探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家の源流

2014-04-03 03:32:03 | 歴史

小笠原氏

 家紋 :三階菱    小笠原家の源流 

本姓 :清和源氏義光流
家祖 :小笠原長清
出身地: 甲斐国巨摩郡小笠原
主な根拠地: 信濃国、豊前国 など
著名な人物 小笠原長清、貞宗、長時、貞慶、秀政
支流、分家 三好氏、伴野氏、跡部氏、赤沢氏、大井氏、林氏(三河)


出自・概要

小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原庄があった現在の山梨県北杜市と、原小笠原庄があった現在の山梨県南アルプス市に居館があったとされる。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道や兵法などにも小笠原流があるが、その起源は多様である。・・また、抹茶の茶道においては、江戸時代に千利休流の山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護したり、村田珠光流の古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。
鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。

鎌倉時代
小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である。
なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり、阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て石見小笠原氏となる。

小笠原氏・初期系譜

            甲斐源氏
 ┏━━━┳━━━━╋━━━━━┓
 逸見 武田信義 加賀美遠光  安田義定
     ┏━━━━━╋━━━━━┓
   秋山光朝 小笠原長清1 南部光行(南部氏
              ┣━━━┳━━━━┓
            長経2 伴野時長 大井朝光(伴野氏・大井氏
              ┣━━┳━━━━━━━━━━━━┓
            長忠3 長房(阿波小笠原氏)     赤沢清経(赤沢氏
              ┣━┳━┓                 ┃
            長政4                    赤沢安経
              ┣━┳━┳━┳━┳━┳━┓    ┃
            長氏5                    赤沢経顕
              ┣━┳━┳━┳━┳━┳━┳━ 
            宗長6
              ┣━━━━━━━━━貞長・京都小笠原家
            貞宗7 

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加賀美遠光

   

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 康治2年2月28日(1143年3月16日)
死没 寛喜2年4月19日(1230年6月6日)?
改名 豊光丸、遠光、別名 加賀美次郎
墓所 山梨県甲府市遠光寺
官位 信濃守
氏族 甲斐源氏、加賀美氏
父母 父:源義清 ?、母:佐竹義業の末娘
兄弟 清光、師光、遠光、安田義定
妻 和田義盛の娘(もしくは姉妹)
子 秋山光朝、小笠原長清、南部光行

加賀美遠光は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男。・・加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷を本領とした。

生涯
伝承によれば、承安元年(1171)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され、鳴弦の術を行わせた。無事に怪異は治まり、遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県南巨摩郡身延町の大聖寺に安置され、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。・・治承・寿永の乱に際しては次男の小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の文治元年(1185)には源頼朝より御門葉の一人として重きを置かれ信濃守に任じられた。以後は頼朝の家臣として活動し、しばしば『吾妻鏡』に記述が見られる。・・晩年には衰微していた真言宗の古刹である法善寺を再興。また現在甲府市にある遠光寺を創建したほか、遠光創建を伝える寺社も多い。・・5人の息子がいるが、長男の秋山光朝は平家嫡流である平重盛の娘を妻としていたため頼朝に滅ぼされたものの、その系譜は秋山氏として続いている。次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった。四男の光経が加賀美氏を継ぎ、五男の於曽光俊(経行)は奥州合戦の際に軍略で功を立てた。

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小笠原長清

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 応保2年3月5日(1162年4月20日)
死没 仁治3年7月15日(1242年8月12日)
改名 豊松丸、加賀美長清、小笠原長清、別名 次郎
官位 信濃守、阿波国守護
氏族 甲斐源氏加賀美氏、小笠原氏
父母 加賀美遠光、和田義盛の娘
兄弟 秋山光朝、長清、南部光行、加賀美光経、
妻 上総広常の娘
子 小笠原長経、長光、清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、清時、清家、長隆、長文、伴野行正、行信、伴野行意

小笠原長清は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。文治元年(1185)、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。

略歴
高倉天皇に滝口武者として仕えた父・遠光の所領のうち、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続して、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。・・源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り頼朝の下に参じたと伝えられる。治承・寿永の乱において戦功を重ね、父と同じ信濃守に任じられる。また海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。・・頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、建仁三年(1203)9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。・・承久三年(1221)6月の承久の乱では、幕府方の東山道大将軍として子息8名と共に京へ攻め上って功績を挙げ、「七ケ国管領」となる。同年7月、京方の公卿源有雅を甲斐山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑している。同年に阿波国守護となる。・・仁治三年(1242)7月15日、信濃にて81歳で死去。・・『吾妻鏡』に拠れば長清は弓馬の術に優れ、建久四年(1193)3月21日に鎌倉の鶴岡八幡宮にへ奉納された流鏑馬においては22人の射手が選ばれているが、この時に長清は武田信光とともに射手を務めたという。

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小笠原長経

時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 治承3年(1179年)
死没 宝治元年(1247年)
別名 弥太郎、小笠原入道
幕府 鎌倉幕府 阿波国守護
主君 源頼家
氏族 甲斐源氏、小笠原氏
父母 父:小笠原長清、母:藤原邦綱の娘?
兄弟 長経、伴野時長他
妻 家女房
子 七郎長村、長忠、長房、赤沢清経

小笠原長経は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。

生涯
二代将軍源頼家の近習として仕え、蹴鞠の相手や流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、安達景盛が頼家の怒りを買った際、頼家の命を受けて安達邸を抱囲している。・・建仁三年(1203)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。・・承久三年(1221)、承久の乱で父長清は、鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応二年(1223)、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。・・出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている・・『葉黄記』。・・宝治元年(1247)、69歳で死去。

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小笠原長忠

時代 鎌倉時代中期
生誕 不明、死没 不明
別名 松尾長忠、又二郎
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長経
兄弟 小笠原長村、小笠原長忠、小笠原長房、赤沢清経
子 小笠原長政

小笠原長忠は、鎌倉時代中期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原氏の一族。小笠原長経の子。伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される。・・父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、後に弟の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し、伊那地方の伊賀良庄の松尾の地に居住した。長房の子孫は阿波小笠原氏となる。小笠原家の家譜によると長忠は松尾の地で生まれたとされる。・・長忠とその子の長政の時代、信濃において幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏であったが、霜月騒動に連座して伴野長泰が殺害されるなど没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。長氏の子孫は室町時代には信濃守護を務め(信濃小笠原氏)、江戸時代には五大名が存続し、譜代大名として遇されることになる。

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小笠原長政 ・・詳細不明


時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長忠
子:長氏 長朝 長直 長廉 長義 長数 泰清

小笠原長政・・ 鎌倉時代の人物。信濃小笠原氏。小笠原長忠の子。小笠原長氏の父。

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小笠原長氏 ・・詳細不明


時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長政
子:宗長、長頼 泰氏 長綱 丸毛兼頼 山中政宗 常葉光宗 赤沢長興 津毛経氏

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小笠原宗長 ・・詳細不明

時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:長氏
子:貞宗、貞長

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小笠原貞宗

時代 鎌倉時代後期 - 室町時代前期
生誕 正応5年4月12日(1292年4月30日)
死没 正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)
改名 豊松丸、貞宗、別名 彦五郎
官位 右馬助、治部大輔、信濃守
幕府 鎌倉幕府→室町幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原宗長、母:赤沢政常の娘
兄弟 貞宗、貞長
子 政長、宗政、坂西宗満

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