探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

宗長親王戦記 1:始めに

2015-02-17 19:33:28 | 歴史

宗長親王戦記


宗長親王戦記 1:始めに
南北朝の時代に生きた宗長親王は、その生涯を見ると、どう見ても戦乱の勇姿の武将の姿が浮かんでこない。初期においては、後醍醐天皇の皇子として、皇子なるが故に南朝の牽引の将の末席に名を連ね、次ぎ次と生まれの早い皇子達が潰えて、とうとう関東以北の南朝の最高司令部・”東征将軍”に祭り上げられた人物であった。しかし、その生涯は断片的である。事跡と事跡の間は、かなりの長きに渡り空白が多く謎も多い。その行状も、武人としてよりも文人としての事跡のほうが多いのかも知れない。
今回の作業は、その空白を幾分か埋める作業であり、その作業が”宗良親王”の歴史の中の役割と人物像を鮮明に出来れば成功である。

方法は、太平記を元にした年譜を中心に、李花集名などの詞書きに残る足跡を重ねて見て、さらに、北条時行の年譜と比較して、宗良親王の行状年表を作ることから始めました。例によって、ファイリングは、アウトラインプロセッサで、データベース化しました。戦記は、これをもとに書きます。


小坂円忠 そして「観応の擾乱」  <相模次郎物語> 完

2015-01-31 23:38:21 | 歴史

7:小坂円忠 そして「観応の擾乱」  <相模次郎物語>

承前・・・「諏訪頼継は諏訪に逃れ、時行もいずれかへ逃れ去ったという」
 さて、二人はどうなったのでしょうか?

諏訪頼継のこと

「諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継であった。このため朝敵となった頼継は神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。・・・ 頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができた。その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けた。」・・・車山R.Mより

諏訪頼継が大祝になって北条時行の大徳寺の戦いに与した年齢が十二歳、まだ幼年だが、すでに元服を終えている。父の時継、祖父の頼重の、北条得宗家に対する恩義と熱い忠誠心は、幼い頼継にも受け継がれたらしい。しかし時の足利幕府はすでに巨大な権力となっていた。北条時行に対峙する幕府側の、最前線を指揮するのは信濃守護・小笠原貞宗である。大徳寺の戦いに敗れた諏訪頼継を執拗に探索・追討するものは小笠原の手によるものである。諏訪頼継は、広大な諏訪上社の狩り場と言われる神域に隠れた。この神域とは、霧ヶ峰の高原一帯でもあり、高遠から大河原までの秋葉街道沿いの両側の山岳でもある。特に秋葉街道沿いの広域は、言葉では軽いが、赤石山脈の大部分を含み、”またぎ”や”木地師”や”山窩”の領民は”諏訪神”に信仰の厚い氏子であり、捕縛はほぼ不可能に近い。さらに、北条時行の烏帽子親が諏訪頼重と言うことは、時行は、諏訪家一族同様と言うことにもなる。この時行に対する同族意識や愛情は、一人大祝・頼継だけのものだったとは到底思えない。
とすれば、諏訪頼継を小笠原守護から隠したのは、諏訪一族が全体協力したと見る方が筋道が通る。・・・所謂諏訪一族は、幕府に対して、面従腹背だったわけで、諏訪頼継を隠した場所は高遠であった可能性は極めて高い。
とはいえ、幕府に逆らったとして、体裁は諏訪上社の大祝の職は剥奪されて、守護の管理下で、諏訪家庶流の藤沢家の「藤沢政頼」が大祝を継ぐことになった。しかし、面従腹背の諏訪家の神官たちのもとで、新しい”大祝”がうまく行くはずもない。

ここで登場するのが、小坂円忠である。
小坂円忠は、もとは諏訪円忠を名乗ってたが、夢想国師(僧侶)の強力な推薦で室町幕府の被官になっていたのだ。円忠はかなり優秀な文官であったらしい。鎌倉幕府の時も文官であり、頭抜けており認められていたが、その能力を惜しんだ尊氏が強引に尊氏の幕府に登用した。

相模次郎(=時行)を押し立てて建武の新政に立ち向かい、さらに室町幕府が成立するに及んで、特権を剥奪された諏訪上社の経済基盤はかなり疲弊し、さらに大祝を中心とする諏訪社の神事儀式が崩壊寸前の危機を目前にしたとき、小坂円忠は、諏訪上社を現実路線に切り替えるのに一役買ったのだ。文官でありながら、かなり豪腕であったという。
これが、「大祝信重解状」と「諏訪大明神画詞」といわれるものである。・・・「大祝信重解状」は、諏訪家庶流の藤沢家の「藤沢政頼」の大祝は”現人神”にあらず、として解任し、諏訪頼継の弟・信重を大祝にすること。・・「諏訪大明神画詞」は、諏訪上社に伝わる神事儀式を、画と詞で分かりやすく説明し、神事儀式の再構築を計ることであった。・・・この二つにより、諏訪大社が再び軍神としての地位を取り戻し、武士から信仰を集めるようになって行った。こうなれば、室町幕府の庇護下で、経済的基盤と軍神としての立場を確保できれば、諏訪大明神として幕府に逆らう理由は無くなる。こうして諏訪大社は、足利幕府に懐柔されていった。

それからもう一つ、頼継の弟・信重を大祝にした後、諏訪頼継本人を神職から外し、高遠に隠棲させ、諏訪神領の代官に保科氏を宛がい、高遠・諏訪家の経済的基盤の裁量を任せたのも、この時ではないかと考えられる ・・・この部分は推測であるが、以後の代官・保科の立ち位置を考察するとこれ以外には考えぬくい。この保科家は、諏訪家の文明の内訌に活躍する代官・保科貞親の一族に繋がる。しかしこの部分の資料は残っていないようだが、そうだとすれば、保科家は、大祝に付属する代官であって、高遠・諏訪家の代官ではない。この保科が、保科弥三郎に通じるのか、北信濃の保科に通じるのか、諏訪にもともと居た保科か、定かではないが、諏訪頼重と陽動で守護所を襲った保科弥三郎の系流の可能性は高いと思われます。

大祝信重解状

この様にして生まれた、高遠・諏訪家は、上社・諏訪大祝家が現実路線を歩む中、頼重・時継の意志を語り継ぎ、上社本流の意識を持続させ、時折本流への回帰を企てたものと理解します。この部分が曖昧だと、諏訪家庶流の高遠・諏訪家が下克上を企てたとする、底の浅い認識に陥ります。その証拠に、時行に援軍した大祝頼継の名が、何代かあとに、意志の持続として復活しています。・・・諏訪家の家系図の複雑さは、同名を象徴的に何世か後に復活させるところで、ここが理解を困難にさせています。・・(保科家も同様に旧名復活の系図を持ちます)

諏訪大明神画詞

小坂(諏訪)円忠 ・・・車山R.Mより

中世以前の諏訪神社と諏訪地方の記録は少ない。「大祝信重解状」と「諏訪大明神画詞」は、その数少ない記録である。「画詞」の編纂者が諏訪(小坂)円忠で、延文元年(1356)に製作された。
・・ 諏訪円忠は、上社大祝敦信(=盛重)の弟・小坂助忠が諏訪郡小坂を本貫としたため、助忠の曾孫・円忠も小坂を称した。武人の系統であるが、鎌倉に生まれ住み、若くして北条氏の幕府・政所の所員となり文官として育った。小坂家は鎌倉に住すると諏訪姓を名乗った。鎌倉幕府健在の時は諏訪一族こぞって幕府に仕えた。信濃国が北条家の守護地で、諏訪氏はその各地で地頭となった。北条氏が滅亡し、諏訪盛重の一族も殉じている。円忠は本質的に文官でありその実務能力を買われ、建武中興の折りには朝廷に仕え雑訴決断所の寄人になった。
・・ 建武中興により朝廷は、北条氏一族の所領を奪い、功労のあった将士に分け与えたが、恩賞の請求や本領安堵の訴訟が頻発して、恩賞方も雑訴決断所もその裁決に困難を極めった。特に地方政治に暗く実務能力を欠く公卿たちが担当したため、公平を欠き新政府の信頼と威信を著しく損なった。
・・ 建武二年(1335)8月、全国を八番に分け、その各々に北条幕府当時の有能な人物を再登用することにした。円忠はこのとき第三番の東山道を担当させられた。その寄人の首席は洞院公賢・藤原宗成で、その下に高師直・長井高広・佐々木如覚・斉藤基夏等の名が見られるのは興味深い。円忠は公事実務の中心として、彼等にとって欠かせない人材であった。
・・ 建武中興の親政は中先代の乱を契機に短日月で破れ、円忠も諏訪一族であれば京での立場は困難を極めたであろう。一端は諏訪に戻るが、尊氏の信頼は変わらず、 乱後荒廃する諏訪郡の再建に尽力している。その人脈を生かし信濃守護小笠原と甲斐守護武田の後援を得て、諏訪大社信仰の再興のため、文官育ちでありながら豪腕を振るい、庶流の大祝、藤沢氏出自の政頼は現人神になりえずとして廃し、高遠に逼塞する頼継の弟信嗣を大祝とし、その復権を果たした。
・・ 円忠は鎌倉幕府が諏訪大社に与えた特権を復活させ、その御造営は信濃国の奉仕、さらに諸祭事の御頭制度も室町幕府に再確認させた。 北条氏滅亡後、新興勢力に簒奪された社領の回復にも務めている
・・ 嘉歴四年(1329)の『鎌倉幕府下知状案』以降、諏訪大社上下社の神宮寺で釈迦の誕生を祝う花祭(潅仏会)と釈尊の入滅を偲ぶ常楽会(涅槃会)が行われるようになった。この行事には左頭と右頭の二頭役勤仕とした。下社の「常楽会」と合わせて諏訪大社の花会を創設し「両社相対して如来設化(遷化)の始終をつかさどる」とした。・・ 円忠は諏訪大進、法橋、法眼の地位にあり、諏訪上社の執行として、その花会頭と潅仏会頭の仏式神事を再興させ、室町幕府の支援を得て信濃地頭を御頭役とする信濃武士団を総動員する制度とした。それは安定しない信濃国内を統制する口実でもあった。
・・ 足利尊氏の幕府ができると、夢窓国師による尊氏への推挙で再び京へ上った。尊氏は円忠を右筆方衆としたが、のちに評定衆・引付衆等の幕府の要職に就かせる。ついには暦応元年(1338)守護奉行として重用し、全国の守護を監督、遷転する任務に当たらせた。
・・ 1338年足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開いたが、後醍醐天皇の菩提を弔うために京都嵯峨に天竜寺を建立することにした。そして暦応二年(1339)この天竜寺の造営奉行に任命されたのが諏訪円忠であった。興国元年(1340)に始まるが、尊氏・直義兄弟が自ら土を運んだと言われ、七年後に完成した。この間京では当時新興宗教である禅宗に対する風当たりは強かった。比叡山などの僧徒の強訴もあって円忠の苦労も大変であった。 尊氏は円忠の功に報いて近江国赤野井郷に領地を与えた。すると円忠は、後に夢窓国師の死後、赤野井郷の権益を山城国臨川寺に 、信州の領地・四宮荘を天竜寺に寄進した。 円忠は尊氏の歿後、二代将軍・義詮にも幕府の奉行人として仕えている。
・・ この天竜寺造営に際し、さらに全国六十六ヶ国と二島に一寺(安国寺)と一塔(利生塔)を建てることになる。足利尊氏、足利直義兄弟は、夢窓疎石に深く帰依しおり、疎石はかねがね兄弟に元弘以来の内乱で戦没した死者を弔い、平和を祈願する証として、各国ごとに「一寺一塔の建造」を勧めていた。聖武天皇の国分寺に倣ったと考えられるが、これにより足利氏の支配が全国に及んだ事を誇示する意味もあった。
・・ 歴応二年(1339)造営される安国寺は新しく伽藍を建立するのではなく、その国々の中心にある都合のよい寺をそれに充てた。信州では善光寺か、少なくとも小笠原氏の守護所がある筑摩が有力候補地であったが、信濃国の安国寺設置を担当していたのが諏訪円忠で、当時幕府の公事奉行であったためか、自領・小坂に近く、諏訪の上社前宮により近い地・諏訪武居荘小飼に建立した(茅野市宮川)。その後当地は、安国寺村といわれた。諏訪は長く信濃の反尊氏派として戦ってきたが、それもついに屈したと言える象徴的な証となった。
・・ 諏訪円忠はこの他、祭七巻、縁起五巻からなる「諏訪大明神縁起画詞」という絵巻物を編纂し、各方面に諏訪信仰を普及させた。諏訪大社には、かつて「諏訪社祭絵」という縁起書があったが、当時、既に失われていた。そこで「諏訪大明神縁起画詞」という当時流行していた絵巻物形式で、後世に伝えようとした。中世以前の諏訪神社の成立と神験の縁起物語、年中祭事、諏訪地方の祭祀、風俗等が絵画と解説文でよく記録されていた。 諏訪神社の縁起や伝承・仏説を国史から調べ、地元の諏訪神社から祭事の記録を得ている。貞和二年(1347)神道家の神祇大副(たいふ)吉田兼豊に古伝の調査を依頼し、延文元年(1356)、当代一流の学者藤原宗成に諏訪神社の古記録について尋ねている。正平元年(1346)頃から円忠が稿を練り、青蓮院尊円親王をはじめ七人の名手の筆により、絵は中務小輔隆盛他四人で、当時最高の名筆の集大成といえった。装丁も見事であった伝えられている。
・・ 縁起(歴史)五巻、祭七巻の絵詞を見て尊氏は感動して後光厳上皇に、各巻の外題(書名)の親筆を願い、その巻々の末に自ら 漢文で「右は敬神により宸翰(天皇の親筆)外題をくださるの間、後の証として謹んで奥筆を加えるのみ」 延文元年(1356)丙申十一月二十八日 征夷大将軍正二位 源朝臣尊氏 と署名した。
・・「画詞」は京都諏訪氏の円忠家に伝えられ、嘉吉二年(1442)、伏見宮の要請で諏訪将監康嗣が、これを公開している。彼は円忠の子であり、その系統は代々奉行人として幕府に仕えている。公開当時、非常な評判を呼んだが現存はしていない。ただ詞書の写本だけが残っている。
・・ 慶長六年(1601)、京都豊国神社の社僧・梵舜による写本といわれる『諏方縁起絵巻』が、現在、東京国立博物館に所蔵されている。
・・ 諏訪円忠は、政事以外に神道、禅宗、密教、和歌にも通じ、「新千載和歌集」「新後拾遺集」「菟玖玻集」にもその歌が掲載されている。
・・・ 滋賀県守山市赤野井町に「大庄屋諏訪家屋敷」がある。「大庄屋諏訪家屋敷」の歴史は、暦応三年(1340)に、諏訪円忠が足利尊氏に地頭職に任じられた事に始まる。その子孫は土着し、江戸時代には代官職を経て、赤野井一帯の小津郷の大庄屋として活躍したという。

小坂円忠により、疲弊した諏訪上社が中興されが、以後諏訪上社は、室町幕府に反目の行動はしていない。しかし、諏訪家庶流と高遠・諏訪家は、南朝・宗良親王を助けたとする史実は多く存在するが、それら庶流も、現実の幕府権力に迎合していったようだ。その歩みは、信濃に於ける南朝の衰退と速度を同じにしているかのようである。

大徳王寺城陥落の後、北条時行は何処へ

北条時行が、再び歴史上に名を表すのは、観応の擾乱の時になります。正平七年(1352)、観応の擾乱とありますから、1340年から1352年の十二年間、北条時行はどこかに身を潜めていたことになります。
正式な歴史書に記載がありませんから、伝承に頼るしかありません。そして衰えたとはいえ時行には身内同然の諏訪家継系流の支配地で、経済的支援も期待出来る代官保科の管轄の領域と考えるのが、一番合理的です。
宗長親王が四十年に亘って拠点とした大河原・大草の大草の地区に二つの伝承が残っています。
○大草・桶谷地区 ・・・かっては王家谷と読んでいたらしいが、時行の居場所が特定されるので桶谷に変名したという
○大草・四徳(四徳小屋)
伝承なので定かではありません。証明する術も今は無い。

その後・・
正平七年(1352)閏2月、観応の擾乱に乗じ、南朝方は京・鎌倉同時奪還計画を立てる。
時行は新田義興・義宗兄弟らとともに鎌倉攻めに参加、一時は鎌倉を占領したが、足利尊氏に敗れ、またもや鎌倉を脱出するも、捕縛される。
正平八年/文和二年(1353)5月20日、時行は鎌倉龍口の刑場で処刑された。

ついに、ついに、北条得宗家の嫡流の血は途絶えて、北条鎌倉府の復刻は夢と終わった。

 

足利尊氏と足利直義の反目 ・・観応の擾乱

延元三・暦応元年(1338)、尊氏は光明天皇から正式に征夷大将軍に任じられ室町幕府を開きます。翌年には後醍醐天皇が吉野で死去しますが、その死を悲しんだ尊氏は、慰霊のために天龍寺造営を、その資金調達に元王朝に天龍寺船を派遣。
この頃から、尊氏の弟・直義と執事・高師直らの対立が表面化します(観応の擾乱)。尊氏は当初傍観者的立場を取りますが、師直派にかつがれ、弟・直義と対立します。
・・正平四年・貞和五年(1349)、師直軍の襲撃を受けた直義が、尊氏の邸に逃げ込み、さらに師直が尊氏邸を包囲するという事件が発生。この事件は、直義の出家で解決し、直義は政務を引退します。
・・その後、尊氏は嫡男・義詮を鎌倉より呼び政務を担当させ、鎌倉には次男・基氏を下して鎌倉府を設置、関東を慰撫します。
・・ところがこの後、直義の猶子・直冬(尊氏の庶子)が中国地方で反乱を起こします。正平五年・観応元年(1350)、尊氏は直冬討伐のために遠征、この隙に直義が京都を脱出、南朝方に付いてしまいます。
・・直義軍は有力武将を味方につけて強大になり、義詮はその勢いに押されて京を追われます。軍を返した尊氏も摂津国で直義に敗れたため、正平六年・観応二年(1351)、尊氏は高師直らの出家を条件に直義と和睦。高師直は、護送中に謀殺されます。
・・発言力を増した直義に対して危機感を覚えた尊氏・義詮は、京極高氏のすすめもあって一計を案じます。その計略は、京極高氏が謀反を起こし、その征伐で尊氏・義詮が出陣して京を脱出、南朝方と和睦して南朝を味方につける、というもので、これは尊氏が南朝に降伏するかたちで実現、元号を南朝のものに統一し、北朝方の崇光天皇は退位して上皇となりました(正平の一統)。
・・尊氏のこの動きに危機を感じた直義は京都を脱出、尊氏はこれを追撃して駿河相模などで戦って破ります。捉えられた直義は鎌倉に幽閉され、正平七年・観応三年(1352)に急死する。尊氏による毒殺と言われています。
・・しかしこの同年、尊氏の留守を狙って南朝の軍が京都を制圧し、守備していた義詮は追い出されます。南朝は北朝方上皇を奪って幽閉、正平の一統が破綻してしまいます。
・・尊氏は、宗良親王や新田義興・義宗(義貞の子)、さらに北条時行などの南朝方を武蔵国各地で撃破して関東を制圧、東上して京都を奪回します。


大徳王寺の戦い  <相模次郎物語>

2015-01-31 16:00:12 | 歴史

6:大徳王寺の戦い  <相模次郎物語>


 ・・・ この戦いは、北条時行が”北条得宗家再興”を目的とする「北条残党」の最後の戦いになります。以後の北条残党は、南朝派の中に生き残りをかけ、存在を薄くしていきます。

 冠親の諏訪頼重の孫・諏訪頼継が大祝になっており、諏訪神党を代表して、若年ながら援軍します。中先代の役を先導した父・時継と爺・頼重は、鎌倉で幕府軍・新田義貞に敗北し自害しています。その後、暫く伊豆に隠れていた時行は、南朝最強の軍団を率いた北畠顕家に望みを託します。その為には、北条得宗家を滅ぼした仇敵の後醍醐天皇に赦しを得て朝敵の汚名を削ぎ、仲直りせねば成りません。

年譜 ・・・

1337.7  延元二年、北条時行は、後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る
1337.12 北条時行が南朝に降伏し、北畠勢が「鎌倉攻め」をしている時に、北畠顕家軍に合流し」ます
1338.1.20 青野原の戦い。北畠軍として、足利軍と戦います。この戦いに、宗良親王も合流します。
・・・ 青野原の戦いの勝利の後、次々と新手を繰り出して参戦してくる足利勢に、戦い疲れた顕家軍は吉野へ退きます。時行、宗長親王、北畠顕家は吉野へ。
そして ・・・
1338.6.10 般若坂・石津の戦い・北畠顕家は、般若坂で足利勢に敗れ、石津にて戦死。
1338.9 南朝各皇子を戦地へ派遣計。
    ・・・義良親王を陸奥へ、
    ・・・宗良親王を遠江へ、
    ・・・懐良親王を九州へ
    ・・・義良親王・宗良親王・北畠親房ら伊勢大湊より出航する。
    ・・・大風に遭い義良親王の船は伊勢へ吹き戻される。
    ・・・宗良親王は遠江へ、親房は常陸へ到着する。
    ・・・北条時行は、宗良に同行したと思われる。
1338.9.11 延元三年 暦応元年
    ・宗良 舟で、伊勢大湊より陸奥国府へ出航、
    ・しかし難破し遠江に漂着、
    ・井伊谷の井伊道政のもとへ。井伊谷城。
・・・ 時行は、井伊谷で宗良親王らと分かれて信濃へ行きます。

** 中先代の役の時、先導した主力隊の諏訪頼重らの諏訪家の部隊はもういません。あの時糾合した大軍には、先駆けた保科弥三郎が合流していたと言う伝承があるが、以後もずっと同行していたかは定かではありません。伊豆に隠れたときは、側近が僅か二残り、伊豆の挙兵した時は伊豆の北条党が加わり、鎌倉で、顕家軍に合流したときに、鎌倉に残っていた北条党が大挙して時行軍に糾合して五千の手勢に膨れていました。その後、青野原で勝利したものの、後の戦いで時行軍は半数に減り、遠州灘の海難でさらに減っています。
井伊城に暫く居てから、時行は、諏訪へ戻り、兵を募って再挙兵することを決意します。
宗長親王とともに戦ったのは、青野原以来井伊谷城まで約十ヶ月ほど、分かれて時行は信濃へ向かいます。 **

大徳王寺の戦い

興国元年/暦応三年(1340)六月、時行は諏訪頼継の助けを得て信濃大徳王寺城で挙兵する。
箕輪町誌(歴史編)
・・・・・暦応三年(一三四〇六月、伊那郡の大徳王寺誠に立龍って、信濃の北朝方小笠原と戦う
*守矢文書の「守矢貞実手記」は、次のように記してある。
・・・・・(附裳)守矢貞実手記勢、時口難勝負付、難然次良殿、次無御方、手負死人時ヒ「貞実手記」(庚〉失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺域開落、大祝神職ト暦応三年献相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯箆メ交手負死人ニ事非例也、雄然父祖賢慮不二也、故疑念(辰)(当)(嗣、下同ジ)者、彼神道可拝見申、以此旨大祝頼継三七日勤行、致葬送大徳王寺城、口大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳籍、当国(諏訪)由、種秘印結ニハ、十三所致参詣、木門川いい]給口モ神事如守護小笠原貞宗、府中御家人相共、同廿六日馳向、七月一形斗也、如此印口仕神口大祝殿、授神長、日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ケ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多(『伊那史料叢書』)・・・・・

 => 諏訪上社の大祝諏訪頼継は、当年わずか十二歳であったが、北条得宗家に対する父祖の忠節を忘れがたく、時行に味方して馳せ参じ、数十度の合戦に奮闘した。時行勢は小競り合いでは数十回勝利したが、小笠原勢は関東管領に応援を要請し、新たに参入する新手の攻撃陣に、ついには力尽きて、十月二十三日大徳王寺城は落城し、諏訪頼継は諏訪に逃れ、時行もいずれかへ逃れ去ったという。

 ・・・南北朝時代、伊那の「大徳王寺城」に立て籠った北条時行と、足利氏に属する小笠原貞宗が4ヵ月に渡る合戦を繰り広げた。大徳王寺城は、長年その位置が確認できず幻の古戦場とされたが、守矢貞実手記の解読により溝口丸山の上ノ城であることが推考された。
 ・・・住所:伊那市長谷溝口丸山に比定される。常徳寺の上辺り。

さてここで、井伊谷城で敗れた宗良親王が、大徳王寺で挙兵した北条時行に合流すべく、井伊谷から大徳王寺を目指したとする説があります。この部分を検証してみます。

年譜

興国元年 1.29  三嶽城落ち、大平城に移る。(井伊谷城支城・三嶽城)
     6.24  北条時行信濃大徳王寺に兵を挙げる。
     8.20  大平城落ちる。(井伊谷支城・大平城)
     10.23  大徳王寺陥落。

上記の年譜をみると、宗良のいた井伊谷支城・大平城が落ちる頃は、緒戦華々しかった時行軍が疲弊してきて、さらに包囲している小笠原軍に援軍が続々押しかけてくる頃と重なります。
その頃の、歩行の移動では、距離や地理を考えると1~2ヶ月の移動の日数を要すると考えなければ成りません。大徳王寺城が落城する前後に、宗良親王が付近まで来ることは物理的には可能ですが、敵軍に包囲され陥落寸前の大徳王寺城に合流するとは到底思えない、と言うのが結論です。

1341 興国二年春   宗良親王、越後寺泊に在住。
 ・・・「興国二年(1341)、新田義貞の遺子・義宗に擁立された宗良親王は越後の寺泊へ進撃し・・・」
大徳王寺が陥落するのが、1340年(興国元年)十月末で、越後・寺泊に現れるのが1341年(興国二年)春。大徳王寺に立ち寄ったか否かは不明だが、そのまま北上して寺泊の新田義宗の元へ行っています。
1338年 南朝派の北畠顕家、新田義貞がともに戦死した後、南朝の軍事は、残存勢力大きい新田義宗が、北畠に変わって主力になっていきます。


時行、南朝に合流  <相模次郎物語>

2015-01-28 18:33:59 | 歴史

5:時行、南朝に合流  <相模次郎物語>

大平記』には
「亡親高時法師、臣たる道を弁へずして、つひに被亡を勅勘の下にえたりき」に始まる格調高い時行の勅免願いの条がある。後醍醐天皇は時行の説くところをもっともとして恩免を与え、以後時行は南朝に属して東奔西走していた。

同じく『大平記』には
「相模二郎時行も、すでに吉野殿(後醍醐〉より勅免を蒙りてん守ければ、伊豆国より起って五千余騎足柄・箱根に陣を取って」南朝方の諸将とともに鎌倉をうかがい、
また延元三年(1338)には北畠艇黙に従い、美濃青野原において小笠原貞宗の軍と交戦している。それについては、北朝方の二番洲俣手高大和守の三千余騎が洲俣川を渡りかけたところへ、「相模二郎時行五千余騎にて乱れ合ひ」これを撃退した働きも記されている。
時行はその後も顕家に従って各地に転戦したが敗れ、最後は故地である信濃に潜伏し、宗良親王に従って伊那・諏訪方面の諏訪氏の中から再起をはかつていた。

中先代の乱に敗れて以降の時行の行動の記録は少ない。知る限り、太平記の僅かな記録と諏訪大社に残る守矢文書のみで、後は伝承である。
伊豆に隠れて二年後、・・・
延元二年(1337)、北条時行は、北条得宗家を滅ぼした後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る。これが太平記で記録が残る格調高い「勅免願いの条」である。後醍醐天皇は、文面に”感じ入り”、もっともとして恩免を与える。・・・ここに、北条残党の棟梁と南朝の合体が成り、共通の敵”足利尊氏”の幕府への反撃の体が整う。・・・各地の北条残党は、以後南朝側として戦線に参軍していくようになった。
同年、時行軍は伊豆より挙兵して、奥州から来た北畠顕家軍に合流する。

北畠顕家
延元二年(1337/建武四年)八月、鎮守府将軍北畠顕家は、吉野の後醍醐天皇の足利尊氏追討の呼びかけに応じ、義良親王(後村上天皇)を奉じ、腹心結城宗広や伊達行朝ら奥州勢を率い、霊山(相馬市・伊達市)を出発した。二度目の上洛戦。・・北畠勢は利根川の戦いで足利勢を破り、新田徳寿丸(新田義興)など南朝方の関東諸侯を吸収しつつ、十二月足利義詮が守る鎌倉を攻略。足利勢は、斯波家長が戦死(杉本城の戦い)、足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総方面に脱出。この前後、北条時行が南朝に降伏し、北畠勢に合流している。
延元三年(1338/暦応元年)一月二日、北畠勢は鎌倉を出発し、足利勢と戦いながら東海道を西上する。途中宗良親王と合流し、一月二十日には美濃国に到達した。京都の足利尊氏は、当時北陸の新田義貞への対処に苦慮、北畠勢の速い西上に対応が取れなかった。
鎌倉を脱出していた上杉憲顕ら足利勢は、北畠勢西上後に鎌倉を奪回し、さらに北畠勢を挟み撃ちにすべく西進を開始した。遠江国で今川範国、三河国で吉良満義・高師兼、美濃国で高師冬・土岐頼遠らの諸侯と合流し、約八万の軍勢になったと言われる。
美濃国の守護である土岐頼遠は、美濃国での決戦を主張した。北畠勢も、京都へ攻め入る前に、まず背後の足利勢と戦うことに決した。・・足利方は、墨俣川(現長良川)など美濃の各地で順次北畠勢に攻撃をかけた。最終的に、北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた。
青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰・佐々木道誉(京極道誉)・佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約五万の軍勢を差し向けた。援軍は、近江国・美濃国の国境である黒地川(黒血川)に布陣し、背水の陣を構えたと言われる。
北畠勢は青野原の戦いに勝利したものの、長期の行軍と度重なる戦闘に疲弊したため、新手の足利勢と戦う力は無く、近江から京都への突破をあきらめた。北陸の新田義貞と合流する選択肢もあったが、北畠勢は伊勢国・伊賀国を経て吉野へ向かった。・・足利方は窮地を脱し、体勢を立て直して高師直率いる軍勢を大和国に差し向けた。北畠顕家は、大和国般若坂で足利勢に敗れ、その後摂津国方面に転戦し京都奪回を狙ったものの、和泉国石津にて戦死した(石津の戦い)。・・土岐頼遠は、戦いに破れたが、北畠勢の上洛を食い止めて名声を高めた。

1337年 年譜

1337.7  延元二年、北条時行は、後醍醐天皇に「勅免願い」を申し出る
1337.12 北畠顕家は足利義詮が守る鎌倉を攻略。
  ・・・斯波家長が戦死(杉本城の戦い)、
  ・・・足利義詮・上杉憲顕・桃井直常・高重茂らは房総方面に脱出。
  ・・・北条時行が南朝に降伏し、北畠勢に合流している
1338.1.2 延元三年(暦応元年)北畠勢は鎌倉を出発し、東海道を西上する。
  ・・・宗良親王と合流し、一月二十日には美濃国に到達した
1338.1.20 青野原の戦い・足利方は、墨俣川(現長良川)で順次北畠勢に攻撃をかけた。
  ・・・北畠勢は青野原で足利勢に対し決定的な勝利を収めた
  ・・・青野原は現・大垣付近
1338.6.10 般若坂・石津の戦い・北畠顕家は、般若坂で足利勢に敗れ、石津にて戦死した
1338.閏7.2 藤島の戦い・新田義貞戦死。
1388. 閏7.25 南朝各皇子を戦地へ派遣計画を立てる。
       ・・・義良親王を陸奥へ、
       ・・・宗良親王を遠江へ、
       ・・・懐良親王を九州へ
           下す計画が立てられる。
1338.8 足利尊氏、征夷大将軍となる。
1338.9 義良親王・宗良親王・北畠親房ら伊勢大湊より出航する。
    ・・・大風に遭い義良親王の船は伊勢へ吹き戻される。
     ・・・宗良親王は遠江へ、親房は常陸へ到着する。
    ・・・北条時行は、宗良に同行したと思われる。


足利尊氏と後醍醐天皇の反目 <相模次郎物語>

2015-01-27 11:28:34 | 歴史

4:足利尊氏と後醍醐天皇の反目 <相模次郎物語>

承前・・・
「時行の「中先代の乱」が失敗に終わると、後醍醐天皇・足利尊氏の「建武の政権」内に亀裂が起こり、権力構造が変化していきます。 ・・そんな時、時行はどうしたのでしょうか?」

護良親王と後醍醐天皇の反目
護良親王は大塔宮とも呼ばれた。天台座主。後醍醐天皇の皇子。
後醍醐天皇が流されていたので、護良親王は、自ら討幕の令旨を各地の反幕府勢力に送った。この令旨に応じて,楠木正成が千早城で,赤松則村が播磨苔縄城で挙兵した。千早城が鎌倉幕府軍に包囲されたとき,護良親王は吉野,十津川,宇多,内郡の野伏に,兵糧米が包囲軍の手に渡らないように,往来の路を塞ぐことを命じている。のち,親王は河内信貴山に兵を進めて,赤松則村による京都侵入,六波羅攻撃を援助した。正慶二/元弘三年六月,後醍醐天皇が帰京して新政府を樹立した際,征夷大将軍の任官をめぐって足利尊氏と対立した。討幕の功労者足利尊氏とは相容れず、討幕後も上洛せず信貴山を拠点に尊氏を牽制する。・・幕府滅亡後に、後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、尊氏は鎮守府将軍となった。建武政権においても尊氏らを警戒していた。
やがて、尊氏のほか、後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐天皇の意で捕らえられ、鎌倉へ送られ、尊氏の弟足利直義の監視下に置かれた。・・後醍醐天皇との不和は、討幕戦争の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まると言われ、皇位簒奪は濡れ衣らしい。
北条時行の中先代の乱が起き、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、時行に奉じられる事を警戒した直義の命により殺害された。
=>後醍醐天皇・護良親王は王政復古を目指し、足利尊氏・直義は武家社会の再構築を目指していた。この方向性の違いから来る亀裂の目は、建武の時から表面化しつつあった。

楠正成
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年、結城親光、千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた。
最初護良親王の令旨に呼応するが、隣接の領地が得宗家家臣の湯浅氏だったためとされている。主家を護良親王とするが、護良親王が政権から脱落すると、後醍醐天皇の側近となる。出自が河内の土豪説から、北朝側から”悪党”と名指しされるが、得宗被官説もある。
*中世の悪党の定義は、既存支配体制への反抗者の意味で、現代の悪党と意味を異にする。
楠正成は、人格高潔な尊皇思想の持ち主で、熱心な南朝支持者であった。しかし、時代を見る目は正確で、建武の混乱は、後醍醐天皇が原因と読み解き、混乱を収めるのは、武家社会の棟梁として支持を集める尊氏しかいないと考えて、新田義貞と手を切り、後醍醐天皇に足利尊氏との和睦を進言する。しかし受け入れられず、湊川の戦いで自害する。戦のやり方は、”ゲリラ”的で天才であった。これは軍学になり、「南木流軍学」といった。
雑学:明治維新、特に水戸学で橘正成は見直され、橘公祭=招魂祭が盛り上がり、招魂社が設立され、維新軍の薩長土肥の戦没者が合祀されるに至った。この合祀で、薩長の政府により橘公祭の意味は曲げられ、さらに靖国神社に変名されると、完全に招魂社とは別物になった。

足利尊氏と後醍醐天皇の反目
後醍醐天皇は大覚寺系の天皇で、持明院統系への対抗が倒幕運動に発展。倒幕運動の一度目は未然に防がれ、二度目は身内の裏切りで発覚して、隠岐に流されます。後醍醐天皇が流されている間、倒幕運動をしたのが護良親王(大塔宮)です。・・大塔宮の反幕府運動に参加したのが楠木正成です。楠木正成は後醍醐天皇の兵げはなく大塔宮の直臣です。楠木氏は純粋に天皇に味方したのではなく、領地を接する湯浅氏に抵抗するためでした。
幕府を離反した足利尊氏は、征夷大将軍の位を望みますが、この位は大塔宮のものでした。大塔宮は、武士に近い考え方で、後に父の後醍醐天皇と反目していきます。・・後醍醐天皇は足利尊氏の野望を知っていて、それを利用して、大塔宮を殺害させます。・・ここで楠木正成が天皇の直属の指揮を受けるようになります。大塔宮の死で、征夷大将軍は空位になるが、天皇は尊氏を任官しなかった。それで新政に不満を持つ武士を糾合して、半ば強引に征夷大将軍に着き、幕府を開きます。そして、尊氏は天皇に謀反して、持明院統の皇族を擁して北朝を作ります。
直接の要因になったのが、中先代の乱の鎮圧の時の尊氏軍の恩賞です。戦功を上げたものに、尊氏は、天皇の裁量を待たずに、自ら恩賞します。この梯子外しで、亀裂は決定的となりました。武家の世の習いに従った恩賞で、武家社会の棟梁の地位を確実なものにしていきます。
尊氏が、持明院統の天皇を擁立して北朝を作ったが、後醍醐天皇は納得せず、自らの正統を主張して吉野で、南朝を宣言します。これからが長い、六十年間に亘る南北朝の対立の時代が始まります。

足利尊氏と新田義貞の反目
中先代の戦いで、尊氏は対立関係にあった新田義貞の所領を勝手に没収し、建武政権では恩賞方が行う恩賞として分配するなど自立の意思を示した。後醍醐は再三帰洛命令を出すが尊氏は無視し、義貞を非難する文書を送り返すだけであった。義貞は反論の文書を提出し、審議の結果義貞の訴えを認め、尊氏を討伐することに決定し、義貞に宣旨を下した。
これが、箱根・竹ノ下の戦いで、南北朝時代の建武二年(1335)12月11日に、足利尊氏勢と新田義貞勢の間で行われた合戦。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権は崩壊した。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。・・尊氏軍は義貞軍を追撃し、翌年1月3日近江瀬田唐橋で激突。搦め手の宇治で尊氏軍が勝利し、宮方は撤退し、京を巡る合戦に突入する。・・尊氏の挙兵は成功し、室町幕府へと繋がる。建武政権は崩壊し、南朝に零落し、南北朝時代へ突入する。宮方の敗因は義貞の器量不足というよりも後醍醐の失政に失望した有力武士が尊氏に大挙して付いたことに起因する。旧守護クラスの有力武士を抑制することで成立しようとした建武政権は旧守護クラスが擁立した足利尊氏に破れることとなった。
尊氏は京都占領をめぐる戦いで、北畠顕家・楠木正成・新田義貞に敗れます。新田義貞は西下する足利軍を追撃しますが、赤松円心の働きにより尊氏は虎口を脱し、九州に落ちびます。・・
尊氏は長門の少弐頼直、筑前の宗像氏範らの支援を受け、多々良浜の戦いで菊池武敏を破って九州を制圧します。・・ 勢力を建て直した尊氏は、再び上洛を開始、光厳上皇の院宣を掲げ、西国の武士を傘下に収めました。・・ 尊氏は湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破って京都を制圧、その後、比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れました。やむなく和議に応じた後醍醐天皇は、光厳上皇の弟・光明天皇に皇位を譲ります。

こうして尊氏は建武式目を定めて武家政権の設立を宣言、一方の後醍醐は、三種の神器を持って京都を脱出すると吉野へ逃れ、自らが正等の天皇であると宣言して南朝を開きました。・・こうして大覚寺統・後醍醐天皇の南朝と、尊氏が奉じる持明院統・光明天皇の北朝が対立する南北朝時代がはじまりました。

時行と後醍醐天皇
延元二年(1337)時行は吉野の後醍醐天皇と接触し、朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方に属する。
同年12月には北畠顕家の軍に合流して鎌倉を奪還、翌年正月には美濃青野原の戦いに参加。
延元三年(暦応元・1338)9月、後醍醐天皇の皇子たちが船に乗り諸国へ下った際には、時行も船団のうちに加わっている。

1336年の年譜 ・建武三年 延元元年

1 足利軍、中先代軍を鎮圧して入京。
  後醍醐天皇は新田義貞と楠正成に尊氏追討を命じるが敗れ、比叡山に逃れる。
  体勢を整え直した新田義貞・北畠顕家軍、尊氏を破り丹波へ敗退させる。
1.13 信濃守護小笠原貞宗、村上信貞と協力して清瀧城を攻める。
1.17 清瀧城破却。
1.23 村上信貞、香坂心覚の籠る牧城を攻める。
2 足利尊氏、九州へ走る
2 北条時興・丹波右近大夫、深志介知光らと挙兵。
2.15 小笠原貞宗・村上信貞、吉良時衡とともに麻績御厨で時興らと戦う
3 多々良浜の戦い。足利尊氏、菊地武敏を破る。義良親王・北畠顕家、陸奥へ帰る。
4 足利尊氏、九州を出発、東上。
5 湊川の戦い。楠木正成戦死
6 名和長年戦死。
6.26~27 小笠原経義・村上信貞、牧城を攻める。
8 光明天皇(北朝)践祚。
11 足利尊氏、建武式目制定。
12 後醍醐天皇、吉野に走る。南北朝分裂。

概略
中先代の乱に勝利した足利尊氏の軍は京へ戻るが、天皇を差し置いた恩賞などをかってに行った尊氏に、武家社会の復活を危惧した後醍醐天皇は、新田義貞や楠正成に追討を命じる。しかしこれを打ち破った尊氏が京に凱旋したが、後醍醐天皇は尊氏追討を呼びかけ、呼応した北畠顕家や新田義貞に京都を追放されて、西日本へ逃げる。九州で、後醍醐派の菊地武敏を破ると、西日本は一斉に尊氏に靡き、尊氏は大軍を持って東上、京都を目指す。尊氏東上の最大の戦いは湊川の戦いで、楠正成などはここで戦死し、勝利を収めた尊氏は京に入り、孝明天皇(北朝)を建て、建武式目を制定する。
吉野へ逃げた後醍醐天皇は、北朝はあるべき体裁が整わないとして正統と認めず、南朝を建てる。こうして、以後長い南北朝時代に突入・・・・・
この時期、いまだ不安定で、各地で北条残党の蜂起が続く。


二十日天下の中先代政権  <相模次郎物語>

2015-01-23 23:40:18 | 歴史

3:二十日天下の中先代政権  <相模次郎物語>

中先代の乱・なかせんだいのらん
建武二年(1335) 七月、北条高時の遺子時行が,信濃の諏訪頼重らの援助で鎌倉幕府再興を企て,足利直義を破って鎌倉を占拠したが,八月足利尊氏に鎮圧された事件。
中先代というのは,先代 (北条得宗家) と当代 (足利氏時代) との中間の代の意で,時行の鎌倉占拠の期間をさし,また時行自身のこという。

北条泰家
北条泰家は第十四代執権・北条高時の弟。泰家は幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を諏訪盛高に頼み、逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びています。泰家の妻と亀寿丸の母が安達氏で、また陸奥国北部一帯の地頭を、北条得宗家一族が独占しており、当地には地頭代として、多くの家臣集団がいて、得宗家が代々「蝦夷管領」であり、内紛で衰えたとはいえ、その代官・安藤一族が蝦夷集団の頂点にいました。記録によると、泰家は陸奥国に長居せず、直ぐ京に上り、西園寺公宗の元に隠れ、後醍醐政権への反撃を企てたようですが、事前に露見し公宗は捕縛、泰家は信濃へ逃げます。・・時行の中先代の乱の一年後、泰家は、麻績御厨で蜂起し、小笠原貞宗や村上一族と戦ったことが記録に残っています。その後の記録がないことから、逃亡中に、夜盗に殺されたのではないかと・・確かな証拠はありません。

鎌倉幕府滅亡後の各地の北条残党の蜂起

規矩(北条)高政と糸田貞義
建武元年(1334)春、金沢流北条氏の出自・規矩(北条)高政と糸田貞義がそれぞれ豊前国帆柱山と筑後三池郡で挙兵。高政は肥後守として九州へ赴任していました。高政は翌年に豊前国田川郡糸田庄(田川郡糸田町)を領する甥の北条一門・糸田貞義とともに九州で挙兵し、家領の豊前国帆柱山城(北九州市八幡西区)で北条氏残党を集めて抵抗するも鎮圧されます。・・・規矩・糸田の乱。

本間・渋谷一党
建武元年(1334)3月、本間・渋谷一党が相模で挙兵。本間氏は大仏流北条氏の被官でした。  『比志島文書』によれば、鎌倉幕府が滅びると、佐渡六ヶ郷が足利尊氏領に、羽持郡・吉岡が直義領になります。いずれも北条氏の旧領地です。建武の新政の発足により佐渡支配が再編成され、本間氏もこの激動の時代に一族の存続を掛けて反抗します。

赤橋重時
伊予風早郡の恵良山で赤橋重時が兵を挙げます。重時は長門探題北条時直に気脈を通じますが、長門探題も激しい攻撃を受けます。股肱の臣の豊田種藤・種長父子が離反し、探題館を攻撃した為、北条時直は探題館を放棄して逐電します。九州探題を頼ろうするが、九州探題北条英時も自刃した為、少弐氏・島津氏に降伏します。・・結局、赤橋重時軍は孤立無援となり、重時は捕らわれて斬られます。

名越時兼
名越時兼が北陸において再起の旗を揚げ、京都と鎌倉の奪回を謀るというものでした。時兼は、北条一門で越中守護。元弘の戦乱で滅ぼされた名越時有の遺児。

前掲の建武二年の出来事の「常岩弥六」、「深志介らの反乱」、「保科・四宮勢の蜂起」は重複のため割愛、「越後左近将監入道・上野四郎入道等挙兵」は「本間・渋谷一党」のこと、「駿河太郎重時」は、相模・高座渋谷の渋谷一族のこと、「讃岐での反乱」は不明。

足利直義追撃と足利尊氏の反撃

鎌倉を陥れた「時行軍」は、逃げる足利直義を追撃する。小競り合いはあるものの、駿河遠江を逃げた直義は、三河国矢作に拠点を構えて、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。

この頃の年譜
8.2  西園寺公宗、日野氏光誅される。足利尊氏、京を出発。
8.7  尊氏、三河宿で直義と合流。
8.9  遠江橋本の合戦。時行軍、これより8月19日まで負けつづける。
8.12 遠江小夜中山の合戦。
8.14 駿河国府合戦。
8.17 箱根合戦、蘆川の戦い。
8.18 相模川の合戦。
8.19 片瀬川の合戦。足利軍、鎌倉へ突入。諏訪頼重・時継ら自刃。
     8 足利尊氏東下し、鎌倉を奪回
8~9? 信濃惣大将村上信貞、坂木北条城を攻め落とす。
9.3  安曇・筑摩・諏訪・有坂の中先代与党の城、攻め落とされる。
10  小笠原四郎、横河城を攻める。
10.3/9 尊氏、相模三浦、長沢、馬入で北条残党を討伐。
11 後醍醐天皇、尊氏討伐のため新田義貞を出陣させる。
12 足利軍、新田義貞を破り西上。
義良親王・北畠顕家、尊氏追討の命を受け奥州出発

関東の敗戦が京都に伝えられると、足利尊氏はすぐ後醍醐天皇に討伐軍の派遣を奏聞します。当時尊氏の勢力に、後醍醐天皇は危惧を感じ、意識して足利尊氏を除外していました。尊氏は東下の勅許、征夷大将軍・総追捕使の官を奏請しますが、後醍醐天皇は許可しません。そこで、尊氏は、強引に軍を編成し出立します。後日、進発した尊氏に「征東将軍」の官が与えられます。後醍醐天皇は、朝廷の権力維持のため、征夷大将軍には成良親王を固執したのです。
そんなこんなで、後醍醐天皇が武家社会から急速に支持を失っていき、統治能力のない公家に、露骨に侮蔑され、尊氏を新たな武家の棟梁とする輿望が高まっていきます。
尊氏進発の報に数千騎が従います。三河の矢作で、足利尊氏率いる討伐軍は、敗走してきた直義軍と合流し、同族の吉良氏、細川氏らの援軍を得て、追走してきた北条軍と大井川で激突するころには、総数一万騎にも達する勢いでした。

『梅松論』は・・・
「今当所を立て関東に御下向有べき処に。先代方の勢遠江の橋本を要害に搆て相支る間。先陣の軍士阿保丹後守入海を渡して合戦を致し。敵を追ちらして其身疵を蒙る間。御感の余に其賞として家督阿保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。当所の合戦を初として。同国佐夜の中山。駿河の高橋縄手。筥根山。相模川。片瀬川より鎌倉に到るまで敵に足をとめさせず。七ヶ度の戦に討勝て八月十九日鎌倉へ攻入たまふとき。諏方の祝父子自害す。相残輩或降参し或攻め落さる。去程に七月の末より八月十九日に到迄廿日余。彼相模次郎ふたゝび父祖の旧里に立帰るといへども。いく程もなくして没落しけるぞあはれなる。鎌倉に打入輩の中に曾て扶佐する古老の仁なし。大将と号せし相模次郎も幼稚なり。大仏。極楽寺。名越の子孫共。寺々にをいて僧喝食になりて適身命を助りたる輩。俄に還俗すといへ共。それとしれたる人なければ。烏合梟悪の類其功をなさゞりし事。誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも廿日先代とも申也。」・・・
・・・ 直ちに、出立して関東に下向するつもりが、北条方の軍勢が遠江の橋本に要害を構えて道を塞いだため、先陣の軍士の阿保丹後守入海が攻撃します。阿保は敵を追い散らしますが、その身は傷をこうむると、尊氏は、その恩賞として阿保左衛門入道道潭 の家督を拝領させます。これを見た人々は、命を失うことも忘れて勇み戦います。 この合戦を初めとして、同国佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、勢いのある足利軍は敵に留まる余裕を与えず、七度の戦いに勝利して、8月19日に鎌倉に攻め入ります。その間、金刺頼秀も戦死しています。・・・

箱根峠での両軍の戦いは二日間に亘りましたが、足利軍有利とみた地方豪族の離散により、諏訪軍と僅かな北条軍は、ついに鎌倉へと敗走。諏訪頼重は、「北条軍破れる」と聞いて、諏訪神家党を主力としてみずから出馬します。北条軍は怒涛の敵軍に一気に呑み込まれます。

北条時行は逃走。諏訪頼重・時継父子以下は自害。この時、諏訪頼重以下四十三名の諏訪武士は、時行を無事に逃がすと、その再挙を願い、ここ鎌倉の大御堂・勝長寿院(鎌倉市雪ノ下4丁目、現存なし) で、”時行も同時に死んだ”と偽装するため、顔を潰し見分けが出来ないようにして自害します。

北条再興の夢は、25日間の鎌倉支配で消えました。
時行は、北条氏の旧領・伊豆に逃れます。その潜伏中、後醍醐天皇が尊氏と決裂すると、後醍醐方として伊豆で挙兵します。

鎌倉期の領国のこと ・・・車山レアメモリーより
・・・「謀反人の遺領は、鎮圧者に与えられる」
これが中世社会の基本律です。鎌倉幕府草創期の頼朝は、平家追討の賞として、五百ヶ所にも及ぶ平家領荘園の本所、領家を引き継ぐ。鎌倉時代、最大の荘園領主は鎌倉幕府でした。将軍家が本所、領家であった荘園は、既に女院領や摂関家の荘園群を上回る規模でした。鎌倉幕府が荘務権を行使する幕府領荘園は関東御領と呼ばれ、特に相模武蔵駿河越後四ヶ国を知行国として支配していました。これを関東御分国といい、特に相模武蔵駿河、の三ヶ国は、国衙領、荘園共に関東御家人の本領で埋め尽くされていて、朝廷の介入の余地はなかった。またこの三ヶ国の荘園は地頭請がほとんどで、地頭が現地を支配し、荘園領主はそれに介入できず年貢を受け取るのみでした。関東御分国の国務は、相模国が政所、越後国が正村流北条氏が携わり、そして武蔵駿河両国は、泰時、時頼、時宗と北条得宗家当主の事実上の分国でした。
 信濃国は文治元年(1185)には、既に頼朝が直轄する知行地となっていました。それを北条氏が受け継ぎ、その守護職を六波羅探題や連署をつとめた義時の三男・北条重時とその子孫が歴任します。守護は国内の要衝地の地頭を何ヶ所か兼ねるのが通常です。特に国衙周辺や他国との境界領域の奥郡などです。筑摩郡浅間郷、埴科郡船山郷などが守護地頭地でした。また国内の大荘園の殆どは、北条氏一族が地頭でした。信濃国内の諏訪氏をはじめとする武士団の多くは、その現地荘官として、或いは北条氏地頭代として地方領主的権威を得ていたのです。
 諏訪上社・下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。毎年社頭で催される流鏑馬は信濃国内の地頭御家人がこぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴四年(1329)の御射山祭の記録には、十四・五番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず「鎌倉中;鎌倉内に在住を許された幕府草創以来の名族御家人」の有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。・・・

時行の「中先代の乱」が失敗に終わると、後醍醐天皇・足利尊氏の「建武の政権」内に亀裂が起こり、権力構造が変化していきます。 ・・そんな時、時行はどうしたのでしょうか?
これが、次回のテーマです。


元服して時行立つ  <相模次郎物語>

2015-01-22 03:39:59 | 歴史

2:元服して時行立つ  <相模次郎物語>

元服とは、中世に男子の成人の儀式のことであり、通過儀礼である。 「元」は頭、「服」は着用を意味し、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠とも言われる。*初冠・ういこうぶり。冠親により冠を付けて貰い、幼名を廃して元服名を名乗る様になる。・・・中世の元服年齢には約束なく、5-6歳から20歳程度までと巾が広かった。

亀寿丸はこの時六歳。冠親は、諏訪頼重であった。諏訪頼重は、この時諏訪大社の大祝であった。諏訪大社は、全国の諏訪神社の総本家である。その諏訪大社の大祝は、神職の最高位である。
大祝・頼重は、亀寿丸を元服させるに当たって考えていた。亀寿を「時行」という大人の名前に変えたとしても、まだ六歳。兄の諏訪盛高が北条泰家に、”亀寿の後”とは、北条残党による鎌倉幕府の再興である。この”再興の戦い”を六歳に任せるのは無理がある。しかし、大祝は、血を見ること、諏訪の神域をでることは赦されない掟である。
頼重は、大祝を子・時継に譲る決意をした。
こうして、亀寿丸の元服の儀は、同時に、諏訪大祝の譲位の儀にもなった。
時は、7月の頃であったが、信濃の北条の残党は、春先より各地で蜂起していた。期は熟しているような気配であった。・・・注:諏訪頼重と盛高の関係は、諏訪家系図に依れば、父は諏訪盛重で兄弟と言うことになる。

1335年 建武二年の出来事
1   長門佐加利山城で、越後左近将監入道・上野四郎入道等挙兵。
2.1 駿河太郎重時、伊予烏帽子山城で挙兵。
2  讃岐での反乱。
3.8 常岩弥六宗家、信濃常岩北条で挙兵するが、城を攻め落とされる。
3.16 信濃府中で深志介らの反乱
6.22 西園寺公宗・日野資名ら、陰謀発覚して捕らえられる。
7  北条時行挙兵(中先代の乱)
7.14 保科・四宮勢、信濃守護所を襲うが敗走
7.15 八幡河原・福井河原・村上河原での合戦
    保科・四宮勢、22日まで戦いつづける。
7.18 時行本軍、上野に入る。
7.22 時行本軍、武蔵に入る。
 7.22 女影原の戦い
7 足利直義、鎌倉を出て武蔵井出沢で時行軍と戦い敗れる。
7 中先代の乱。足利直義、護良親王を殺害。
7.23? 護良親王殺害される。
7.24 時行軍、佐竹貞義の軍を武蔵鶴見で破る。
7.25  時行軍、鎌倉に入る。
7 中先代軍、20日間の鎌倉政府
8.1  信濃で、望月城攻め落とされる。
8.2  西園寺公宗、日野氏光誅される。足利尊氏、京を出発。
8.7  尊氏、三河宿で直義と合流。
8.9  遠江橋本の合戦。時行軍、これより8月19日まで負けつづける。
8.12 遠江小夜中山の合戦。
8.14 駿河国府合戦。
8.17 箱根合戦、蘆川の戦い。
8.18 相模川の合戦。
8.19 片瀬川の合戦。足利軍、鎌倉へ突入。諏訪頼重・時継ら自刃。
     8 足利尊氏東下し、鎌倉を奪回
8~9? 信濃惣大将村上信貞、坂木北条城を攻め落とす
9.3  安曇・筑摩・諏訪・有坂の中先代与党の城、攻め落とされる。
10  小笠原四郎、横河城を攻める。
10.3/9 尊氏、相模三浦、長沢、馬入で北条残党を討伐。
11 後醍醐天皇、尊氏討伐のため新田義貞を出陣させる。
12 足利軍、新田義貞を破り西上。
義良親王・北畠顕家、尊氏追討の命を受け奥州出発

信濃国は、北条得宗家の守護国であった。
鎌倉期初期に信濃国守護であった比企能員は、権力闘争で、北条家に謀殺されて、一族は壊滅状態になった。比企能員に変わって、信濃守護になったのは北条得宗家である。いわば、信濃国は北条家の直轄地で、北条家に恩顧のあるものが多かった。北条家と御身内となった諏訪家を筆頭に、東北信に守護家の荘園が散在していた。そして、鎌倉幕府崩壊後、足利尊氏は、手に入れた信濃の春近荘を、信濃・伊賀良生まれの小笠原貞宗に預ける。危機を覚えた東北信の北条残党は信濃各地で領有した既得の領地を守るべく、蜂起を始めた。

・・・1335.3.8 常岩弥六宗家、信濃常岩北条で挙兵するが、失敗して落城。
「3月8日に水内郡の北条氏勢力である常岩北条(現飯山市)の常岩氏を攻め城郭を破却し、」・・市河助房等着到状(市河文書)
--これを見ると、飯山市は、北条氏の勢力下であったようです。城主・常岩弥六

・・・3.16 信濃府中で深志介らの反乱
「鎌倉時代の守護北条氏の被官に犬甘郷の深志介知光があり、南北朝の時代になると南朝方について反乱を起し、室町時代には小笠原氏家臣の坂西氏が深志介の地位を奪った」
「北条高時一族の時興(=北条泰家)と凶徒深志介らが蜂起した( 深志介とは、深志という名から府中近辺に居を占めていに在庁官人でなかろうか。これをみると府中には国街があって在庁官人が勢力をもち、かれらは北条氏に把握されていた」
--在庁官人・深志介知光は、国衙と比定できる

・・・6.22 西園寺公宗・日野資名ら、陰謀発覚して捕らえられる。
 西園寺公宗・「建武元年(1334)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。二人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。」
 日野資名・「日野俊光の長男。日野資朝の兄。鎌倉幕府が擁立した持明院統の光厳天皇に重用され,正二位,権大納言となる。後醍醐方についた足利尊氏が六波羅探題を攻めた際,光厳天皇を奉じ京都を脱出し,出家。のち尊氏が後醍醐天皇と対立すると,光厳上皇の院宣をとりつぎ,南北朝対立のきっかけをつくる。」
--この時、北条泰家は脱出し、信濃・麻績御厨へ行き、建武三年(1336)に小笠原貞宗らと、北条時興の名前で戦っている*北条時興(=泰家)・・市河文書
--西園寺公宗は、京都にあって、反後醍醐派の中心的人物。各地の北条残党の扇動的役割を行ったようだ。諏訪頼重との連絡もあったようだ。

・・・7.14 保科・四宮勢、信濃守護所を襲うが敗走。青沼合戦という。
 青沼合戦とは、建武二年(1335)信濃国埴科郡船山郷(現・千曲市小船山)にあった守護所が北条氏の残党を擁護する国人領主らに襲撃されて起きた合戦。
「この地(青沼)を隣接地とする川中島の国人領主の四宮左衛門太郎や保科荘の保科弥三郎らが襲い守備側にいた市河氏らと近くの八幡河原一帯にある青沼(千曲市杭瀬下)周辺で合戦となった。保科、四宮勢は敗走し、福井河原や篠ノ井河原、四ノ宮河原と転戦し、小笠原勢は追撃を重ねた。」
これは、諏訪頼重に呼応した陽動作戦と見える・
「この間に北条時行を擁する諏訪氏、滋野氏らは信濃府中(松本市惣社付近)に進撃して国衙を焼き討ちし、建武政権が任命した国司を自害させた。」・・建武政権が任命した公家の国司・清原真人某・を自害させる(『太平記』)。
・四宮左衛門太郎・北条氏所領地に属していた四宮左衛門太郎・諏訪氏の庶流・
・・・荘園名:更級郡のうち郷名でも見える塩崎の西方山麓一帯の沖積地地名は信濃国四の宮(武水別神社)の鎮座に由来するという説(地字略考)がある・・(御室御領)〉四宮庄南北」とあり,南北2つの荘・・が「四宮荘」と比定できるか。
・保科弥三郎・保科御厨・保科荘の一族・・諏訪神党
・・・保科一族の分流・保科弥三郎は、敗走の後「時行軍」に合流して各地を放浪・・とあり、やがて南朝と合流した時行が、諏訪へ戻り、大徳王寺に籠もるとき、諏訪上社と調停して諏訪頼継の合力を演出した。大徳王寺の合戦の後諏訪に残り、南朝側として、諏訪神域の代官として宗良親王を支えたという伝承がある。

建武二年(1335)七月、北条得宗家の時代への復古を目指した戦い・・時行を擁して挙兵した諏訪頼重は府中に攻め入り、国衙を襲撃して国司を自殺させ、東信を経て上州に進撃。その間、各地から馳せ参じた武士団でたちまち大軍となり、その勢いで武蔵国に攻め入った。
 府中(松本)の戦いに勝利した「時行軍」は、その後府中から佐久へ進軍します。大きな戦いの記録がないことから、伝え聞いた北条残党が、「時行軍」に糾合して大軍に膨れ上がっていきます。上野を通過するときも、さらに軍は膨れ上がり、向かうところ敵なしの状態が続きます。

7.22 女影原の戦い
幕府は、足利直義と渋川次郎大輔義季、岩松兵部経家等を主将として軍兵を率い、建武二年(1335)7.22、女影ヶ原の要地を占め防御の陣地四隊を張らせて待機したが、北條軍のため撃破された古戦場である。霞野神社一帯が、女影ヶ原と呼ばれた丘陵地帯。
霞野神社: 所在地 日高市大字女影444.川越線高萩駅近く・

7. 小手指原の戦い
今川範満は、中先代の乱のとき,武蔵・小手指原で北条時行軍と戦い討ち死にした。
注意:*小手指原の戦いは何度かあるが、通常の小手指原の戦いは「正平7年/文和元年(1352)閏2月28日に行われた足利尊氏と新田義宗との戦い」を指す。この時は宗良親王が関わり、南朝兵士を鼓舞するための「君がため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば」の有名な和歌がここで詠まれた。

7. 武蔵府中の戦い
足利直義は、家来の小山秀朝を差し向け、武蔵国府中でこれを迎え討った。時行の軍は数が多く、小山は乱戦の中で討死をした。

7.22 足利直義は、鎌倉を出て武蔵井出沢(町田)で時行軍と戦い敗れる
鎌倉の執権足利直義自ら率いる足利勢と武蔵の井出沢(町田)で合戦となった。北条勢には近隣の北条勢が続々と加わっていた。足利直義の部下の三浦若狭五郎や那波左近太夫などの将まで北条方に寝返っていた.

7.23 足利直義、護良親王を殺害
執権足利直義は、中先代の軍が、護良親王を奪還すれば、鎌倉幕府が復活することが現実味を帯びて来ることを恐れ、部下の淵辺義博に命じて殺させた。

7.24 武蔵鶴見合戦
建武二年(1335)7月24日、北条時行は鎌倉の奪還を謀り、信濃国で挙兵した北条時行の軍勢が鶴見で佐竹貞義と交戦する、中先代の乱といわれる争乱の一部です。この乱をきっかけに足利尊氏は建武政権に反旗を翻して、時代は南北朝時代に突入します。
注:一つの鶴見合戦は、元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡する際に、金沢貞将が鶴見あたりで戦いに敗れて鎌倉に戻ったもの

7.25  時行軍、鎌倉に入る
いよいよ、中先代軍は鎌倉に入り、鎌倉奪還です。
諏訪の上社で、時行が軍を整えてから僅かの十日余り、怒濤の進撃で、ついに相模次郎は生誕の地に凱旋します。
時行軍が辿った道は、合戦の場所を確認すれば、鎌倉街道上道・鎌倉古道です。

鎌倉街道・上道
「吹送由井の浜音たてて、しきりによする浦波を、なを顧常葉山、かわらぬ松の緑の、千年もとをき行末、分過秋の叢、小萱刈萱露ながら、沢辺の道を朝立て、袖打払唐衣、きつつなれにしといひし人の、干飯たうべし古も、かかりし井手の沢辺かとよ、小山田の里にきにけらし、過ぎこし方をへだつれば、霞の関と今ぞしる、おもひきや、我につれなき人をこひ、かく程袖をぬらすべしとは、久米河の逢瀬をたどる苦しさ、武蔵野はかぎりもしらずはてもなし、千草の花の色々、うつろひやすき露の下に、よはるか虫の声々、草の原のより出月の尾花が末に入までにほのかに残晨明の、光も細き暁、尋ても見ばや堀難の出難かりし瑞籬の、久跡や是ならん、あだながらむすぶ契の名残をも、ふかくや思入間川、あの此里にいざ又とまらば、誰にか早敷妙の、枕ならべんとおもへども、婦にうはすのもりてしも、おつる涙のしがらみは、げに大蔵に槻河の、流れもはやく比企野が原、秋風はげし吹上の、稍もさびしくならぬ梨、 打渡す早瀬に駒やなづむらん、たぎりておつる浪の荒河行過て、下にながるる見馴川、見なれぬ渡をたどるらし、朝市の里動まで立さわぐ、是やは児玉玉鉾の、道行人に事とわん、者の武の弓影にさはぐ雉が岡、矢竝にみゆる鏑河、今宵はさても山な越ぞ、いざ倉賀野にととまらん、夕陽西に廻て、嵐も寒衣沢、末野を過て指出や、豊岡かけて見わたせば、ふみとどろかす、乱橋の、しどろに違板鼻、誰松井田にとまるらん、」・・「宴曲抄」より

文中の地名を順序に拾い出せば、


由比の浜(鎌倉市由比ヶ浜)、
常葉山(鎌倉市大仏坂北西の常盤)、
村岡(藤沢市宮前を中心とした付近)、
柄沢(藤沢市柄沢付近)、
飯田(横浜市戸塚区の境川左岸)、
井出の沢(町田市の本町田)、
小山田の里(町田市小野路町)、
霞の関(多摩市関戸)、
恋が窪(国分寺市の東恋ヶ窪及・西恋ヶ窪)、
久米川(東村山市の所沢市との境付近)、
武蔵野(所沢市一帯の地域)、
堀兼(狭山市堀兼)、
三ツ木(狭山市三ツ木)、
入間川(狭山市を流れる入間川で右岸に宿があった)、
苦林(毛呂山町越辺川南岸の苦林宿)、
大蔵(嵐山町大蔵)、
槻川(嵐山町菅谷の南を流れる川で都幾川と合流する)、
比企が原(嵐山町菅谷周辺)、
奈良梨(小川町の市野川岸の奈良梨)、
荒川(寄居町の荒川)、
見馴川(児玉町を流れる現在の小山川)、
見馴の渡(見馴川の渡)、
児玉(児玉町児玉)、
雉が岡(児玉町八幡山)、
鏑川(藤岡市と高崎市の境を流れる)、
山名(高崎市山名町)、
倉賀野(高崎市倉賀野町)、
衣沢(高崎市寺尾町)、
指出(高崎市石原町付近)、
豊岡(高崎市の上・中・下豊岡町)、
板鼻(安中市板鼻)、
松井田(松井田町)
 ・・・現在も地名に名を残すところがほとんど。武蔵野が狭い範囲を指しているのが興味深い。

諏訪大社の近辺にも、鎌倉街道の名が残るところから、松井田と諏訪の間にも、鎌倉古道が存在したのではないかと推測されます。

参考:足利直義
足利直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけての武将。
足利氏の嫡流・足利貞氏の三男。室町幕府初代・足利尊氏の同母弟。世に副将軍と称される。
兄・尊氏を補佐して室町幕府創設に貢献。しかし観応の擾乱で失脚し、復権を企んで政敵の高師直一族を討ち果た。後に尊氏とも対立し、後に毒殺される。

足利直義
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 徳治元年(1306)-死没 正平/文和元年7年2月26日(1352・3・12)
改名 ?(幼名不詳)→高国(初名)→忠義→直義→慧源(号)
別名 下御所、錦小路殿、三条殿、高倉殿、副将軍
戒名 大休寺古山恵源:墓所 神奈川県鎌倉市浄明寺の浄妙寺
官位 兵部少輔、左馬頭、正五位下、相模守、上左兵衛督、従三位、贈従二位
幕府 鎌倉幕府→室町幕府
氏族 足利氏:父母 父:足利貞氏、母:上杉清子:兄弟 高義、尊氏、直義
妻 本光院(渋川貞頼の娘)
子 足利如意丸、養子:直冬

観応の騒乱で、高一族と対立。これを境として、反尊氏派になり室町幕府は弱体化する。以後一貫して反尊氏派として活動するが、正平の頃毒殺される。直義の養子・直冬は、その後も反尊氏として対立が続く


亀寿丸は何処へ <相模次郎物語>

2015-01-17 16:55:43 | 歴史

1:亀寿丸は何処へ <相模次郎物語>

古典・「太平記」(解説書含む)より
鎌倉幕府が滅亡の危機のおり、新田義貞は、得宗家の御大の北条高時を追い詰めていた。高時の弟・泰家は、御身内の諏訪盛高に、高時の次子・亀寿丸の行く末を頼む“くだり”・・・

・・・・「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相模入道殿(高時)の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや」・・・・「されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂」・・・・

”高時が傲慢な振る舞いに人望を無くし反感を買い、鎌倉は滅ぶけれど、それでも北条累代の積善からすれば、あとを継ぐ子孫さえいれば、きっと再興できるはずだ。だから、ここは生きのびて亀寿(後の北条時行)を守り、時至れば大軍を起し、北条の家を再興しよう”泰時がこう言うと、盛高は涙をこらえ、泰家のこの言葉に従うことにする。

・・・・「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、『死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し』と申事候へば、兎も角も仰に可随候」・・・・

盛高は亀寿のいる扇ヶ谷へと向かう。
屋敷では、高時の愛妾・二位局がわが子の行く末を案じていたが、盛高は事が露見することを恐れて、こう告げる。

・・・・「此世中今はさてとこそ覚候へ。(北条家)御一門太略御自害候なり。大殿(高時)計こそ未葛西谷に御座候へ。公達(亀寿)を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候」・・・・「若御(亀寿)も今日此世の御名残、是を限と思召候へ」・・・・

新田勢がここまで攻め入っている以上、狩り場の雉のように草むらに隠れていたところで、 敵に殺され、幼い骸を晒すことになる。それより高時の手にかかり、冥土のお供をさせることこそが忠孝である。・・『武士の家に生まれた以上、平素からその覚悟はできていたはず』と、盛高は心を鬼にして、亀寿を抱き上げ、泣きすがる二位局を振り切り、声を荒げ馬を走らせる。

・・・・「わつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰を育て、誰を憑で可惜命ぞや」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ」・・・・

悲しんだ二位局は、馬を追いかけて走っては転び、走っては転び……ついには悲しみのあまり、古井戸に身投げしてしまったと、「古典太平記」は伝えている。

盛高は鎌倉の諏訪屋敷に戻り、一族を集め、事の子細を打ち明けます。亀寿丸様を連れ落ち延びて北条再興の機会を窺うこと、亀寿丸と共に自害して果てたと見せかけるために、この屋敷に火を放ち、この場で諏訪一族はことごとく自害してほしい、と 要請します。諏訪武士達は、盛高の本懐の為に、涙ながらに亀寿丸の前に手を付き、やがて屋敷に火がかけられ、・・・『亀寿丸様は、はや自害なされた。者ども死出の旅に遅れまいぞ』と、屋敷外に響けとばかり叫び、殉死体の中に亀寿丸がいると誤認されるように、相次いで火中に飛び込み自害していきます。

そして・・・
盛高一行は、新田軍の負傷兵に化け、亀寿丸を隠した武具を抱えて屋敷から密かに脱出します。やがて鎌倉を遠く離れると、北条氏の守護国であった信濃の地へ、・・

1:時は、正慶二年(南朝歴・元弘三年・西暦1333年)五月の半ばを過ぎた頃のことである。北条高時の自害は、5月22日とされているので、時行の鎌倉脱出は、当日を含めてその前後と思われるが、定かではない。
2:この時の、後醍醐天皇による一連の倒幕運動を「元弘の乱」と呼ぶ。
3:時行の生誕の記録はないが、諏訪上社大祝・諏訪頼重に担がれて、若干早く元服の義を終えて、中先代の乱の挙兵の旗頭・・とする記録を信じれば、北条嫡男・邦時は「七歳」で元服をしていることから、若干早くを「六歳」と類推すれば、鎌倉を離れた”元弘の乱”の時は「四歳」となり、生誕は、元徳元年(1329)に比定できる。さらに年譜に、「1329 元徳元年 12? 北条高時子息生。」を見ることができる。ここを生誕の年とする可能性は高いが、断定するには資料が少ない。

それまでの鎌倉幕府滅亡までの歴史を振り返ると年譜は以下のようになる。

西暦 和暦
1324 正中元 9.19 後醍醐天皇による倒幕運動発覚(正中の変)。
1325 正中2 7   元に建長寺船派遣。
        8  日野資朝、佐渡へ配流。
        11.22 北条邦時生。
1326 嘉暦元 3.13 北条高時出家。
        3.16 金沢貞顕、執権となるも、出家(3.26)
        4.27 赤橋守時、16代執権となる。
        4.21 北条高時娘没(3歳)。
1329 元徳元 12? 北条高時子息生。
1331 元弘元 5  後醍醐天皇による討幕運動発覚(元弘の変)
        8.27 後醍醐天皇、笠置山に遷幸。
        9  楠木正成挙兵。幕府、光厳天皇を擁立。
        9.28 笠置城陥落。
        9.30 後醍醐天皇、捕らえられる。
        7.14 北条高時娘生。
        12.15 北条邦時元服(7歳)。
1332 正慶元/元弘2 3  後醍醐天皇、隠岐へ配流。
           11  護良親王、楠木正成挙兵。
1333 正慶2 元弘3 1  赤松則村(円心)挙兵。
           2 土居通増・得能通綱・忽那重清ら伊予で挙兵。
           閏2~3千早城攻防戦続く。
           閏2.24後醍醐天皇、隠岐脱出。
           4.27 足利尊氏、幕府に背く。
           5.7  尊氏、六波羅を攻める。
           5.8  新田義貞、上野で挙兵。
           5.9  六波羅探題北条仲時ら、近江で自刃。
           5.22 新田義貞、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)。
           5.25 鎮西探題赤橋英時、博多で戦死。
           6.5  後醍醐天皇、帰京。
           6~7 記録所・恩賞方を置く。
           9?  雑訴決断所・武者所を設立。
           12  足利直義、成良親王を奉じて鎌倉へ下る。

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足利高氏と新田義貞
この一連の流れを見ていると、正慶二年(1333)が如何に激動であったかが、見えてくる。それまで鎌倉幕府の御家人であった足利高氏と新田義貞は、正慶二年に、後醍醐の呼びかけに応えて幕府に背き、高氏は京都の”六波羅探題”を攻撃し、義貞は”鎌倉”を攻撃している。そして、戦いの決着が見えた頃、記録所・恩賞方、雑訴決断所・武者所が設立され、地方の豪族は、高氏のもとへ赴き、続々と高氏支持を表明していく。これが双頭の実力者の一方の新田義貞でないことが興味深い。これは”公平性が高い”ことと豪族武家の現状をよく知るものとして、武家の棟梁の資質が、新田義貞より高く見られたことに起因すると言う説が存在するが、兎に角ここを起因として、かっての同族兄弟家の足利家と新田家は、以後長く反目の時を過ごすことになる。尚鎌倉幕府倒幕の功により、高氏は、後醍醐天皇より尊氏の名を貰い、以後足利尊氏と名乗る様になる。
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北条高時没落の要因
○高時は、暗愚であったとされ、田楽と闘犬にふけり政治を顧みなかった。
○反幕武士勢力:
  得宗専制政治に有力御家人が反発。畿内近国で悪党が横行。
     イ)北条氏の得宗専制政治に対する有力御家人の不満の増大
     ロ)庶子家の独立化による惣領制の動揺
     ハ)御家人の経済的窮乏と元寇の恩賞に対する不満。
     ニ)悪党の活躍(得宗専制に対する不満)
  「悪党」勢力の台頭
     悪党:御家人や有力名主から成長し、幕府の支配構造に反抗する新興の武力集団。
     ・・・代表格は「楠正成」
○朝廷への指導力の低下
 天皇の即位は持明院統と大覚寺統が交互で行っていたが、交替をコントロールできなかった。
 ・・・これにより、朝廷の不満が高まった。
○鎌倉期末期、元寇があったが、運良く台風で元は敗走する。全国から、祖国を元から防衛するために、地方豪族が徴兵されたが、元が敗走しても、鎌倉幕府は恩賞を出す財源がなかった。恩賞を当てにして、金貸しから借財して戦いに臨んだ地方豪族は窮地に陥り、一挙に不満が膨らんでいく。そのため幕府は、徳政令を乱発し、今度は地方の資産家から恨まれていく。遠因は、それまで続いていた分割相続が制度疲弊を起し破綻していたことに依るが、地方豪族の経済力は、当時かなり細っていたようだ。その反面・・・北条得宗家の暮らしは贅沢を極め、地方武士の不満は募っていたようだ。
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参考資料1・・北条時行
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕 不詳
死没 正平8年/文和2年5月20日(1353年6月21日)
改名 亀寿丸・長寿丸・勝長寿丸→時行
別名 相模二郎/次郎
氏族 北条氏、得宗
父母 父:北条高時、母:二位局・母は安達時顕の娘
兄弟 邦時、時行
子 豊島輝時?、行氏?、時満?、惟時?

南北朝時代(1336~1392)の武将。
鎌倉幕府14代執権にして最後の得宗、北条高時の次男。
幼名は・亀寿・『太平記』、
勝寿丸・『梅松論』、
勝長寿丸・『保暦間記』、
全嘉丸・亀寿丸・・『北条系図』、
    桃寿・『太平記』金勝院本・西源院本、
    兆寿・太平記』天正本)
通称 相模次郎・『梅松論』・『鶴岡社務記録』
   相模二郎・『太平記』・『尊卑分脈』
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参考資料2・・北条邦時
北条邦時は、鎌倉時代末期の北条氏・得宗家の嫡子。
鎌倉幕府第14代執権・北条高時の長男。母は御内人・五大院宗繁の妹・常葉前。
乳母父は長崎思元。中先代の乱を起こした北条時行は異母弟である。
○元弘の乱で、鎌倉陥落時に伯父の五大院宗繁に託され伊豆山に脱出したが、褒賞目当てに宗繁が新田義貞軍の舟田義昌に密告したため相模川にて捕らえられ、鎌倉にて処刑。享年九歳。
・宗繁は主君北条氏の嫡子を死に追いやった前述の行為が「不忠」であるとして糾弾され逃亡し、時期は不明だが餓死したという。
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参考資料3・・北条泰家 (Wikipedia)
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期
生誕 不詳
死没 建武2年(1335年)頃?
改名 時利(初名)→時興→泰家
別名 相模四郎
官位 従五位下、左近将監
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 北条氏、得宗
父母 父:北条貞時、母:覚海円成(安達泰宗の娘)
兄弟 覚久、菊寿丸、高時、泰家、崇暁、金寿丸、千代寿丸、他女子
子 兼寿丸、菊寿丸、金寿丸、千代寿丸

北条泰家は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての北条氏の一族。
鎌倉幕府の第九代執権・北条貞時の四男。十四代執権・北条高時の同母弟。

はじめ、相模四郎時利。正中三年(1326)、高時が病で執権職を退いたとき、母大方殿と安達氏は泰家を後継者として推すが、長崎高資の反対。長崎氏の推挙で執権となった北条貞顕が執権となるが、泰家はこれを恥辱として出家。憤った泰家が貞顕を殺そうとしているという風聞が流れ、貞顕は執権職を辞任、後任は北条守時となり、これが最後の北条氏執権となった。
正慶二年/元弘三年(1333)、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉に侵攻してきたとき、幕府軍を率いて、一時は勝利を収めたが、油断して新田軍に大敗を喫し、家臣の奮戦により鎌倉に生還。幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へ逃亡。・・・その後、上洛して西園寺公宗の屋敷に潜伏し、建武二年(1335)公宗と後醍醐天皇暗殺や北条氏残党による幕府再挙を図るが、事前に計画が露見して公宗は殺害された。ただし、泰家は追手の追跡から逃れている。
『市河文書』によれば建武三年2月、南朝に呼応して信濃国麻績御厨で挙兵し、北朝方の小笠原貞宗、村上信貞らと交戦したとされるが、その後の消息は不明。一説には建武二年末に野盗に殺害されたとも言われている。*『市河文書』では北条時興の名前で登場している


相模次郎物語  ・はじめに

2015-01-16 21:07:25 | 歴史

相模次郎物語
                           ・・・・・ 北条時行の一生

 工藤家(or内藤家)と保科正俊との関係を書いてから久しく、「探三州街道」は中断しておりましたが、少し違う角度から眺めて、北条残党、北条時行、宗良親王の輪郭を鮮明にしてみたいと思います。

始めに・
 北条時行については、時行を主人公にした小説はまだ出ておりません。調べて見ても、その人物、その生涯は、断片的な記述が多く、生涯を通じての記述を見かけることはありません。しかし、時行の名前は、高校の時の教科書の記述に、「中先代の乱」としての記載があり、鎌倉幕府が倒れた後を、”北条残党”を率いて鎌倉まで攻め上がり、鎌倉幕府再興を夢見て実行した人物として記憶に残っている方は多いだろうと思います。


 北条残党の目的や夢は、鎌倉幕府時代の既得権の保守でありました。その彼等の象徴的旗頭に相応しかった時行を頭目に迎えて、新政府(足利尊氏)に立ち向かって行き、瞬間勝利するものの直ぐに破れて敗走します。新政府側も、鎌倉幕府崩壊後に、倒幕を主導した後醍醐天皇と実行した足利尊氏は離反していきます。後醍醐天皇(南朝・吉野朝)は目指すところは王政復古です。足利尊氏に敗れた北条時行は、後醍醐天皇へ”降伏”を申し出て許されます。こうした経緯があって、北条残党と南朝は、「反幕府・反足利尊氏」として統一戦線を組むようになります。同じ舟に乗りながら、違う夢を見る、呉越同舟です。ここで時行は、宗良親王と共同して戦うようになります。しかし、実際行動を伴にしたのは、かなり僅かな時間のようで、伊勢の港から嵐で漂着した浜松と浜松の北の井伊氏の拠点の井伊谷に居たときぐらいのようです。しかし、この出来事の影響は大きく、各地に散在する北条残党と南朝を支持する南朝派は、一挙に合体化して行きます。
 しかし、・・・・・もともと既得権保守が主眼の北条残党は、幕府側に、所領安堵という既得権の保証を餌に懐柔されていき、南朝側から離脱していきます。南朝側の内部崩壊です。この時、北条残党の象徴の時行はすでに亡く、宗良親王は失意で吉野に戻っていきます。

北条時行については、詳細な年譜を作りました。
年譜のファイリングは、アウトラインプロセッサ(treepad)を使っています。これは、階層型データベースもどきになります。機能はさておき、かなり軽快な動作環境です。
北条時行の年譜に基づき、物語的記述にします。


研究ノート「保科家の多古時代」

2014-11-13 03:00:09 | 歴史

研究ノート「保科家の多古時代」

小田原の役で、豊臣秀吉が後北条を征伐したあと、家康を関東太守として江戸に入府させ、家康の家臣達は、家康に伴って移動し、保科正直も多古へ移封した。1590年の事である。
それから1602年、旧地”高遠”へ戻るまでの約12年間、保科家は”多古”で過ごすわけである。
この間は、激動の時代であった。
まず秀吉は、二度に亘る”朝鮮征伐”を行い、ついには帰らぬ人となる。
時代は、秀吉の跡目は秀吉の係累にはならずに、”関ヶ原の戦い”を経て家康の時代へと移る。この過渡期は、秀吉の残存勢力の駆逐もあり、徳川政権の基礎の固めに、家康の家臣たちは休む暇もなかった。保科正光も、例に漏れず、ほとんど多古にいることはなかった。

多古時代の保科家も激動が続く。
1591年、後・保科正則:死去
1592年、保科正光:家督相続
1593年、保科正俊(槍弾正):死去
1593年、保科正光:従5位下 叙勲 肥後守任官
1601年、保科正直:死去 法名天関透公 建福寺埋葬
 ・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年
 ・・ 「保科正之のすべて・・宮崎十三八」より

保科家の居城・多古城(多古陣屋)
 ・・場所:千葉県香取郡多古町多古字高野前
 ・・・「多古町のほぼ中心部に多古第一小学校があり、この敷地に多古陣屋があった。
南北200m×東西100mの細長い形で、東側に石垣と堀を築き、西側の背後は多古城址がある台地がせり上がるという、陣屋にしてはなかなかの防備の堅さを誇る。
多古城のあった台地を背に構え、石垣の上には屋根を持った城壁が一直線に伸びている。ほぼ中央に門を構え、弧のかかった橋が架けられている。現在は、残念ながら町並みの方は城下町の面影は薄い。古い家屋もなければ複雑に屈曲した道路もない」

多古周辺の中世以前の風景は、坂東平氏を祖に持つ千葉氏の勢力範囲であり、鎌倉幕府の時代は、頼朝の重臣として千葉一族の分流が住んだと言われる。豊臣時代に、徳川家康の家臣・保科氏が、家康の江戸移封に伴って移り住んだが、徳川時代になって、保科氏が旧領の高遠へ戻ってから、多古は暫く藩主が不在の幕府直轄領になり、その後松平(久松)家が藩主として入封した。従って、それらの遺跡などが散在していてももよさそうだが、その痕跡が見当たらないどころか、旧跡を示す案内板もない。ただ、日蓮宗の聖都であったらしく、仏教の学林が狭い地域の中に二つ存在したという。学林は、仏教の学校のことだが、日蓮宗では、学林を檀林というらしい。それを除けば、この地方は、当たり前な地方都市と農村風景が広がる。

秀吉の朝鮮征伐
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄二年)に休戦した。
慶長の役は1597年(慶長二年)に始まり、1598年(慶長三年)の秀吉の死で撤退をもって終結した。
保科正直は、文禄の役の時、正光ともども後詰めで九州に赴き、ここで体調を崩し、正光に跡目を譲っている。

保科正直は、豊臣時代、家康の直参として、三河に、家屋敷を持っていたと言われる。
場所は、愛知県安城市山崎町大手(正法寺)。永禄七年(1564)頃、保科正直によって築かれた。本能寺の変の後に徳川家康に仕え、 天正十八年(1590)家康の関東移封に従って関東に移るまで住んだという。ここでの生活の時、多褲姫(家康養女)を妻に迎え、正貞、氏重(正光の異母兄弟)が生まれている。正貞・上総飯野藩の初代藩主、氏重・北条氏重(北条家へ養子)。 ・・・ 多褲姫が、正直の正妻になる経緯は、まず信長が本能寺で横死すると、武田家臣の多くが小田原北条を盟主に鞍替えしたと言われる。保科正直も一時小河原北条を主君として仕えた。この時、人質として正妻の跡部氏の女を小田原ヘ預けた。後に、正直が家康に付、小田原北条と戦うことになった時、小田原人質の正直の正妻は殺害されたという。このことがあって、家康は正直に家康養女の多褲姫を正妻に斡旋したという。 ・・多褲姫(家康養女)が高遠に住んだと言う記録はない。また、多古に行ったという記録も無い。恐らく、関ヶ原の時は、大阪方へ人質で行き、家康が江戸へ入府に時は、正直の江戸屋敷が住まいになったのであろうと想像する。

遠征・出張を繰り返す、多古時代の正光であったが、高遠城奪取時代は、弾正正俊が、老いたるとはいえ城を守り、多古時代からは、正直の弟・正勝の子・保科正近が、城代として留守居の城を守った。この流れは、多古から高遠へ、正光の養子の正之の時代、最上へ、さらに会津へ転封されてからも続き、正勝・正近の系譜は、保科・会津藩の筆頭家老として、藩主を助けて累々と続く。ただし、正光の弟・正貞が、上総飯野藩の藩主になるに及んで、正統な保科系流は飯野藩保科だと言うことを明確にすることと、徳川親藩の苗字・松平に変わる時、正近系流は、西郷家と改められた。

保科家の正光時代の家臣団は、家臣の姓を挙げると『北原、小原、赤羽、樋口、辰野、日向、有賀、唐沢、黒河内、唐木、御子柴、春日、井深』などになります。
このうち、ほとんどが保科正俊時代以降の家臣団であり、高遠に地名を残す、その地の豪族でありました。・・・北原、小原、赤羽、辰野、有賀、唐沢、黒河内、春日など。要するに、高遠・諏訪頼継時代の高遠一揆衆の面々です。

その中で、保科正光の側近と言われた井深氏について ・・・
 ・・ 井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・
 ・・井深重吉は、保科家の嫡子・正光が、武田勝頼の子の小姓として、新府(韮崎)に人質同然になっていた時、勝頼没落に際して、新府に赴き、正光を連れ戻した。正直・正光親子が、上野・箕輪の内藤昌月の元で逃亡生活を送っていた時に、信長の本能寺・横死が起こり、織田方の滝川一益は、背後から襲われることを恐れ、配領の武将の子を人質にして、上方へ帰ることになった。この人質の中にも正光はいたが、滝川が帰路の過程で、保科家臣団は、正光以下を救出している。・・以来井深重吉は、正光の側近になったと思われる。
この時の井深氏は、新参の保科家臣であったようで、もともとは、井深氏は松本・岡田の井深城の城主で、小笠原家の家臣であった。信玄に攻められた小笠原長時が、松本を捨てて逃亡生活に入る時、井深重吉は保科正俊の配下になったようだ。
                                                            ・・府中(松本)の豪族 井深氏 2014/02/14 参照

さて、多古時代の保科家の菩提寺は何処だろう?
正光以前の、正直、正俊、正則は日蓮宗・法華教の敬虔な信徒だと言われている。
高遠にある建福寺は、臨済宗妙心寺派の寺院であるが、これは保科正光以来ことで、それ以前は日蓮宗だと思って良い。
1591年、後・正則没。1593年、正俊没 ・・となれば、その没地・多古に墓があってしかるべきのように思う。
多古地方の、当時の保科家の勢力範囲の法華教の寺に、そんな痕跡がないだろうか。
日本寺は、日蓮宗の学林として、多古の保科時代に成立したという。この成立に、正光は多額の援助をしたという記録が残る。また、それ以前より、飯高寺は日蓮宗の学林として栄えたという。学林は、仏教の大学を意味し、事実飯高寺は、立正大学発祥の基になっている。
当時の風習として、学林(檀林)に墓を求めるかどうか分からないが、檀林に関係する寺院のどこかに、後正則と正俊の墓を求めたのではないだろうか。
事実、廃寺となった”法華寺”跡に、正則夫婦の墓があるというが、供養塔との説もある。 ・・当時の風習としては、供養塔より墓の可能性のが強いと思うが ・・・。正俊の墓も、この近くであるという可能性が高いが、今のところ痕跡は見つかっていない。
多古(及び匝瑳市)の地方史を検証したいと試みたが、この地方の中世史の資料はかなり薄い。