、共有できたからこそ、尊氏は武力を掌握でき、後醍醐天皇を超えて、南北朝の対立を乗り越えられたのではないでしょうか。ここで尊氏が、盟友に選んだ武将は、その後室町幕府の支柱になっていきます。ただ、この様な御家人・武将の望みや思いは、尊氏個人には理解されたが、歴代の将軍には受け継がれなかったようにも思う。

そうして建武三年、後醍醐天皇の親政と貴族中心の政治運営に不満を持った武士たちは、光厳天皇の弟の豊仁親王を新たに天皇に擁立・・光明天皇。天皇は、足利尊氏を征夷大将軍に任命するに至る。ここで天皇家がふたつ並立するという前代未聞の事態になった。この「南北朝」の時代はこのあと六十年も続きます。

 

鎌倉幕府滅亡と南北朝時代突入まで ・小笠原貞宗の戦歴


・元徳元年(1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると、貞宗は幕府の命を受けて畿内へ出陣し、9月に大仏貞直率いる一隊に加わって宇治から大和路を経て楠木正成がこもる赤坂城攻略に参加した・・『光明寺残編』。
・元徳三年・元弘二年(1333)正月に再び幕府軍の一員として畿内に出陣している・・『太平記』。
・足利高氏が倒幕の挙兵をするとこれに呼応して鎌倉攻めに参加・・貞宗の父・宗長に尊氏から軍勢催促状が送られている。
・足利尊氏が鎌倉幕府を裏切って 「六波羅探題」 を攻撃した時、小笠原貞宗もその配下として従軍。
・その功績により建武政権から従五位下・信濃守に任じられ、信濃守護職を認められた。埴科郡船山郷(千曲市小船山)に守護所を置いていた。実際の守護職補任は父・宗長へ。
・信濃は関東を支配する鎌倉府の知行国で、鎌倉府の守護代・吉良氏と小笠原氏は併存していた。貞宗は、吉良氏とともに北信濃の反乱豪族を治めようとしていた。
・ 建武二年(1335)7月に信濃に逃れていた北条時行が諏訪頼重らと「中先代の乱」を起こすと、貞宗は信濃守護としてその鎮圧にあたり、青沼(千曲市杭瀬下)などで戦ったが、国府を襲われて国司を殺され、その進撃を食い止めることができなかった。
・中先代の乱の鎮圧後、建武政権は村上信貞を「信濃惣大将」として信濃に派遣し北条残党の討伐を行わせたが、これは守護の貞宗の職務と競合するもので、このことが貞宗を尊氏寄りに傾斜させた。
・建武三年・延元元年(1336)9月には、比叡山にこもる後醍醐天皇方に対し、近江の琵琶湖上を封鎖、兵糧攻めにして講和に追い込んでいる。・・『太平記』
・このとき、近江の武将・佐々木道誉が 小笠原貞宗に国内を牛耳られることを嫌い、嘘で後醍醐方に投降して近江守護職を認められ、これを「将軍(尊氏)からいただいた」と称して、貞宗を近江から追い出した、という逸話・・『太平記』。
・新田義貞のこもる越前・金ヶ崎城攻めにも参加している。
・建武五年・延元三年(1338)正月には、奥州から遠征してきた北畠顕家軍を、足利方が迎え撃った「青野原の戦い」に参加して、芳賀禅可と共に一番手に突撃、渡河したが、伊達・信夫ら奥州勢にさんざんに射られて多くの兵を失っている・・『太平記』。
・暦応三年・興国元年(1340)、越後から新田義宗が信濃に侵入、北条時行・諏訪頼嗣がこれに呼応して南朝勢が一時勢いを見せたが、貞宗はこれらを攻略して信濃における足利方優勢を固めている
・康永二年・興国四年(1343)3月には南朝の総帥・北畠親房が拠点を置く常陸・大宝城の攻略にも参加した。
・康永三年(1344)に、信濃守護などの家督を政長に譲った後は隠居して、京の四条高倉に住んでいた。

 

小笠原貞宗の事歴


・小笠原宗長の子で正応五年(1292)4月に信濃国松尾に生まれる・・異説:永仁二年(1294)生まれの説もある。幼名は「豊松丸」、長じて「彦五郎」、後年「信濃守護」。
・貞宗は信濃における拠点を筑摩郡井川(松本市)に移し、信濃支配の体制を固めた。これは、北条残党が北信濃に多く、足利幕府に反旗していたため、北信濃制圧の拠点の意味合いが大きかった。戦歴を見ると、ほぼ歴戦で各地を回り、居住の長いのは京都と思われる。井川に、代官がいた可能性は高いが。・・・後に、府中小笠原家になった
・元から渡来した禅僧・清拙正澄に深く帰依し、その隠居所となった鎌倉・建長寺の「禅居庵」は貞宗が建ててたほか、清拙正澄を開山として信濃伊賀良荘に「開禅寺」を建てている。
・後世、小笠原氏が武家の礼儀作法の家となり「小笠原流」が名高くなると、貞宗はその「中興の祖」として祭り上げられ、先祖伝来の作法を大成したうえ後醍醐天皇や足利尊氏に指導までしたことにされたが、天皇まで指導は事実ではないとみられる。ただ彼が騎射にすぐれ、笠懸や犬追物で名を馳せたのは事実のようである。
・伝辞世の歌:「地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな」
・家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」・・笠系伝記。
・貞和三年・正平二年(1347)5月26日に56歳、京都で没した。

貞宗の母は・・・
・貞宗の母について、
・・・吉川弘文館『国史大辞典』は赤沢伊豆守政経の女と記しますが、
・・・安田元久編『鎌倉・室町人名事典』では貞宗の母について何ら記しません。
・・・「続群書類従」巻125所収の「小笠原系図」では、貞宗の母は「中原経行女」と記。
・・赤沢氏女説は疑問とされていますが、宗長が松尾にいた時の正妻・赤沢氏女、京都にいた時の妾妻・中原経行女とすれば、矛盾が無くなります。この方が可能性が高いが、確認の資料はありません。

信濃守の官名について ・・・どのような役職か詳らかではありません
信濃守
小笠原長政 (1294年以前?)

小笠原長氏 (1310年以前?)

小笠原宗長 (1330年以前?)

・・・・・

 

貞宗の時代の分家


貞宗の時代に、後世まで続く分家がほぼ出そろいます。
最初に、甲斐・南部に分家して、後に東北に家門を張った南部家。東北の南部の地名が、元々あったものか、南部氏が地頭で進出して、家名が南部の地名を残したのか、調べてはありません。
伴野家は、佐久地方に地頭として根を張りましたが、勢力争いに巻き込まれて一度没落したが、血累を温存して、後に復活しております。本来は小笠原惣領家ですが、没落の時惣領家を松尾に譲っております。
大井家は、佐久の伴野家の付近に拠点を置いており、松尾惣領家と遠い信濃国であったため、貞宗は、同族大井家に、信濃国守護代を任せて、東信を知行して貰ったようです。勝手な想像ですが、塩田にあった、隠居所の北条家の、守衛の役目もあったのではないかと考えています。これは思いつきなので、資料は調べていません。
浅間郷の赤沢家は、小笠原長径の子に当たる家柄で、貞宗が府中に進出した時に、浅間郷で、貞宗の軍勢の中心になった同族重臣です。信濃に残る北条残党の対応に、貞宗と命運をともにしたようです。北信濃の塩崎城は、赤沢氏の分家で、幕府に反目する北信濃の豪族に対する、幕府側・小笠原家橋頭堡の役割だったかも知れません。
鈴岡小笠原家は、貞宗の時代、まだ出来ていません。
坂西家は、貞宗の子が、郊戸荘に分家して、以後松尾小笠原の同族重臣として、命運をともにします。
松尾小笠原は惣領家でありました。貞宗の頃城累は造らず、居館・陣屋であったようです。
府中小笠原も、貞宗の頃は、出先出張所の居館・陣屋の規模のようです。
下条氏は、どうも出自は、甲斐武田家のようで、小笠原惣領家と近接であるため、何度かの婚姻の末、同族的になったようです。
阿波国小笠原は、後に管領家の細川家との関係を深め、三好家に名前をかえて存続するが、尾張織田家の勢力拡大で、織田家が近畿に進出する時に敗れて、没落します。
阿波小笠原家から出た、石見小笠原家は、山陰の強豪・大内氏や尼子氏などに翻弄されながら、最後は毛利氏に仕えたが没落します。

こうして、小笠原一族を眺めると、全国にこれだけ多くの"大名クラス”の城主を出した一族は、他に見当たりません。しかし、図抜けた戦闘力を持つ戦国大名も見当たらないのも確かで、この点が今一つ地元の評価を上げない原因のように思えます。しかし、そこそこの大名クラスを排出していることは確かで、これは、幕府とか朝廷に対して「小笠原礼法」を確立して認められ、古事儀礼の礼式の家として指導的な役割を担っていたためと思われます。・・・小笠原礼法は、少し難解で、いまだ理解しておりません。