探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

「保科正光物語」

2014-11-10 01:54:09 | 歴史

「保科正光物語」 転載


『其之 74』H19.5.11~H19.6.16 ・・・四方赤良の余談集4より
 
 天正19年(1591)の身にしみる寒さも押し迫った9月、私こと保科正光(ほしなまさみつ)は、父の保科正直(まさなお)と共に、信濃国から遠い北の陸前国玉造郡岩手沢城(宮城県大崎市)に居ました。初めてみる奥州の大地、麓を流れる江合川と広大なススキ原を眺めていると、吾身が流浪人のように思えてなりません。今度の戦は、ここより北にある陸奥国二戸郡九戸城(くのへじょう、岩手県二戸市)という土地にて、太閤秀吉様に謀叛した九戸政実を討つためです。総指揮の蒲生氏郷殿を筆頭に、浅野長政殿、その他秋田実季、津軽為信などの者共、 締めて6万5千人にて攻撃をしました。そして拙者は主君徳川家康公の代として参陣した井伊直政殿の一軍として家臣100人を引き連れ、前線への補給基地として重要な木村吉清殿の岩手沢城を固めていました。九戸城はわずか3日余で落城し、降伏した政実等8名は陸前国伊具郡三ノ迫(宮城県)に引き連れられ斬首されました。こうして乱は完全に鎮圧されました。これにてほぼ1年前のこと、徳川家康公が関東へ移封を命じられ、それに伴って配下である拙者が賜った下総国香取郡多古(たこ、千葉県多古町)に帰還することができました。
 多古は信濃と違って山と言える山など無く、栗山川が平野を南北に流れ、その西側にあるわずかな丘の上に築かれた多古城を居城としていました。領地は栗山川を挟んで、西に多古村、嶋村、染井村など3千石、東に南中村、北中村、南並木村など7千石になります。故郷の高遠と違って良田が多いのですが、獣を追って山を駆け巡ることもできず、材木や石材の入手が難しい土地でした。多古を拝領してからというもの、戦に次ぐ戦のために傷んだ城の修復もできず、祖父を始めとして家族を残し、土地に不慣れな家臣数人に政務を託していくしかありませんでした。半年前の12月には、多古からわずか1里ほど東の山武郡飯櫃城で北条残党の山室光勝が挙兵し、周辺の土豪や百姓を糾合して徳川様に謀叛を企みました。こちらへ攻め寄せてくる恐れもあった為、拙者は速やかにこれを討ち取りました。こうして奥州から戻って本格的に多古の政務に取り掛かることができ、徳川家康様からも領国の安定を第一にするようにとの内命も受けていたので、陣頭に立って政治を行いました。大勢の家臣が一度に帰国したため手狭となっていた多古城を拡張しようと、その麓に出城のような形で、堀と石垣で囲った郭を築きました。
 
 九戸の乱も終わってようやく本格的な領地経営に取り掛かかることができるようになり、天正20年(1592)の正月を無事に迎えることができました。しかし突如江戸城へ召集するようにとの使いが参り出府したところ、意外にも太閤様が朝鮮国へ出兵するとのことでした。理由は良く分かりませんでしたが、太閤様の命に徳川様が従うとあっては逆らうことも出来ません。拙者も徳川軍の一部として肥前国名護屋に出陣することになりました。今度は生まれて初めての九州。「まさか死ぬ前にこの様な所へ来ることになろうとは思わなかった」と父上は笑いながら話しました。春から夏にと名護屋での滞陣は長引き、築城されたばかりの壮大な名護屋城下に立派な屋敷を賜って生活していました。日夜することも無く、囲碁をし、海などを眺めて過ごしていましたが、不慣れな地で長引く生活によ って父上が体調を崩しました。父は拙者に家督を譲ると言い、徳川様に降った時から懇意にしていた井伊直政殿に相談し、その御援助をもって徳川様より家督相続の許しを得ることができました。そしてさらに光栄にも、従五位下肥後守に任ぜられ、徳川配下の一員として認められました。しかし、家督を相続しても生まれ育った藤沢郷(伊那市、旧高遠町)を遠く離れ、今の領地は下総国、さらに今は肥前国にある我が身。故郷の三峰川や藤沢川で泳いで魚を捕り、守屋山などで鹿狩りをして一夜を過ごした昔を思い出しました。
 翌年の文禄2年(1593)4月になると吉報が舞い込んできました。ようやく朝鮮国で仮講和が成ったとのことで、5月には朝鮮から続々と兵が引き上げてきました。こうして1年以上にわたる異国との戦が終わり、妻達が待つ多古へ帰ることができました。しかし帰国したばかりの8月6日、多古城内の館にて隠居をしていた祖父の保科正俊が亡くなりました。祖父は武田家配下の高坂昌信、真田幸隆殿と共に、槍の名手として「三弾正」と恐れられ、若い頃よく祖父から槍の手ほどきを受けたものでした。拙者はかつての主君、武田勝頼様の斡旋により、真田昌幸殿の娘を正室に迎えていました。そこで祖父の死に際して直ちに信濃国上田の真田昌幸殿へ使いを送り、丁重な御返礼をいただきました。
 文禄3年(1594)、拙者には33歳となった今も実子がありませんでした。そこで家督を相続したからには嗣子の心配もしなければならないと考え、父の弟の息子である家老の保科民部少輔正近など一族と相談し、拙者の実弟である正貞を養嗣子にすることにしました。さっそく徳川様に願い出てこれが許されました。正貞は拙者とは母が違い、徳川家康様の養女として父上に嫁いだ久松俊勝殿の息女、多劫姫(たけひめ)の子になります。年齢も拙者とは20以上も離れているので本当の息子のように可愛がってきました。
 
 慶長2年(1597)、再び朝鮮国を攻めることになりました。しかし家康様は太閤秀吉様の側に仕えて朝鮮攻めの補佐をしていました。これにより我等の出陣はなく、国元の政治に集中できました。その後、太閤様の容態があまり芳しくないとのことで、慶長3年(1598)3月頃から順次撤兵が行われ、8月18日に大坂城で亡くなりました。文禄の役が終わってからこの4年間、拙者は戦費を削減し領国経営に邁進してきました。おかげで領内は安定し、小さいながら江戸城下の鍛冶橋に建設をしていた屋敷も完成しました。多古の統治は家老の保科正近に任せ、こうして拙者は江戸屋敷で生活をするようになりました。
 慶長4年(1599)、保科家は甲斐国身延山に近いこともあって、代々日蓮宗を信仰していました。旧領の高遠でも 、山室川の傍に遠照寺という日蓮宗の寺院があり、そこを中心に「法華谷」と呼ぶほど活動が盛んな土地でした。これも何かの御縁なのか、新領の南中村にも日本寺(にちほんじ)という由緒ある日蓮宗の寺院がありました。そこで寺の10世を継いだ広才博学で名高い日円殿が、ここに壇林を創設したいとの意向を聞いたので、拙者も影ながら御援助させてもらいました。これが中村壇林と言われるもので、数百人の学僧がここに集い、僧を育成していく学問所になります。
 
 慶長5年(1600)6月、拙者の妹の栄姫(大涼院)が、徳川家康様の養女として、豊前国中津城主の黒田長政殿の正室になりました。徳川様が予てから望んでいる「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」実現のため、是非とも必要な縁談なのだとの思し召しで、拙者は喜んで差し出しました。徳川様は各地の大名家の縁組を斡旋しているようで、何か大戦が起こるのではと家中では噂になっていました。そして婚礼も終わって数日後、会津の上杉景勝殿が反旗を翻したとのことで、徳川家康様が総大将として討伐なさることになりました。多古から江戸に軍勢を呼び寄せ、徳川本隊と合流して下野国小山(栃木県)まで進軍しました。しかし、西で石田三成が挙兵したとの報が届き、7月25日小山で進退を決する評定が行われました。そして全軍西へ向かって石田三成を討つ事に決し、拙者は堀尾忠氏殿の領地である東海道中の浜松城守備という名誉を命じられました。そこでは兵糧の調達及び堀、城壁の補強をし、防備を固めていました。元々の徳川家康公の居城とあって、死んでも守り抜こうと息巻いていましたが、9月には御味方が関が原で大勝利との報を受け大変安堵しました。大戦が終わってまだ世情が不安定な折、突如越前国を領していた青木一矩殿が病死とのことで、拙者はその居城である北ノ庄城に入り、越前一国の差配を任されました。このような一国の指図など小領主の拙者は夢にも思っていませんでしたが、翌11月家康様の御子息である結城秀康様に越前国が与えられ、拙者の夢も露と消えました。
 家康様の天下となって、愈々拙者も御加増と待ちに待ちました。すると11月、小笠原や諏訪殿など信濃国出の者達は旧領へ復することが認められ、拙者も高遠2万5千石を賜ることになりました。多古で骨を埋める心積もりで政を行ってきた家臣達には喜ばない者もいましたが、ひとしお喜んだのが父上でした。祖父と粉骨砕身の思いで手にした高遠を奪われて10余年、その落胆ぶりは如何ばかりであったか拙者には分かっていました。しかし拙者は、今から19年前に徳川家康様に初めて従った時に「伊那郡半分」というお墨付きを頂いていたので、石高について異論がありました。大久保長安殿に使者を送って談判したところ、「小笠原信之殿が松尾への環住を迷惑だと訴えた為、領地を与えないことになった」と聞かされました。大久保殿は「保科殿も同じようになるので訴訟をしないよう」に言いました。こうなっては是非も無く、伊那郡2万5千石、75カ村(部分的に抜けている村もありますが、ほぼ現在の辰野町、伊那市、宮田村、駒ヶ根市に及ぶ)を受け取ることにしました。
 拙者は北ノ庄城での政務を未だ解任されず高遠へは行けないので、慶長6年(1601)1月、先に松沢喜右衛門を高遠に送り込んで様子を探らせました。そして伊那郡飯田城の京極高知殿の城代である岩崎左門殿から無事に引渡しを受け、悠々と高遠を手にすることができました。初め結城秀康様は雪が融けるまで越前国を受け取らないと言っていましたが、談判して2月には引き渡すことができ、翌月そのまま桜が咲く信濃国伊那郡へ入りました。天竜川の河原ではヒバリが空を舞い、足下には蕗のとうが顔を出していました。しだいに雪で真っ白な仙丈岳が近づいてくると、感慨深いものがありました。これまで各地の合戦の折も、高遠には一度も訪れたことがありませんでした。十数年ぶりに戻ると、一族が居城としていた藤沢の城も取り壊され、草木に覆われて当時の面影が無くなっていました。勝手知ったる郷里、拙者が高遠城 (国指定史跡、桜の名所)に入ったと知ると、在郷の百姓などから祝いの品などが届けられました。これも祖父、父上の御威光かと思いました。
 多古は幕府領となり、代官からの命令によって引き続き秋まで統治を任 されたので、高遠での迎え入れの準備が整うまで、妻や父上には多古で過ごしてもらいました。そして多古の収穫を無事に終えて代官へ引き継ぐと、8月には 全て引き払って高遠へ移りました。しかし郷里に戻って心身安堵されたのか、9月29日予てから病状の悪化していた父上が亡くなりました。城下の鉾持山乾福寺を大宝山建福寺と改称し、そこへ埋葬しました。また、拙者の実母は父上が徳川家康様に従った時に、人質として小田原の北条へ差し出されていたので、殺害されました。ようやく高遠へ戻れたので、無念であった母の菩提も同じく弔いました。
 
 慶長7年(1602)、黒田長政殿に嫁いだ栄姫が万徳(後の黒田忠之、第2代福岡藩主)を産むという大業を成し遂げ、さっそく福岡藩江戸藩邸まで出向いて、おおいに祝いをしました。保科家の血筋が益々栄えていくことを願って憚りません。
 慶長8年(1603)、川中島藩13万7千500石 の森忠政殿が美作国へ移封となりました。拙者は徳川様の命令によって川中島藩の飯山城、長沼城、牧ノ島城、稲荷山城に兵を送って受け取り、次の松平忠輝様へそれらを引き渡すまで城番を勤めました。慶長10年には将軍となられた徳川秀忠様が上洛するに及んで兵を率いて供奉し、その年はさらに江戸城の石垣普請も命じられ藩の出費を惜しまず全力で取り組みました。このように高遠へ移ってからは、何かと命が多くなり、拙者が高遠に居られる時などほとんどありませんでした。しかし、この年に養嗣子の正貞が従五位下弾正忠に任命され、苦労の甲斐があったと感じました。
 
 
 それから数年が過ぎた慶長16年(1611)3月、懇意にしていた下総国岩富城主 (千葉県佐倉市)の北条氏勝殿が亡くなり、家臣の堀内殿らが拙者の弟の久太郎を跡継ぎにしたいとのありがたい申し出があり、徳川様の許しを得て北条氏重と名乗って岩富藩主となりました。誠に目出度いことであります。この頃になると高遠での藩政も軌道に乗り、国元の政治は従兄弟の保科正近を高遠城代家老として任せ、拙者は江戸藩邸に住んでいました。
 慶長19年(1614)、いよいよ大坂の豊臣秀頼様と家康様とが不和になり、拙者も兵400を引き連れて出陣しました。初めのうちは大坂方が京都を落とすのではと噂されましたが、大坂城を出る様子も無く、拙者は山城国の淀城を守備するように命じられました。ここは京都と大坂を結ぶ非常に重要な城で、食料や兵の移動に便宜を図る大切な御役目になります。家康様の拙者に対する信頼を感じました。その後、徳川様は大軍をもって大坂城を取り囲もうとし、京街道を進んだ佐竹義宣殿は大坂城北東の大和川の対岸にあった今福砦を攻撃しました。ここでは大変な激戦であったらしく、拙者は後備えとして11月26日にこの砦に入りました。砦の内外は死体で溢れ、岸辺は赤く染まっていました。すぐさま周辺を整地して倒れた木杭などを打ち直して砦を修築し、守備を固めました。今福砦の前には湖のように広い大和川の天嶮堀が眼前に立ち塞がり、その向うに大坂城の高い石垣が見えます。城にはふんだんに食料が備えてあるらしく、とても落城させられまいと御味方は口々にしていました。案の定12月には和睦となり、拙者も高遠を経由して江戸へ引き揚げました。
 それから半年後の慶長20年(1615)5月7日、「並び九曜」の旗を高々となびかせ、拙者は再び大坂城の眼前にいました。2里先には天守閣が小さく見えます。前回と違って南側からの眺めでした。今度の戦は徳川家康様が得意とする大規模な野戦でした。拙者もその陣営に加わるように命じられ、榊原康勝、小笠原秀政、諏訪忠澄、仙石忠政、丹羽長重殿と共に阿倍野という場所に天王寺口の第3として、徳川家康様の前面を塞ぐ形で布陣しました。拙者はこれまでの経験から直感し、この戦は命を落しかねないと思い、養嗣子の正貞には留守を申し付けました。しかし、数え27歳になる正貞は血気に逸って拙者の命令を聞かずに出陣して来てしまいました。
 陽が真南をさそうとした頃、突如、前衛の本多忠朝隊から一斉射撃の音が鳴り轟き、大量の硝煙が我が方に流れてきました。それと同時に法螺貝が鳴り響き、本多隊が喚声とともに敵の毛利勝永隊に突撃してく様が見えました。しかし、毛利隊による反撃の一斉射撃と、その後の素早い挟み撃ちにあって、本多隊とその両側にいた秋田実季、浅野長重、真田信吉・信政隊が次々と崩れていくのが見えました。御味方の崩れを早いうちに収めるのが上策、直ぐに我が陣営の横にいた小笠原秀政隊が、混戦の中へ突撃していきました。遅れをとっては後の災いと思い、拙者も続いて突撃を命じました。しかし、我が隊の前面は深田となって、その向うの敵築地から狙撃の的となっていました。その攻撃に手間取っていると、拙者が静止する間もなく、正貞が馬から下りて単身深田を越えて敵築地へ斬り込んでいきました。敵は混乱し、その間に味方も次々と深田を越えることができました。しかし正貞はすぐさま更に先で本多忠朝殿が毛利隊と混戦していた所へ突撃していきました。我が軍は僅か600の手勢ですが、小笠原隊と一体となって本多隊を助けるべく、粉骨砕身敵の寄せ手を討ち取っていきました。しかし拙者の部隊からははっきり見えませんでしたが、小笠原隊が横の敵隊に挟撃を受け、しだいに崩れていきました。他隊に気を取られている内に、気が付いた時には我が隊の前の本多隊はほぼ壊滅して無く、毛利隊の本隊と思われる塊が怒涛のように拙者の方へ押し寄せて来ました。正貞の生死も分かりません。先陣の家臣らが必死に応戦しましたが勢いに押されて次々と倒れ、拙者自身、無我夢中で槍を振るって格闘しました。いつの間にやら拙者の腿や胸から血が流れ、疲れたのか槍を握る力も無くなってきました。知らぬ間に馬上から落ちて倒れていたところ、何とか家臣に担がれ、援軍に来た井伊隊が見えたので、そちらへ退きました。これまで経験したことがないほど大勢の家臣が死にました。傷の手当を受けながら、戦を眺めていると、徳川家康様の陣も一旦は崩れたようでしたが、多勢に無勢敵も疲れてきたらしく、まもなく反撃に転じて敵は総崩れになっていきました。夕暮れ時が近づきしばらくすると大阪城に火の手が上がるのが見えました。これで全ての戦は終わって「厭離穢土 欣求浄土」がやってくる、そう思いました。翌日、戦死した大勢の家臣を探し出して陣僧による弔いをすませると、徳川様のもとへ戦勝祝いに出向きました。夜半に戻ってきた正貞は体に4箇所の大怪我を負っていましたが、命に別状はなく、拙者と共に大御所家康様、将軍秀忠様へ討ち取った首などをお持ちしました。家康様は拙者等の陣営が破られたことで、自身が危険な目にあったと立腹されているようでした。今度の戦は大勢の犠牲を伴いましたが、恩賞は充てにできないと思い落胆しました。しかし、共に戦った小笠原秀政や本多忠朝殿が戦死したと聞かされ、命があっただけでも幸いと考え直しました。

 
 今回の大坂での戦の後始末として、元和2年(1616) 信濃国から越後国にかけて広大な領地を保有していた松平忠輝様が改易となりました。拙者は恩賞に与るでもなく、休む間もなくその領地の一部である越後国三条城(新潟県三条市)の引き取りを命じられました。高遠に帰国したばかりの家臣等には申し訳なく思うが致し方なく、次ぎの領主が決まるまで三条城の城番を勤めることになりました。蒲原郡一円の政務も任され、 春の稲作の手配や一揆の発生などに間違いがあっては同じように取り潰しにあうと思い慎重に采配しました。そしてようやく7月に但馬国の市橋長勝殿が三条へ移封となることが伝えられ、順次引継ぎを済ませて秋に帰国することができました。 杖突峠を越えて、高遠でその年の収穫を終え、無事に年を越して安堵しました。しかし元和3年(1617)春になって今度は、将軍徳川秀忠様が後水尾天皇へ和子様を入内されるために 再び上洛するとして、その供奉を命令され、6月に兵を率いて京へ行きました。9月に秀忠様は要件が済んだようで江戸に戻り、拙者も江戸藩邸へ帰りました。
 こうして大坂の陣以後、久方ぶりに江戸藩邸で落ち着くことができました。 しばらくご無沙汰していた方々へ挨拶を済ませ、拙者は江戸城の田安門の傍に屋敷を賜っていた見性院様のもとへ御機嫌伺いをしました。見性院様は元主君の武田信玄公と三条様の間に生まれた息女で、穴山梅雪信君殿の正室となった方でした。しかし、天正10年(1582)に穴山殿が亡くなられると、出家してその菩提を弔っていました。徳川様が江戸に移ってからは、見性院様も田安に屋敷を賜って生活していました。56歳になった拙者とはほとんど同年で話が合い、35年前に武田家を裏切った拙者を許して心ならずも訪問を喜んでくれていました。
 秋空の中いつものように田安屋敷を訪れると、見性院様は時々屋敷で見かけた男の子を拙者に引き合わせてくれました。名は 「幸松」と言い、7歳になります。見性院様は、「幸松は将軍秀忠様の御子で、御台様に秘密で産ませた子なので何時殺されるとも分からぬので、秀忠様の命で今日まで私が秘かに養育してきました」と言いました。さらに、「近頃ここも危険となり、そろそろ弓馬の道も仕込んでおかねばならない歳となったなので、武田家遺臣で信頼のおけるそなたに今後の養育を託したい」と言いました。拙者は徳川秀忠様の内命を受けた老中の土井利勝様からも養育の件を申し付けられ、正式にお受けすることにしました。
 11月8日、拙者は幸松殿と母の於志津様を護衛で固め、高遠へ向けて出発しました。 そろそろ高遠でも初雪が降る季節です。田舎の生活に早く慣れていただくために、どのようにしたらよいか思案しました。高遠では南郭の一角に 小さいながら新しい御殿を造営し、お二人に住んでいただくことにしました。幸松殿には弓馬剣の指南役として、高遠藩屈指の井上市兵衛、小原内匠、狩野八太夫を付けました。さらに学問の師として建福寺住職の鉄舟和尚に託しました。 拙者は高遠に在国の時は、週に3、4度ご機嫌伺いをすることにしていました。将来は尾張や紀州公など将軍家の御子として数十万石の親藩になる日もあろうと考えていました。その時は我が家臣も加増となると思い、それまで懸命に励むことにしました。幸松殿は しだいに成人され、童名ではおかしな年齢になってきました。下の者が改名するわけにはいかず、家中では後に将軍家の御子として信濃一国を統治するかも知れぬと願い、「信濃様」と御呼びすることにしました。
 元和4年(1618)、 大坂の陣での御加増はあきらめていましたが、筑摩郡において5千石を賜り3万石となりました。噂では信濃様の養育費ではないかと言う者もいましたが、諏訪殿も同様に筑摩郡で御加増となったので、大坂の褒美だと受け取りました。
 
 幸松殿を養育して3年が経とうとしていました。将軍秀忠様と幸松殿との御面談は1度もなく、この頃になると本当に将軍の御子であるのか疑問を持つようになりました。さらに例え御子としても、親藩として取り立てる御意向はないのではないかとも考えるようになりました。この思いを誰にも相談できず一人悩む日々が続きました。拙者の心配が的中すれば、熱心に幸松殿を養育している家中の者達に対して申し訳なく、是非とも秀忠様との御面談が叶うようにしなければならないと心に誓いました。再三江戸町奉行の米津勘兵衛田政殿を通して土井利勝殿に親子の対面を申し上げました。しかし、御台様がご存命だからとの理由で、実現されませんでした。最早神にすがる他なく、高遠の鉾持権現に社領30石寄進し、幸松殿の立身をお願いしました。
 
 
 元和6年(1620) 、拙者は大坂城の城番で、まる1年間国元及び江戸を離れました。歳も60近くとなり、体も不自由となってきたので隠居の事なども考えるようになりました。しかし、養嗣子の正貞と幸松殿のことが気掛かりでなりません。相変わらず幸松殿を親藩に立てようとする様子も見られず、不遇に一生涯高遠で預かるよりはわずかな可能性に期待して、幸松殿を跡継ぎとすることに心を決めました。多くの者達が反対するであろう、それらの遺恨を全て拙者が引き受けて冥途へ持って行こうと思いました。早速遺言状を認めて、それを高遠へ送りました。
 

遺言状
 
○何事にても不慮に我等が相果てた時、跡式の儀は幸松殿とする。この事を米津勘兵衛殿に頼んで土井利勝殿へ申し上げること。
○幸松殿が20歳となるまでは、家中、町人、百姓以下の事は我等の時分と変えないこと。
○我等以降、幸松殿へ御加増があれば、家中の知行加増や浪人召抱えなどの事は米津勘兵衛殿の指図を受けること。
○弟正貞のこと、知ってのごとく気違い者であるから、生々世々義絶したことを御年寄衆へ申し上げるべきこと。
7月22日  保科肥後守正光
 
 保科正近、篠田隆照、北条光次 殿
       (いずれも高遠藩家老)
 

 
 幸松殿跡継ぎの事を正貞に申すのが最も気に病みました。20年以上にわたって拙者の跡継ぎとして生きてきた正貞が、これをどう受け止めるのかが気懸かりでした。正貞は江戸藩邸に居たので北条光次から話してもらったのですが、しばらくして正貞が居なくなったことを聞かされました。高遠にも戻っていないらしく、荒い気性の正貞は二度と高遠には戻ってこまいと思いました。後で文にて知りましたが、正貞は諸国を放浪した後に叔父である伊勢国桑名藩主の松平定勝殿のもとへ身を寄せているとのことでした。正貞の実母の兄である久松俊勝殿の息子定勝殿を頼ったのでしょう。そこで桑名藩の家来にしてもらいたいと願ったようですが、我らに気を遣われたのか、お断りしたとのことでした。
 それから9年後の寛永6年 (1629)、 世は幸松殿の兄上である徳川家光様の代となっていました。拙者は老体に鞭打って、徳川家光様の上洛や、伏見城の留守、二条城での参内(後水尾天皇)にお供をするなどして努めていました。そんな折り、出奔していた正貞が上総国周准郡(千葉県富津市)と下総国香取郡内に3千石を与えられたことを知りました。高遠藩に比べれば僅かですが、切ない思いをさせた弟の立身が見えたことで大変安堵しました。嬉しい事は続くもので、6月24日遂に念願の徳川秀忠様と幸松殿の対面を果たすことができました。親子の名乗りはありませんでしたが、この時からしばし秀忠様の次男の徳川忠長様に呼ばれ、饗応を受けるようになりました。翌寛永7年6月23日には 、将軍家光様に謁することにもなりました。拙者の命も残り僅か、全国での戦で苦労させてきた高遠の家臣達の御加増も近いことと思われます。その時皆にはどこまでも付いて行き、若様を守り立てていくように伝えました。後は幸松殿に託して・・・正光

(四方赤良 あとがき)
 寛永8年(1631)10月7日 、信濃国高遠藩主 保科肥後守正光 卒す
 幸松は高遠藩を継いで保科正之(ほしなまさゆき)と名乗り、高遠の家臣や百姓などを多数連れだって、後に会津国(福島県)23万石の初代藩主となりました。将軍より松平姓を与えるとの申し出がありましたが、あくまで保科家の者として、亡き養父の保科正光に遠慮して辞退しました。保科正之が会津に引き連れた家臣の姓を挙げると『北原、小原、赤羽、樋口、辰野、日向、有賀、唐沢、黒河内、唐木、御子柴、春日、井深』などになります。これを見て自分と同じ姓だと思う伊那や福島県の方々が大勢いるのではないでしょうか。また、不遇な人生を送った弟の正貞は、後に幕府の重鎮となった正之の引き立てにより1万7千石の大名となり 、保科家の家宝などを正之から譲渡されました。

『四方赤良』 ・・・江戸日本橋新和泉町の銘酒「滝水」で有名な酒屋四方久兵衛の店で売る赤味噌や酒の略称と云われている。
『四方赤良』を「ハンドルネーム」にするブログから転載しました。

天正壬午の乱以降の保科家の正直、正光の歴史的事実は、筆者の知識と一致している部分と違う部分があります。穴山梅雪や見性院に対して、保科正光は「裏切った」という表現がありますが、梅雪は、武田勝頼の後期は、家康に靡いていたという事実があります。正則や正俊の没後の取り扱いなどに若干の謎が残されていますが、会津松平家の祖・保科正之の養父の人となりや生き様を知る上では、かなり分かりやすい資料と思われますので転載しました。 ・・庄


研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

2014-10-30 00:40:53 | 歴史

研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

武田信虎と工藤虎豊

工藤虎豊(くどう とらとよ)
 ・・・子:工藤昌祐、子:内藤昌豊(昌秀とも)

略歴
・1490年(延徳二年)、武田氏家臣・工藤祐包(すけかね)の子として生まれる。
・1507年(永正四年)、甲斐武田氏当主武田信縄が労咳で病死すると嫡子信直(後の信虎)と叔父油川信恵との間で家督争いが起き、虎豊は小山田弥太郎と共に油川方に与した。
・1508年(永正五年)、信虎が信恵を奇襲で討ち取ると降伏して帰参を許されている。以降信虎に仕え、その一字を賜り虎豊を名乗る。
・1536年(天文五年)、駿河で今川氏親が病死し、嫡子栴岳承芳(後の今川義元)と庶子玄広恵探との間で家督争い(花倉の乱)が起き、敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。
・虎豊の死後、嫡子昌祐は一族を率いて甲斐から脱して一時工藤家は断絶。次子祐長(後の内藤昌豊)が甲斐に戻るまで諸国を流浪したという。 …上記wikipediaによる

 ・・天文五年(1536)、この年は、甲斐武田家にとって激震が走った年である。
 ・・・海ノ口城攻略戦(1536年). 武田軍 (兵数 8,000). 総大将を武田信虎として、武田晴信. 海ノ口城 (兵数 3,000)を攻撃する。海ノ口城は総大将を平賀源心として向討つ。 戦況は、信濃国侵略を狙う武田信虎は、 天文四年(1535)に諏訪氏と同盟を結んだ上で、 天文五年(1536)11月、怒涛の勢いで海ノ口城を攻撃する。しかし、海ノ口城は城塞が強固の上、平賀源心が剛の者で、無勢ながらよく戦い、膠着状態に陥った。季節は冬にさしかかり、雪が舞い始め、野営の遠征軍には悲惨な状況になったという。年の瀬と正月を間近に控える時期なると、両軍ともに厭戦気分が蔓延し始める。どちらかと言えば、甲斐武田軍の方が、戦意が無くなっていたと見える。ここで、信虎は、撤退を決意して退却をすることになった。
 ・・・この時、初陣が信虎の子・晴信(=信玄)であった。武功を望んだ晴信は、信虎に、執拗に殿を申し出て、根負けした信虎は、晴信にを300与えて殿軍をまかせた。
 ・・・この撤退の様子を確認した海ノ口城の平賀源心以下の佐久軍もまた厭戦が漂っていた。援軍もまた遠征してきていた。正月を自分の居城で過ごしたいのは、甲斐軍と同じである。援軍の主力部隊は、須坂の井上一族である。井上軍は、甲斐武田軍の撤退退却を見届けると、須坂へ帰っていった。残ったのは、平賀軍の500、半ば祝勝気分で宴会し、戦意は薄れてしまった。
 ・・・この弛緩してしまった海ノ口城の平賀軍へ、晴信の殿軍が、踵をかえて襲いかかったのである。こうして勝利した甲斐・武田軍は、次期嫡子・晴信が初陣を飾り、武田軍の中で次期頭領としての信頼を太くしていったのである。
 ・・・この時、逆に、海ノ口城・平賀軍と佐久軍が、なぜ追撃しなかったのか?追撃していれば、戦局は大きく変わっていたように思う。武将としての資質の問題はあるが、戦局としては、500対300の局地戦であり、戦況に大きく響く問題ではない。
 ・・・しかし、ここで武田信玄の偶像が生まれる大きな切っ掛けになっていった。甲斐・武田家として見ると、象徴的な出来事だったわけである。

花倉の乱(今川家の内乱)
 ・・乱の発端は天文五年3月に今川氏輝が24歳の若さで急死したことに始まる。さらに同じ日に氏輝の兄弟である彦五郎も死去。2人の兄弟が同時に亡くなったことで今川氏の家督をめぐって危機的な状況が生じました。
 ・・・氏輝には子がなく、家督候補として2人の弟が挙がる。
一人は今川義元で、母親は氏親の正室。彼には養育・補佐役として臨済宗の僧であり軍師としても名高い太原崇孚雪斎が付いており、正室の子である義元が家督継承者としてもっともふさわしい存在。
その義元と争ったのが異母兄の今川良真です。母親は今川氏重臣である福島氏の娘。当時、良真は遍照光寺の住持で、「花蔵殿」・「花蔵」と表記されています。
2人の後継者候補と双方を推す2分した家臣たちによる駿河国内の勢力争いが花蔵の乱。
 ・・・花蔵の乱については、今川館のあった駿府周辺や由比城などで両軍の戦いが行われており、乱の最終段階は花倉城が落城し、瀬戸ノ谷に逃れた恵探たちは本郷の亀ヶ谷沢で自害し乱は終息しました。

 ・・・敗れた玄広恵探方の者が信虎を頼って甲斐に逃れてきた際に信虎は全員に切腹を命じたため、虎豊は強く諌めたところ、勘気に触れて殺されたという(諸説あり)。

この花倉の乱は、海ノ口城攻撃に先立つところの四月頃。それまで、信虎の武田軍と今川軍は、度々戦いをしており、今川軍に殺された武田家臣も居たところから、独断で今川義元に肩入れすることに危惧を抱いていたのが、武田家臣団の大勢であった。そして、信虎への諫言に対して勘気で殺害された工藤虎豊にたいして、同情していた。
この、信虎への反感・心情を共有していた武田家臣団は、一挙に晴信擁立に動いたのだ。

 ・・・天文十年(1541)6月、武田晴信が父・信虎を追放しました。

武田晴信と工藤虎豊の子・昌豊・昌祐兄弟

・天正十五年(1546)、昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。

この時、武田晴信を取り巻く重臣は、工藤虎豊と同様に、花倉の乱の時、信虎を諫めて、信虎の勘気で殺された武田家臣の子が、多く占めていた。
 ・・・信虎を諫めるなどした内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊を自ら斬り殺しています。内藤虎資は家系断絶、工藤虎豊は子孫追放、馬場、山県の子は晴信の側近。
 ・・・武田晴信は、花倉の乱に、断絶した、あるいは追放した家系を、馬場や山県らと復権したと見て良い。これが、天正十五年の武田晴信(信玄)の最も重要な仕事であった。

工藤兄弟の名前の確認
 ・・兄・祐元 別名:昌祐、昌裕、籐七郎
  官名:長門守     武田信廉に仕える
 ・・弟・祐長 別名:昌豊、昌秀、源左衛門
  官名:修理亮、下総守 武田晴信(信玄)に仕える:内藤に姓を変える

年譜
 ・・ 1536年、工藤虎豊が、武田信虎の勘気で殺害され、子息は甲斐から追放される
 ・・ 1546年、武田晴信が、放浪の工藤子息二人を呼び戻し、工藤家を復権させる
 この間10年 ・・・工藤兄弟は、
 ・・ 相模・伊豆を放浪していた、とあり
 ・・ 関東周辺を放浪した、と言う説もあり
 ・・ 海の近くに住んだ、ともいう。

以上、上記までが史歴に残された情報であるのだが、さてさて、どうも工藤家の歴史を繋いでいる”祐”の通字が気に掛かる。

 ・・・”祐”の通字は、鎌倉期初期の「曽根物語」にでてくる敵役の工藤祐経(すけつね)に通じる、名跡・工藤家の通字の”祐”である。

 ・・・この、工藤祐経の子孫は、「犬房丸伝承」があり、伊那に配流され、伊那の何カ所かに、その痕跡が残る。例えば、大草、神稲・林、伊那・狐島、箕輪・小出などなど。ただ、犬房丸伝承は日本各地に残り、伊那に足跡を残したという史実も、証左とする資料の少なさから、一部に疑問があり、断定されるに至っていない。従って工藤(宮藤)家の血流が繋いだとする説も若干疑問が残る。
 ・・・通常、領主に放逐された場合、その領主の影響が及ばない親類を頼るのが常では無かろうか、と思う。そうすると、信州伊那のどこかにも、隠れ住んだ可能性が出てくる。この時、信虎から隠れたのであって、伊那のどこかでは、その地の領主からは身を隠す必要はない。
 ・・・工藤兄弟が、かっての武田家臣へ帰参する切っ掛けとなったのは、板垣信友の斡旋に拠るところという史実が残るという(・・当方未確認)。
この頃の板垣信友の事跡を、『高白斎記』から辿れば、・・・高遠頼継を追い藤沢頼親を屈服させた晴信は、天文十二年(1543)、信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じ、上原城を整備して入部。諏訪・佐久両郡に所領宛行を行っている(「千野家文書」)。諏訪支配を担当した信方の立場は「郡代」の呼称が用いられ「諏訪郡代」とされている。・・天文十四年(1545)、晴信は高遠城を攻略し、高遠頼継は没落した。続いて藤沢頼親の福与城を攻めるが頼親は信濃守護小笠原長時と結んで抵抗した。信方は藤沢氏・小笠原氏に与する龍ヶ崎城を攻め落とし、孤立した頼親は降伏した。・・・
板垣信友が、諏訪、高遠、箕輪を郡代として支配した天文十四-十五年(1545-1546)に、これらの地域の中に、工藤兄弟が居住していたところを発見し、晴信に帰参を進言したのでは無かろうか。板垣信友が、工藤兄弟を見つけ出す経緯は、高遠・箕輪での戦乱と支配の中でしか考えられないのである。 ・・・これは、工藤兄弟の帰参を強く進言した板垣信友が、諏訪・上伊那地方を、郡代として統治した時期と領域と、工藤家の姻戚関係者がこの地方に散在していたという事実から、導き出された推論である。
しかも、時(1546年)を同じくして、武田晴信の家臣となった、保科正俊と工藤祐長・祐元兄弟は、旧知の如く、姻戚の如く交流した事跡が史実に残っている。極めつけは、正俊の子・昌月が、内藤(工藤)昌豊の養子になる事跡である。
こう考えると、工藤昌豊兄弟は、保科正俊と同盟するの藤沢氏の勢力下であった箕輪に隠棲していて、その頃から旧知の仲であったと考えるのは、あながち突飛な着想ではない、と考える。そうでなければ、あのような両家の交流は生まれなかったのではないだろうか。
 ・・・甲斐を追われた工藤兄弟は、相模や伊豆に行ったのかも知れないが、晴信に呼び戻される前辺りは、箕輪や諏訪の工藤の同族を頼って、箕輪か諏訪に住み着いていたのでは無かろうか。


研究ノート 「保科家と内藤家との関係」

2014-10-20 02:37:26 | 歴史

研究ノート 「保科家と内藤家との関係」

第一章:内藤・工藤家の歴史

まず、内藤家の歴史を辿る。内藤を名乗る前は工藤氏。
工藤虎豊:1495~1537:明応四年(1495)生まれ。工藤祐包の長男。:工藤祐英ともいう。

武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。 工藤氏は鎌倉時代から甲斐の名族であり、甲斐国巨摩郡と西郡から信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭であったという。
 ・・・信濃国伊那郡の一部に及ぶ大草郷を支配する地頭 大草郷(=中川村)
  ・・・この部分については、同族別流の工藤氏と思われる。犬吠丸伝承(曽我物語)と繋げるのは、飛躍と思われる。


 伝承1 ・「犬吠丸・駿河の狩場で、仇である工藤祐経を討ち果たした曽我時政はその場で捕らえられ、源頼朝の前に引き出されました。それを工藤祐経の息子の犬房丸(いぬぼうまる)が、父親を殺された怒りのあまりに扇子で曽我時政の顔を叩いたので、源頼朝が「武士として縛られている者を殴るとはなにごとか」と犬房丸を怒り信濃国の伊那に流してしまいました。犬房丸はそのまま伊那の狐島に住みつき、春近郷に領地をもらい、善政を行ったといわれています。それによって後に執権北条泰時に流刑を許されました。」
 伝承2 ・「伊那春近領における犬房丸の伝説 ・・・ 源頼朝の家臣工藤祐経の子「幼名 犬房丸(工藤 祐時)」は伊那春近領に流罪になりました。犬房丸が流罪になる以前から工藤氏は小出(小井弖)に住み着いており、犬房丸はこの工藤氏の一族だから保護されました。先に住み着いた工藤氏一族は後に地名の小出(小井弖)氏を名乗りました。犬房丸を含めこの一統は地名の唐木(とうのき)の唐木(棠木)氏を名乗ったといわれます。


 史学博士井原今朝男教授は「伊那春近領政所長官の池上氏・小出を治めた工藤(小井弖)氏・伊東氏(紋は庵に木瓜)などの関わりが犬房丸の伝承に繋がったのではないか」と言われています。犬房丸祐時に関する吾妻鏡の記載と伊那に伝わる内容に大きな違いがみられます。井原教授がいわれるように、政所の長官の池上氏を背景に勢力を伸ばした工藤(小井弖)氏などとの結びつきの中で犬房丸の伝説が形成されたものとも考えられます。
 この「工藤氏供養塔」や「曾我物」の普及が影響し、500年経って、18世紀以後いわゆる「犬房丸伝説」(伊那温知集1740・伊奈郷村鑑1740?・新著聞集1749・狐島神社記1875・など)として多くの記録が作成されました。 ・・・伝聞に基づき信頼性が薄い。

 ・・・『吾妻鑑』には治承四年(1160)8月25日、平家の将俣野景久と駿河目代橘遠茂を富士裾野で迎え撃った甲斐武田勢があったと記し 「安田義定、工藤景光、工藤行光、市川行房ら甲州より発向云云」とある。これにより、大草郷の地頭が工藤景光であったことが明らかとなっている。・・・ 工藤守岡、工藤光長父子が武田信昌に仕えており、工藤光長の長男工藤祐包、次男工藤昌祐も武田信昌、武田信縄に重く用いられた。 工藤祐包の長男工藤虎豊は武田信虎の重臣として、名を馳せた。 また武田信縄の近侍として工藤昌祐や工藤祐久の名が『一蓮寺過去帳』に記されている。・・・しかし、工藤虎豊は『武田三代記』によれば天文六年(1537)に武田信虎の駿河出兵について直諫したことで、内藤虎資とともに誅殺されたという。 武田家中で重臣として仕えてきた工藤氏は、甲斐を出奔し名跡が絶える。 永正四年(1507)から起こった武田信虎と油川信恵の家督争い(油川氏の乱)では、工藤氏は一貫して油川氏に味方しており、 永正五年(1508)10月に笛吹市境川で行われた坊ヶ峰合戦や12月に都留郡で行われた境小山田合戦などで相次いで敗れた工藤氏は、 小山田氏とともに伊豆へ逃亡し韮山城の伊勢盛時に出仕した者もいたという。 跡絶えていた工藤氏であったが、武田晴信の代になって天文十五年(1546)には、工藤祐元や工藤祐長(内藤昌豊)兄弟は甲斐へ呼び戻され、工藤氏再興がはたされた。 ・・・1160年頃から1507年頃へ、一挙に飛び越えている。後年に作られた物語 ・・・

鎌倉時代から甲斐・武田家の家臣になるまでの工藤家(宮藤表記も含めて)は、上記に一部の記述が歴史書に散見できるが、他にも下伊那・豊岡村林の地頭や佐久地方に、犬吠丸伝承に関連した痕跡が残るが、いずれも甲斐・工藤家に繋がるとは断定できない。武田信虎以降の、信虎反抗後の誅殺と係累の伊豆への逃亡については、証拠立てが整っているので、事実のことと認定が出来そうである。

ただ、甲斐・内藤・工藤家は、”祐”の通字を使っているところから、犬吠丸・工藤家を自認していた、と思われる。

第二章:保科正光は、誰の子?

寛政譜によれば ・・・
保科正光は、父を保科正直、母を跡部女(ムスメ)の子、とある。
本当であろうか?
保科家と跡部家(勝頼の重臣)の関係は、寛政譜の系譜のみで他に検出できない。僅かに、高遠城落城(=織田攻め)の時殉死の記録が残るのみである。その後の権力を取り戻した後の保科家からの供養のフォローの跡が見られないのである。
別の保科家の系図上に
 「保科正光正直子工藤祐元?子」の記述が残る ・・・小笠原家(文書)
これは、一体何であろうか?
工藤祐元とは、武田信虎に反抗して誅された工藤虎豊の子・工藤兄弟の兄の方である。ちなみに弟は工藤祐長で、後の内藤昌豊のことである。信虎を追放した信玄が、信虎に追われた工藤兄弟を甲斐に呼び戻したのが1546年のこと、信玄は、兄・祐元に工藤家を再興させ、弟・祐長に、空いていた”内藤家”を継がせた、と見て良い。
注目は、この時期であるが、高遠・諏訪頼継の高遠城が落ち、高遠城の筆頭家老・保科正俊が、高遠城の城代になり、武田晴信の家臣になっている時期と重なる。
この時、・・・正直この時5歳。

関係者年譜
正直は天文十一年(1542)- 慶長六年 (1601)、正俊の子。
正光は永禄四年 (1561)- 寛永八年 (1631)。
昌月は天文十九年(1550)- 天正十六年(1588)、別名:千次郎(幼名)
   官位:修理亮・大和守 主君:武田勝頼→織田信長→北条氏直 氏族:保科→内藤
   父母:父・保科正俊、母・小河内美作守?の娘 養父:内藤昌豊(実父説あり)

○内藤昌豊は、工藤祐長と名乗って相模・伊豆を放浪していたが、武田信玄に呼び戻されて、兄・祐元が甲斐・工藤家を継ぎ、弟・祐長は、空位になっていた甲斐の名跡内藤家を継ぎ、内藤昌豊/昌秀と改名した。
・内藤昌豊 大永二年(1522)- 天正三年(1575)
・別名:工藤祐長、工藤源左衛門、内藤修理亮、官位 修理亮
・戒名:善竜院泰山常安居士、墓所:高崎市箕郷町生原
・主君:武田信玄、武田勝頼 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 昌月、昌弘
○工藤昌祐は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。内藤昌豊(昌秀)の実兄。
・工藤昌祐 永正十七年(1520)- 天正十年(1582)
・別名:工藤祐元、工藤長門守、官位:長門守
・主君:武田晴信、武田勝頼、徳川家康 氏族:藤原南家工藤氏
・父母 父:工藤虎豊 兄弟 工藤昌祐、内藤昌豊 子 工藤祐久

参照:小笠原家
www.geocities.jp/kawabemasatake/ogasawa.html
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
  正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
  正直15421601正俊子弾正
  正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正

この保科家と内藤・工藤家の関係者年譜を眺めていると、不思議な感慨を覚える。恐らく、保科正俊の、信玄の家臣時代に、ほとんど同時に武田家へ仕えるようになった両家の親密な交流の跡が、鮮明に浮かび上がってくるように思える。

理由は二つ ・・・
 ・正光正直子工藤祐元子?甚四郎肥後 ・・・1
 ・千次郎(=昌月)、内藤昌豊を継ぐ ・・・2 
 ・・ 保科正直の正妻は、工藤祐元(=昌祐)の女(ムスメ)
 ・・ 保科千次郎(=昌月)は、工藤(=内藤)昌豊(=祐長)の実子で、保科正俊の養子。
上記二点は、可能性とか疑いの問題である。
ただ、こうした推論の方が、保科千次郎が内藤家に養子に入って内藤昌月になった理由が、唐突感が無く筋道が立つのである。

参考:内藤昌豊
内藤昌豊は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田四天王の一人。
 ・・・ 武略に長け、武田信繁と共に武田の副将格として評された。『甲陽軍鑑』にも、山県昌景が昌豊のことを「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記している。
 ・・・ 甲陽の四名臣とは、信玄が最も信頼した四人、馬場信房・高坂昌信・内藤昌豊・山県昌景の四人で、信玄は軍議には必ずこの四人を呼び、意見を求めたといわれています。 
 ・・・・「馬場信房は戦いの手段を進言し、山県昌景は出陣の機を進言し、内藤昌豊はどこに出陣したらよいかを進言し、高坂昌信は敵国への謀略と、戦いの延期が必要な場合、これを進言する」と「甲陽軍鑑」などでは言われています。・・内藤昌豊はどちらかといえば知将の武将で、戦でも知略を用いて働いていたといわれています。また性格も温厚で公明正大であり、部下達からも慕われていたと伝えられています。

武田勝頼は、武田氏の正嫡である武田義信が廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
 ・・・ 勝頼の、武田家惣領の相続の際に、内藤昌豊の興味深い話が伝承する。信玄から勝頼への相続の時、習わしには、「先代・信玄公にお仕えしたと同様の奉公を、相続の勝頼公にも勤める」という誓詞差し出すのが、武士の世の常といわれるようだ。しかし、何時になっても、内藤昌豊は誓詞を差し出そうとしなかったそうだ。しびれを切らした勝頼は、逆に、主君の勝頼から、部下の内藤昌豊に誓詞を出すとまで言って、内藤昌豊を、武田勝頼軍団の重責に引き入れようとしたらしい。この時の交換条件が、保科正俊の子・千次郎の嫡流予定の養子の件であったそうだ。 ・・・


この話を読んだ時の疑念が、前述の”保科家と内藤・工藤家”との親密性の憶測に繋がっていることを否定するつもりはない。保科正俊の子・千次郎は、幼い時から”勝頼"の小姓を勤め、英才は勝頼以下の主従に認められていたと記録に残る。
この時の、主従関係拒否の内藤昌豊の心中は、信玄への”恩義に報い終えた”という達成感と、”信玄と比べた勝頼の危うさ”を感じて、武田家への臣を終わらせたかったのではないだろうか ・・・と推測する。勝頼に乞われて、また主従する時、”危うさ”を滅亡への道と自覚し、内藤家の将来と託す人物として、千次郎(=昌月)を指名したと読むのは、深読みのしすぎだろうか。千次郎が、”昌豊の実子”説が根強く残るのは、保科家との関係が、そのような交流を前提とするような交流だったのではないかと ・・・
保科正俊は、信玄の没後に引退し、正直に家督を譲っている。この時の正俊の年齢は65歳前後、当然引退をしておかしくはない。そして、奇妙に内藤昌豊が引退を考えた時期を同じくする。しかし、正俊は引退を許されて、52歳頃の昌豊は、それが許されなかった。

上記の前提を是とすると、保科正直の正妻・跡部美作守の女(ムスメ)はどうも納得がいかない。
保科家の正則、正俊、正直、正光の各世代の特徴は、各種文書を読むと、保科家本流・支流を合流させて、その団結の上に、保科家を団結して強い絆を築いているように見える。正光と正妻の実家・真田家との関係も、決して悪くない。
それなのに、甲斐の名門・跡部家との縁の欠片も見えてこない。これはどういうことなのであろうか?

第三章 保科正直の母は誰?

赤羽記付録によると、
・父正俊母小河内美作女、生死年月法名不詳、武田家之○下信州高遠城主、武田家亡後正光奉仕東照宮之摂州、大阪役後賜禄三万石主信州伊奈郡高遠城・

保科正直の父母についての記載は、上記「赤羽記付録」で、父・正俊、母・小河内美作守女(ムスメ)との記述がある。併せて、寛政譜の記載も、同一内容である。
しかして、これが定説となり一般に流布しているのが現状である。
果たしてそうであろうか?
父親については、疑問を差し挟む余地は、余りなさそうである。
母親については、いささか疑問がある。

小河内美作守について、かなり念入りに調べたことがあるが見つからなかった。
小河内の人名はないが、地名はあるかと調べると、確かに北箕輪に”小河内”という地名が存在する。この地は、正俊の時代には、藤沢頼親の領域であり、保科正俊と敵対関係であったわけでもないので、可能性はあるが。美作守の官名がどうも引っかかる。”守”を名乗るのは、従五位下の官位の官名で、自称していたにしても小豪族を意味する。しかし、藤沢頼親といえど、官名を戴くまでにはいたっていないので、部下が従五位下で美作守を自称するのは、矛盾と考える。
信玄に臣下する前は、保科正俊は、高遠・諏訪頼継の筆頭家老であった。高遠・頼継の組下で”美作守”を探すと、溝口長友が美作守を名乗っていたことが記録に残る。溝口家は、高遠一揆衆を構成する、高遠・諏訪頼継の構成メンバー。さらに、溝口は、藤沢・黒河内という諏訪神領の、黒河内の中心地。
記録では、武田の伊那侵攻の時、親族の小笠原信定が危機にさらされていて、援軍のため、溝口長友は、長谷・溝口を棄て、信定の軍に参軍している。
この棄てられた長谷・溝口城を継いだのが保科正慶で、溝口を継承してから、溝口正慶を名乗っている。
この溝口(=保科)正慶は、正俊の子であるという伝承は、長谷・溝口に残っている。

  ・・・ 「天文年間に保科弾正忠正辰の次男である溝口民部正慶が初めてここに住んだ。正慶は弘治二年(1556)に武田晴信が伊那に乱入した際に、信玄に従わなかったので捕えられて狐島で殺された。」 (長野県の武田信玄伝説より) ・・・溝口城
 ・・・ *正辰の読み方 たつ、しん、とき、よし 正辰と正俊は同一人物かどうか?

蕗原拾葉「高遠治乱記」に拠れば、、保科正俊が「入り乱れた保科家家系を整理した」とあるのは、武田晴信の臣になった時で、小笠原の別流支族の溝口美作守が、正俊の妻・正直の父ではまずかろうということで、「架空」の小河内美作守をでっち上げたのでは無かろうか、と推測する。そうでなければ、辻褄が合わない。 ・・・同様の書き換えは、正光が、将軍の弟・正之を養子にする時、既に養子にしていた”左源太”の存在を抹消している。左源太は、正光の叔母・父正直の妹の子 ・・・生坂村・大日向源太左衛門の子であった。保科家の家譜には、「松本・小日向源太左衛門」の記録が残るが、恐らく意図的な書き換えであろう。保科正俊が若い頃、・・・松本・小日向は、小笠原・林城に近く、小笠原の別家筋・赤沢氏の出城のあったところ ・・・松本・小日向に、それらしい豪族が存在したことは、歴史書から確認出来ない。戦国の時代の、松本の地名は、府中もしくは深志であり、広域では安曇・筑摩(安築)と呼ばれていた。松本と呼ばれるようになったのは、戦国後期からで、「高遠治乱記」が書かれた時代でもある。正俊が生きた時代から、およそ二百年後の著作である。

*松本城 ・・小笠原正慶が1578年頃府中に復帰し、それまでの深志城を、松本城と改めた。以後、府中とか深志とか呼ばれていたこの地は、松本という名前で呼ばれるようになった。厳密には江戸時代少し前からだが、松本の名前が浸透するのは江戸時代からである。


研究ノート 「保科正俊の志賀城の戦い」の持つ意味?

2014-10-15 05:20:23 | 歴史

研究ノート 「保科正俊の志賀城の戦い」の持つ意味?

蕗原拾葉・赤羽記 ・・・
「志賀城の合戦、武田信玄と笠原清繁、天文十六年(1547)保科正俊が信玄に信頼を勝ち得たのが、信州佐久の志賀城の戦いです。
・・・ ・戦いの最中、物陰に潜んで居った家来の北原彦右衛門が、志賀平六左衛門の栗毛の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れた。そこを、筑前殿は走り寄って平六左衛門の首を打ち落としました。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまいました・。
この戦いで、保科正俊は、信玄からの感状と討ち取った刀の銘に「髭切り」と名付けて貰いました。家来の北原彦右衛門の働きにも感状を貰いました。」

この時の時代背景 ・・武田晴信(信玄)の年表
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1537年 (17歳):父、武田信虎に従い信濃国佐久郡へ初陣。佐久郡の海ノ口城攻めを単独で行い勝利。
1538年 (18歳):長男、太郎(武田義信)誕生。
1541年 (21歳):板垣信方らと諮って父武田信虎を駿河国に追放し武田家の17代当主に。
1542年 (22歳):高遠頼継と組んで諏訪頼重を討つ。諏訪を平定。
・       :板垣信方が郡代で上原城守。
・       :諏訪頼重の娘(諏訪御料人)を側室に。
・       :高遠城主、高遠頼継と戦い勝利。(安国寺の戦)
1543年 (23歳):信濃国佐久郡、大井城の大井貞隆を攻めて追う。
1545年 (25歳):上伊那(伊那郡)の高遠頼継を降伏させる。
・       :上伊那、箕輪城の藤沢頼親を攻め降し、上伊那を平定。
1547年 (27歳):東信濃平定をめざし佐久郡に侵攻、前山城に上原伊賀守を入れる。
・       :家法(55条)を制定。
・       :信濃国佐久郡、志賀城の笠原清繁・上杉憲政の連合軍と戦い勝利。
・   ・・このとき、降伏した佐久勢三千を全員殺害。佐久郡を平定。(小田井原の戦)
1548年 (28歳):上田原の戦で、北信濃の村上義清に敗北。板垣信方・甘利虎泰ら戦死。
・       :武田軍劣勢で攻めてきた 守護・小笠原長時に勝利。(塩尻峠の戦)
・       :村井城を築城し、筑摩平定の前進基地に。
1550年 (30歳):小笠原長時を攻め筑摩郡から追う。
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もう少し詳しく、保科正俊と武田晴信に絞って見てみよう。
1541年、父・信虎を駿河に追放した晴信は、戦国大名としての牙を、諏訪の諏訪頼重に向けてくる。
1542年、頼重は、武田信虎時代に、和平条件で信虎から嫁を貰い、姻戚として、武田に全く警戒心を抱いていなかった。隙を突かれたのである。この時、諏訪の棟梁を野望していた、高遠・諏訪頼継は、晴信に味方した。頼重亡き後の諏訪は、晴信と頼継の山分けである。
この時の、高遠・諏訪頼継の筆頭家老が保科正俊であった。
しかし、諏訪郡の半分を領分とした頼継は、飽き足らなかった。武田領となった残り半分も頼継領と欲し、晴信に戦いを挑んだが、結局高遠・諏訪頼継は敗北し、諏訪郡全土が武田の領になった。戦いに敗れたが、頼継の居城・高遠城は無傷で残った。
1545年、甲斐を統一し諏訪を領分した晴信は、急速に力をつけてくる。諏訪のみならず、伊那を手中に収めるべく、晴信は、伊那の諸豪に篭絡を仕掛け、さらに武力を持って攻勢に出てきた。まずは、高遠城の諏訪頼継、そして箕輪城の藤沢頼親への城攻めである。
この時の、諏訪頼継と高遠・一揆衆の筆頭・保科正俊の立ち位置を確認すると、諏訪上社神族の棟梁を夢見る頼継と、高遠の平穏と発展を志向する高遠一揆衆とは方向が違っていたらしい。同じ船に乗っていたが、違う夢を見ていたのだ。ここで、高遠一揆衆とその筆頭の保科正俊は、結局武田につく選択をして生き延びることにした。保科正俊以下の高遠一揆衆は、それほど強くない主従関係で結ばれていたので、象徴的な盟主より、強固な軍団を持つ信玄を選んだわけである。
参考までに、・・・箕輪の藤沢頼親もまた、諏訪神族であった。しかし藤沢頼親は、府中の信濃守護・小笠原長棟の娘を正妻に迎え、小笠原家の親族にもなっていた。この箕輪城(福与城)が攻められるとき、時の信濃守護は、兄の小笠原長時で、鈴岡にあった長時の弟・信定とともに、安曇・筑摩と伊那の軍勢をもって、頼親を援軍した。この時、木曽義昌も、信玄が信濃へ入る事を嫌って、頼親に味方している。この時は、藤沢頼親の援軍の多さに戦いを躊躇し、若干武田有利の和平案で兵を引いている。そのあと、再び兵を向けて、藤沢頼親を伊那から放逐している。
1547年、伊那の平定が終わった武田信玄は、矛先を佐久へ向けた。これが志賀城の戦いである。
この戦いを、ウェキペディアに拠って詳説すると、・・・
 ・・・ 志賀城包囲 ・・・
この時期佐久郡の大半が武田氏に制圧されたが、志賀城の笠原清繁は抵抗を続けていた。志賀城は上野国との国境に近く、碓氷峠を通じて関東管領上杉氏からの支援が期待でき、また笠原氏は上杉氏家臣の高田氏と縁戚関係にあり、上杉氏からの援軍として高田憲頼父子が志賀城に派遣されていた。・・・天文十六年(1547)、晴信は城の包囲を開始した。そして金堀衆が城の水の手を断つことに成功。志賀城は窮地に陥った。
 ・・・ 小田井原の戦い ・・・
上杉憲政は志賀城を後詰するための軍勢の派遣を決める。河越夜戦の敗戦で大打撃を受けたが、まだ相当な兵力を動員可能だった。憲政は重臣長野業正の派兵反対の諫言を無視して、倉賀野党1を先陣に金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣したという。・・・志賀城を包囲中の晴信は板垣、甘利に別動隊を編成させて迎撃に向かわせた。ついに両軍は小田井原で合戦となり、板垣、甘利率いる武田軍は上杉軍を一方的に撃破し、敵将14、5人、兵3000を討ち取る大勝利を収めた。
 ・・・ 志賀城落城 ・・・
武田軍は討ち取った敵兵3000の首級を志賀城の目前に並べて晒して威嚇。救援の望みが全く立たれた城兵の士気は大きく衰えた。武田軍は総攻めをしかけ、外曲輪、二の曲輪が焼き落し、残る本曲輪を攻め、城主・笠原清繁と援軍高田憲頼は討ち取られ落城した。戦いの態勢が決まると、志賀城の笠原以下の武将は降伏したが、晴信は降伏を許さず、城兵を全員殲滅するという残虐な方法を取ったといわれる。

武田晴信の敵兵への処置は厳しく、捕虜となった城兵は奴隷労働者とされ、女子供は売り払われた。この時代の合戦では捕虜は報酬として将兵に分け与えられ、金銭で親族に身請けさせることがよく行われたが、この合戦の捕虜の値段は非常に高額で身請けができず、ほとんどが人買いに売買されたという。笠原清繁の夫人は城攻めで活躍した郡内衆の小山田信有に与えられ妾とされた。この時の奴隷労働者は、甲斐黒川金山の金山堀に連れて行かれたという伝承が残る。

この戦いは、戦国史上稀な、極めて残虐な戦いだったようである。
故・新田次郎氏の著書「武田信玄」の一節で、信玄が、家臣の横田備中高松に言われた台詞でこういうのがある。讒言であるが ・・・
「叛く佐久を殺せば佐久は限りなく叛くでしょう。佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」
これで、信玄の残虐性は東信濃の豪族を団結させ、頑強な勢力になり、村上一族に結集させていきます。

まずは、信玄が破れた”砥石崩れの戦い”。信玄は村上一族と東信濃の豪族連合に、五たび戦って三回敗れています。その後、村上一族は、越後の上杉に助けをもとめ、川中島の合戦へと繋がっていきます。
武田と上杉の戦いは、結局雌雄決着がつかず、といったところでしょうか。

戦国時代の合戦の肝は、お互い戦って、六分の勝利をよしとし、負けたほうが勝った方に臣下して、勝った方が勢力を拡大していく ・・・これが戦国の習いのようです。そして、負けたあとの最初の軍役は、一番危険な先陣か案内役です。これをやり遂げ、軍功を上げれば、ようやく信頼されるという流れになります。不甲斐ない場合と躊躇の様子が見えれば、謀反の疑いあり、ということになります。
この戦いは、保科正俊の、信玄の先付衆としての初めての戦いです。赤羽記には、その様子がリアルに描かれています。
 ・・・物陰に潜んで居った家来の北原彦右衛門は、会津藩家老・北原采女の祖です。
 ・・・志賀平六左衛門は、おそらく笠原家の重臣。笠原新三郎清繁の係累と思われる。
 ・・・笠原新三郎清繁の正妻は上杉憲政の娘で志賀夫人。系譜によれば、伊那高遠隣の笠原の牧官で、最初平氏に与し、甥の保科権六を盟友として、木曽義仲に抵抗して北信に逃れた笠原平吾頼直が祖と言うが、定かではない。もしそうだとすれば、保科正俊の祖にも通じ、遠い縁戚だったという可能性も残るが、それにもまして、甥の保科権六のほうが、保科家の祖である可能性が高い。
 ・・・筑前殿は平六左衛門の首を打ち落とした。首に大髭があって髭もろともそぎ落とした  刀は、保科正俊は、信玄からの感状と討ち取った刀の銘に「髭切り」と名付けられた。 ・・・この戦いで、家来の北原彦右衛門の働きにも感状を貰いました。後に”槍弾正”といわれる正俊ですが、このとき戦いで使った武器は槍ではなく”刀”で、謎と違和感が残ります。

戦国の戦いの時、先付衆には、盟主から「伝令」が届き、戦役に招集される。戦役で、軍功があったとき、戦いのあとで、戦いの奉行(盟主)宛に「軍功状」を書き届ける。盟主は、認めれば朱印し、さらに軍功の著しいものには「感状」を発行して褒め、時には褒美を与える。
おそらく、「軍功状」に朱印を貰えれば、”安堵ということなのだろう。

志賀城群は、いずれも笠原氏の持ち城で、宮坂武男氏は「笠原氏の要害城が志賀城にあり、詰め城が高棚城・笠原城であったというのが素直な見解」としている。


研究ノート 「保科左近将監とは ・・・?」

2014-10-08 02:57:50 | 歴史

研究ノート 「保科左近将監とは ・・・?」

ネットのブログで、「保科将監」の名前を時折見かけるが、よく分からない。
保科家の家系図上には、どの家系図にも「将監」ないし「左近将監」なる人物は登場しない。
これは、一体何なんだ?と興味がそそられる。

--- 文献に表れる保科将監の系譜 ---

「保科将監」の初見は、村上一族の、北信濃での膨張政策の戦いの中で見ることが出来る。
 ・・・  保科左近将監 (?~?):保科正則の弟。長享年間、村上政国に攻められ降伏。その後、村上政国に仕えて霧台城主となる。 ・・・村上家資料
 
その後、「保科将監」は、武田家家臣として”小坂城”城主として登場する。川中島合戦のあと、小坂城の麓に位置する”稲荷山城”の城代として、「保科豊後守正信」が、上杉陣営の橋頭堡として登場する。 ・・・歴史古案-第五巻

この間に事情として、
 ・・・ 「建武2年(1335)七月の船山の乱は、官軍・小笠原貞宗の勝利となり、塩崎、桑原は小笠原氏の所領となる。塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、土豪・桑原氏を以て家老とし、別に小坂に城いて居らしめた。陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊である。天文22年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する。保科氏は清和天皇の後矞、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正10年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。 ・・・ 小坂城城跡にある、現地説明板『桑原振興会・現地説明板』。

 この現地説明板は、主郭にあります。文中の保科氏ですが、永享年中に村上に敗れて高遠に落ちたというのは、どうも長享年中(1487-89)のようです。高遠に逃れたのは、分領があったためのようです。
また、正則の弟左近将監は村上氏に降り、保科(長野市若穂保科)を領し、村上氏没落後は武田に従い、武田氏滅亡後には、川中島ら侵攻した上杉に従いました。天正12年(1584)稲荷山城築城後に天正壬午の乱の際の小笠原への押さえとして保科豊後守が「就稲荷之地在城申付」(『上越市史別編2』2937号)されています。その後も保科豊後守佐左衛門は、稲荷山留守居役(540石)として勤めてたようです。 ・・・ 小坂城 其の一・より

小坂城・住所:現・千曲市桑原小坂

--- 年表作成で考査する ---

年表
 
 年代------ : 主君--: 事歴-誰が- 何を- 何処で-
○長享年間(1487-89):村上政国 :保科左近将監(保科正則の弟)が村上政国に降伏してその後政国に仕えて霧台城主となる。 
○永禄の初め (1558):武田信玄 :保科左近尉 村上の没落後武田の降りて仕える。
○天正10年(1582):上杉景勝 :保科左近 武田家滅亡後、上杉が川中島を支配、上杉に臣下する。
○天正12年(1584):上杉景勝 :保科豊後守佐左衛門 稲荷山城守(留守居役)を540石で勤める。
○慶長 3年(1598):上杉景勝 :保科(家名のみで名前不詳)上杉家会津へ移封に伴って会津へ同行

 *1:左近将監は官名・・名前不詳
 *2:永禄(1558)と天正10年(1582)が保科左近将監とすると、長享年間に保科正利の子、正則の弟とすると活動年代が辻褄が合わない。むしろ正則の子であるのか?
 *3:小坂城の説明碑の永享年間は1429-411なので、顕かに誤記。
 *4:保科豊後守佐左衛門は、別書に保科豊後守正信とあるが、同一人物か?
 *5:保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明
 *6:「天文22年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する」 ・・・天文22年・川中島第一次合戦
 参考:永禄4年・川中島第四次合戦 
 *保科弾正義昌は? 武田家の誤記?弾正はこの時点は正俊?
 *7:天正10-12年の間に、保科将監から保科豊後に代替わりしている。将監は、戦死か病死か隠居か?小坂城近在の寺に、墓がある可能性?龍洞院か?

--- 保科家家系図と照らすと ーーー

      保科正則 保科正利の子
       保科正俊 正則の子 弾正 生没年:永正6年(1509年 - 文禄2年(1593)
       保科正保 保科正則の子 ・・・・・保科左近将監
        保科正賢 保科正保の子 ・・・・保科豊後守佐左衛門(正信)
         保科正辰 保科正賢の子 ・・・上杉会津藩士?
          保科正具 保科正辰の子 ・・上杉藩士?
           保科正貫 保科正具の子 ・上杉藩士?
 *家系図と対比したのみ。裏付けの資料がないため、正確だと言えない。

--- 参考・保科家家系図 ---

井上忠長 桑洞清長の子
 保科長直 井上忠長の子
  保科長時 保科長直の子
   保科光利 保科長時の子
    保科正知 保科光利の子
     保科正利 保科正知の子
     保科正満 保科正知の子
      保科正則 保科正利の子
       保科正俊 正則の子 弾正 生没年:永正6年(1509年 - 文禄2年(1593)
       保科正保 保科正則の子
        保科正賢 保科正保の子
         保科正辰 保科正賢の子
          保科正具 保科正辰の子
           保科正貫 保科正具の子
       保科正直 正俊の子 生没年:天文11年(1542) - 慶長6年(1601年)
       内藤昌月 正俊の三男 母:小河内美作守の娘
        内藤昌秀の養子 生没年:天文19年(1550) - 天正16年(1588)
       保科正勝 保科正俊の子
以下略・・


研究ノート 「北信若穂保科・保科家が高遠・藤沢に定着する過程」の検証

2014-10-07 08:53:02 | 歴史

研究ノート 「北信若穂保科・保科家が高遠・藤沢に定着する過程」の検証

1: ・・・北信・川田の若穂保科の保科家が、坂城・葛尾城の村上一族の膨張政策で、戦いに敗れ、北信・川田を棄てて、南信州・高遠・藤沢へ逃れたのは、「長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走った」という所伝があり、北信保科が、若穂保科を離れたのは長享年間の三年の間というのが定説である。異説としては、1516年に、伊那郡高遠に逃れた、と言う説も存在する。 ・・・

2: ・・・ 北信・若穂保科の保科家の、高遠に走った武将は、保科正利・正則親子であった。保科正利は、1506年に、旧領に戻って、自領の城跡(=陣屋)に広徳寺を創建して、開基となった。長野市・保科に、広徳寺は現存している。

3: ・・・ 保科正利の子・保科将監は、北信に残り、村上一族に降りて、正利の所領を継承したと言われる。 ・・・

4: ・・・ 保科正則は、諏訪上社・大祝諏訪頼重の元に参陣していたこと、武田信虎の元に参陣していたことが記録に残る。その後、諏訪満継が、高遠一揆衆の頭領につくと家老職として見いだすことが出来る。

5: ・・・ 天文二年(1533)府中長棟(長宗)が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?武田を頼って逃避)。この時、高遠・諏訪頼継は、松尾小笠原に援軍。頼継の軍にあった保科正則は、府中・小笠原貞棟に敗れて戦死。藤沢保科家は、正則の嫡子・正俊が相続した。この間の一連の軍功で、保科正俊は、高遠一揆衆の中で一番の豪族になった。高遠一揆衆が支えた、高遠頼継の筆頭の家老となった。 
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1:2:の検証
出典:「上高井郡誌」大正3年4月1日発行 上高井教育会編
 ・・・ 延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監は村上氏に降り、保科を領した。
 ・・・ 疑問
 1;村上頼清(顕国)に攻められて高遠へ逃れた後、正利だけ保科の里へ戻ったのだろうか。保科(正俊)は、1509年生まれの記録が残るが、保科正利は正俊と書かれた記録があるのだろうか。正俊を昌俊と書かれた記録は見たことがあるが ・・・

3:の検証
同出典より 疑問
 ・・・保科(左近)将監は、正利の次男とされているが ・・・保科将監の活躍は、川中島合戦の時、上杉側で戦歴の記録が残る。さらにその後にも記録が残る事から、槍弾正の保科正俊と同時代人と見ることが出来る。保科正利が死亡したのが1506年(広徳寺記録)だとしたら、その年に生まれたとして(あり得ないが)、60歳ぐらいで活躍し、さらにその後も活躍したことになる。併せて、父正利が開基した広徳寺に、保科将監の痕跡が見られないのは何故か?
ある系図により、左近将監は保科正保であり、保科正則の子の説がある。年代検証からはこちらの方が合理性があるが、広徳寺に痕跡がないのは同じで、出典も曖昧である。
保科左近将監の存在は恐らく事実であろう(川中島合戦の古資料から)が、保科正利の嫡流であることは、どう見ても不合理で否定できるのではないかと思う。
霜台城隣接・小坂城説明碑 ・・・
 ・・・  建武二年(1335)七月の船山の乱は、官軍・小笠原貞宗の勝利となり、塩崎、桑原は小笠原氏の所領となる。塩崎城の赤沢氏は村上氏に対抗するため、土豪・桑原氏を以て家老とし、別に小坂に城いて居らしめた。陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊である。天文二十二年(1553)の合戦後、本郡地方武田領となるや、小笠原氏に備えて其臣・保科弾正義昌小坂城にありて管轄する。保科氏は清和天皇の後矞、井上掃部介頼房の子孫である。井上忠正始めて保科に居す依って保科氏を称した。忠正より六世を保科弾正正利と云い、其子正則、永享年中、村上顕国と戦い、破れて本国伊那郡高遠に走る。其子正俊也。正則の弟保科左近尉(左近将監)永禄の初め武田氏に降る、天正十年7月武田氏亡び上杉景勝大挙して本軍を侵す、保科左近上杉氏に降り、小坂城上杉氏に帰す。保科弾正義昌とは保科左近尉をいうか不明。(『桑原振興会・現地説明板』)。
 ・・・この中の”永享年中”・・は”1429-1441"になるので、明らかに誤りで、"長享年中”の誤記であろうと思われる。保科弾正義昌は、保科家別流と考えるのが妥当か。
 ・・・左近将監・永禄の初め武田氏に降る 永禄1558-157
 ・・・天正十年、保科左近上杉氏に降り 天正十年1582
 上記が正しければ、保科正則の弟という合理性は無くなる。

4:5:の検証
保科の里を追われた保科正利・正則親子の逃れた先は、古書に拠れば高遠という記録が残る。
しかし、正確には特定されていないのが、今までの検証の結果で、藤沢谷に確認されるのは、高遠・諏訪満継・頼継の代になってからである。
北信濃から、村上一族に追われて逃れる時、頼るのは、同族の保科一族であったことは、当然考えられる。高遠藤沢谷に勢力を張っていた、代官保科貞親が目的であっただろう。だが、文明の内訌で、文明十九年(1492)に高遠・諏訪継宗が諏訪郡に侵入したという記録を最後に、継宗は記録から消えてしまう。保科貞親は、文明の内訌で嫡子を戦死させたこと(守矢文書)以来歴史に登場しない。勝者側の、上社・諏訪頼満が諏訪郡を統一して勢力が盛んである。継宗が同盟を組んだ、大祝・諏訪満継は、和解して大熊城に隠棲してしまった。
 ・・・ この時、高遠・継宗と代官・保科貞親はどうなったのであろうか。旧大祝・満継が最後の戦いをした文明十八年に、和解の労をとったのが鈴岡・小笠原で、結果諏訪満継は大熊城に隠棲し戦国大名への夢を絶った。残された高遠・継宗と代官・保科貞親は、夢を棄てきれず孤立して、戦死したか、少なくとも断絶したい見て良いのではないだろうか。高遠・継宗の次ぎに高遠家を相続したのは、親子関係が確認出来ない諏訪満継であることから、このことは想像される。嫡子を失っていた保科貞親は、上諏訪との関係が悪化し、高遠継宗が力を失っていった時、戦死したことが一番可能性が高いが、戦死しなかったとしても勢力維持は困難だったと思われる。 ・・・
こんな時期に、北信濃から、保科正則は高遠に逃れてきた。この時、父正利が一緒であったかどうかは、定かではない。さらに、やがて藤沢谷へ居着くが、最初から藤沢谷かどうかも定かではない。保科正則が藤沢谷へ居着いた頃は、恐らく北信保科の残党として、勢力は十騎にも満たない勢力であったのであろう。ここで明らかなのは、保科正則は、小豪族として高遠一揆衆に参加していること、さらに武田信虎に合力していること、 ・・・これは北信濃の保科の里の復帰に未練があり、村上一族の対抗勢力として、武田信虎に期待があったのではないかと ・・・、上諏訪の諏訪頼満に合力していることが挙げられる。この過程で、保科正則は、驚異的に勢力を拡大させている。 ・・・「赤羽記」や「蕗原拾葉」に残っている記載には、”高遠一揆衆の中で一番の長者に」なったとあります。さらに、藤沢谷に残った保科の名跡を貰ったり、樅や栗と交換したともあります。東高遠の北村にあった、保科の別系流を合流したとも書いてあります。勢力の飛躍的な拡大は、複数勢力の合流が、最も合理的な考え方であると思います。恐らくは、保科貞親の残存勢力と残党を、保科正則が合流させて肥大化したと考えてよいと思います。そして、拠点を藤沢谷の”御堂垣外”と"台”にしたという流れだった。こうして高遠一揆衆筆頭となった保科正則は、必然的に"一揆衆”の盟主・高遠・諏訪満継の家老になった。 ・・・というストーリー。
 ・・・尚、この複数系流の合流の、系譜の整理をしたのが、保科正俊であったことが「赤羽記」に記載されています。この系譜の整理のおかげで、後世の読者(自分を含めて)は解読に難渋する羽目になっています。
さて、この複数の保科系譜だが、その一つに”荒川易氏"の子が養子で入った可能性がある。その系譜は、”保科の里”と呼ばれるところから、北信若穂保科と高遠藤沢谷に候補を絞ってもよさそうだ。さらに、荒川四郎神易氏が、神官の可能性が高いところから、北信保科の方が、より現実的のように思えるが断定できない。保科の養子になったのは、易氏の子・易正で、”神助"のあだ名が付いていたと言われる。そして、藤沢谷へ現れて、まず保科貞親の家系を継いだ者と思われる。そのときの襲名の名前が、保科正秀で、正尚とも名乗った。
当時の状況から、保科貞親亡き後に、保科正利(=正尚)を継承したものとして、藤沢谷の空位となっていた藤沢・保科を継承したものと思われる。その頃、北信から放浪した正則が、藤沢谷で合流して、貞親の系流と残党を包括して、藤沢保科は肥大化していった。
この間の、保科の名前を見ると、奇妙な特徴に気づく。
 まず、正利と正俊(昌俊)
正尚と正直 正尚は、”まさなお”とも”まさひさ”とも読めるが。
勝手な憶測だが、一代間を置いて、字は違うが、読みが同じ人名が再度に渡って登場してくる。これは、複雑な家系の整理の為の名付けなのでは無かろうか。
この合流を主導したのが、易正(=正秀、正尚)であって、整理したのが正俊であった。
そして、易正(=正秀、正尚)の子が正俊であって、正俊は正則の子ではない、というのが推論の結論である。
先日、若穂保科の広徳寺を尋ねたが、保科正利、正則の痕跡はあったが、川中島の戦いに何度も訪れた、槍弾正・正俊の痕跡はなかった。若穂保科の保科と藤沢谷の保科が合流した時、歴代の経歴だけを継承したのではなかったかと思ったわけである。
保科正則と保科易正(=正秀、正尚)を年齢を推定すると、長享時代に、元服を過ぎて、村上一族と戦った正則と、義尚将軍時代(1473-1489)に、信濃に下向した荒川易氏の子・易正の年齢は、大きく離れない、ほぼ同年だとして良い。
それにしても、”神助”易正と呼ばれるくらい、正秀は”やり手”だったのではないかと思われる。
保科正則は、高遠・諏訪頼継の家老時代に、松尾・小笠原定基に与した頼継の軍勢として、府中・小笠原長棟と戦い、1533年に戦死したことが記録に残る。この正則の戦死で、正俊が保科家の家督を継いで、同時に頼継の家老にもなっている。正俊の子・正直の代に、家康の家臣となった正直は、千葉の多古に移封され、ここで正直祖父の保科正則は1591年に死亡したという記録が、会津藩の中に残っています。同名の人物が二度死んでいるという事実は謎でありますが、この保科家は、前述の正利と正俊、正尚と正直のように、隔世で同じ名前を使う習わしが見えます。恐らく保科正則と多古で死んだ「正典」は、別人物だったのでしょう。そうでなければ、保科正則なる人物は、120歳以上生きたことになってしまいます。”正”は通字ですから、”のり"の方は、「典、憲、紀」などが考えられます。
 ・・・なぜ、隔世で同じ読みの名前が登場するのか謎ですが、保科家の二系統の合流が、こんな交互の方式を編み出したのかも知れません。
*参考:保科正直の弟に、正勝(三河守)がいるが、別名を”正秀”といったという。 ・・・こちらも、保科易正の別名。これも隔世の命名であろうか。、

以上が、保科家が、北信を出て、高遠に定着するまでを検証してみました。
資料が少ないため、想像の部分は、「おそらく」とか「思う」とか「推論ですが」とかしております。
伊奈熊蔵忠次の五代前・荒川易氏の子・易正が、保科家に養子に行った所は、「樹堂氏」で検証しております。
もし、異論反論などありましたら、是非コメント下さい。資料の事実が分かれば、自説を固持するつもりはありません。

 


研究ノート 「信濃御厨の成立と御厨を基盤とした武士団の発生」

2014-09-16 15:22:22 | 歴史

研究ノート 「信濃御厨の成立と御厨を基盤とした武士団の発生」

 ・・・ 「御厨について」2014/07/01の内容の追加、「ときどりの鳴く喫茶店」掲載文と重複

信州の御厨 

御厨 

芳美御厨(高井郡)
保科御厨(高井郡)
布施御厨(更級郡)
富部御厨(更級郡)
村上御厨(更級郡)
仁科御厨(安曇郡)
矢原御厨(安曇郡)
麻績御厨(筑摩郡)
会田御厨(筑摩郡)
*藤長御厨

○芳美御厨(高井郡) ・・ハミミクリヤ
・・・ 平安期に見える御厨名高井郡のうち「中右記」長承元年11月4日条に,饗庭御厨・長田御厨などとともに「芳美御厨事」として「件所無指本券,本領主源家輔負物之代譲而,禰宜常季許之,国司国房為行二代雖奉免,其後久為公卿勤仕国役,仍不可為御厨歟,可停止御厨」と見える「尊卑分脈」によれば,清和源氏頼季流の井上満実の第7子に芳美重光がある所在地は不明であるが,井上氏が高井郡井上にいたため,現在の須坂市井上近辺とする説が有力である
・・・ 須坂市井上近辺
・・・ 「芳美御厨事」によれば、この領は源家輔の時に、税の代わりに土地が奉納されて、禰宜・常季許之と国司・国房為行の二代勤仕国役を放免されたが、その後久為が国役を勤仕したので、(御厨の条件を充たさなくなったので)御厨を外した。・・・御厨の期間は短かったと思われる。
・・・ この地の豪族は、清和源氏頼季流の井上氏で、一族の中に、芳美(重光)を名乗った者もいる。
・・・ 勧請した神社に、春日神社/伊勢神社系列らしきものは特定できず。

○保科御厨(高井郡) ・・長田御厨ともいう。
・・・ 長承三年(1134)、長田御厨が定められ、保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。長田御厨の長田は他田に通じるもので、そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。その後、南北朝時代まで長田(保科)御厨の名が、歴史書に散見される。
・・・  星名は保科と書くことが多いが、千曲川支流の保科川流域、『和名抄』の信濃国高井郡穂科郷(現在の長野市東北部の大字若穂保科)、後の保科御厨を苗字の地とする信濃の古族末流。その活動は平安末期頃から見え、『源平盛衰記』に星名党と見えて、井上九郎のもとにあり、『東鑑』に保科太郎、保科次郎、『承久記』に星名次郎と出てきます。
・・・ 長野市若穂保科一帯。
・・・ 平家物語』第六巻によると、1182年9月、朝日将軍といわれた木曾義仲(1154~84)の家臣で、保科党を率いる井上九郎光盛と、保科(星名党)の三百騎は、義仲に組して参陣し、千曲川西岸の横田河原に陣を構える越後の城四郎長茂以下に挑んで ・・・ それにしても、当時の三百騎は、保科一族の勢力を誇示しています。さらに、須坂の井上一族との運命共同体的関係も覗わせます。・・・ この後、井上光盛は、木曾義仲の上洛には参加せず、甲斐の一条忠頼(武田信玄の祖の系譜)と謀って、鎌倉幕府に反抗して、頼朝に誅せられたようです。井上光盛と行動を伴にしていた保科太郎も咎められたが、何故か許されて、鎌倉御家人になっています。
・・・ 長田神社 ・住所:長野市若穂川田047-2。長野市の南東部、欅の参道が500mもある長田神社は、900年余の歴史を持ち、伊勢神宮の分神で衣食住守るといわれる豊受大神が祭られている。
・・・ 長田神社は、長田(保科)御厨が伊勢神宮に寄進された後勧請されたと思われるが、それを記す資料を見いだせない。

○布施御厨(更級郡)
長野市篠ノ井山布施から布施高田付近に布施御厨があった。
・・・ 11世紀後半に伊勢神宮造営のために役夫工米(やぶくまい)が全国一律に賦課されたが、その負担が払えず土地を伊勢神宮に寄進し、その荘園になる地域が発生した。
・・・ 伊勢神宮の所領となった荘園を御厨といい、川中島一帯に布施御厨・富部(とべ)御厨、井上一帯に芳実(はみ)御厨、綿内・保科一帯に長田御厨、千曲川流域に村上御厨などが設定された。
・・・ 布施御厨皇大神社・小松原伊勢社
・・・ 布施御厨の荘官が、平家側・城四郎長茂に属していたため、木曾義仲と井上九郎の軍勢に攻撃され、以後御厨の機能を果たさなくなったと思われます。・・横田河原の合戦。
・・・ 国道・R18の川中島・御厨交差点付近。近在に、富部御厨もあります。

○富部御厨(更級郡) ・・富部・トベ
長野市川中島町御厨から戸部付近一帯が富部御厨の中心地。
・・・ 成立は、布施御厨と同じです。
・・・ 富部御厨一帯は富部氏が領する。富部三郎家俊は、平氏の城資職に属し、横田河原で木曽義仲軍の 武将西広助と一騎打ちのすえ討ち取られている。しかし、戸部(富部)一族は、鎌倉御家人として生き残り、のちに村上一族に合力して、武田に追われた時、村上と伴に上杉へ落ち、さらに上杉と伴に米沢へ移っている。
・・・ 戸部伊勢神社 ・川中島町御厨にあります。
・・・ 「おたや」とはお田屋、またはお旅館などと言い、伊勢神宮の御師といわれた神職が地方へ神徳宣布に出た時の拠点とした宿舎のことで、御師は特定の信者と師壇関係を結び大麻札を配布し祈祷を行った。御厨の北にも「おたや」という地名が残っている。

○村上御厨(更級郡)
村上御厨は倭名類聚鈔に記載されている村上郷で、鳥羽天皇の皇后高陽院領の判官代村上氏が、在地領主として本家の衰勢を読み押領し、自侭に支配地を領有するため、支配が甘い伊勢神宮の内宮に自ら寄進し、それが受け入れられたとみる。 ・・・神鳳抄には、敢て『小所』と注記している、その田積のほどが知られる。村上御厨は旧村上、力石、上山田を含む、この地域に散在していたようだ。
・・・ 村上御厨神社 ・・神鳳抄に村上御厨小所とあり、上古伊勢神宮御拝地なれば、神明宮の鎮座も上右なれど書類散逸して鎮座の年月は不詳なり。境内に周圏二丈九尺五条の老槻ありしが寛永年間枯二舎を造築す。その他丈余の老樹ありて鎮座の古きを物語る。
・・・ 御厨としての記録がほとんど無い。村上一族の押領の方便の可能性が高い。

○仁科御厨(安曇郡)
大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたものと考えられている。
・・・ ”安曇歴史年表”から「永承五年(1051)頃、仁科御厨成立」とあることから、現在の大町市の社地域の南部が伊勢内宮の領地「仁科御厨」になり、現地の管理人「御厨司」となって、仕事につく居館を御厨のすぐ北方の”館の内”集落付近に移り、苗字をここの地名に仁科と改めたのだとされている。そして仁科御厨の鎮護の神として、伊勢内宮より勧請された神社「仁科神明宮」を建立した。
・・・ 『信濃史源考』によれば、国造の一家金刺舎人某、穂高地方に在って矢原殿と崇敬されて、郡治を行い開拓に従事し、その子孫に至ってさらに奥仁科に入り、室津屋殿と崇敬されてその地方を開拓したという。
・・・ 仁科神明宮は、大町市大字社字宮本にある神社。杉の古木がうっそうと繁る宮山の南麗に鎮座し、東は大峯山系に連なり、西は田園地帯と高瀬川の清流を見下ろす、遠く北アルプス連峰を望むことが出来る風光明媚な地に建つ神社である。
・・・ 本殿(国宝)、所在地:大町市大字社宮本1159、主祭神:天照皇太神
・・・ 創建 崇神天皇から景行天皇の代に渡る、紀元前後のあたり?

○矢原御厨(安曇郡)
安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。
・・・ 『神鳳鈔』・(建久四年)、「内八 矢原御厨 千八百九十一町」とあって伊勢神宮領であることがわかる。
・・・ 矢原神明宮:安曇野の田んぼの中の一集落内に鎮座する。毎年5月7日、伊勢神宮より神宮二名、山葵豊作祈願奉仕。

○麻績御厨(筑摩郡)
麻績村は、長野県東筑摩郡の村。文治二年(1186)、吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載が見える。
・・・ 麻績城の城主は鎌倉期、麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)とされ、応永七年(1400)に勃発した「大塔合戦」には村上氏の与力として麻績山城を守城した。
・・・ 麻績神明宮 :平安朝のころ、伊勢神宮の御領地、麻績御厨の守護神として直接内宮に勧請し分社。 本殿、拝殿を始め五棟の建物が国重要文化財に指定。 境内には樹齢八百年と言われる御神木があり、村の天然記念物に指定。

○会田御厨(筑摩郡)
・・・ 会田は松本市(旧四賀村)の地区を指します。
会田御厨については会田、苅屋原、明科、塔原、田沢の五カ条からなり、広く犀川右岸までが領域だったと推定されます ..神社の所領は七十町歩を有した。
・・・ 会田神明宮、信濃国内宮八ヵ御領の一つ。天武天皇の二年に勧請をして、信濃国内宮八カ御領の一として祀られていた。会田四組三十九ヵ村の総社であった。

○藤長御厨(更級郡)
「信濃国……藤長御厨〈二宮〉」とあり,供祭物は「内宮方,上分布五十端,長日御幣䉼日別代布二丈,外宮方,同前,件長日御幣代布近年不究済之」とある(皇太神宮建久已下古文書)「神鳳鈔」には同じ内容のほか「三百四十五町」とあって矢原御厨に次いで広く,上分も長田御厨に次いで多かった。
・・・ 場所:千曲川の北岸横田一帯/地域の伝承では長野市篠ノ井横田富士宮。
・・・ 更級横田神社 住所:鎮座地 長野市篠ノ井横田303 祭神:天照大御神
由緒:建立は不詳。御厨神明宮と称されていた。

以上が信州で歴史書に確認出来る御厨です。
歴史書は、「大鏡」、群書類従・「神鳳鈔」。他は調べていません。

この中で、芳美御厨、布施御厨、富部御厨、村上御厨、*藤長御厨は、御厨であった時期が比較的短かったであろうことが、歴史書に登場する機会で読み取れます。中には、地名すら確認が難しいものもあります。
この御厨から、中世に武士団が発生し、後に豪族と成長したものも現れます。
芳美御厨からは井上一族、保科御厨からは保科一族、富部御厨からは戸部一族、村上御厨からは村上一族、仁科御厨からは仁科一族が武士団として成長しました。
北信濃のこれらの一族は、基本的には、御厨を"押領”しながら成長したので、室町幕府が、鎌倉幕府を倒して、前北条の資産を新政府側にする方針に頑強に抵抗しました。
これが大文字一揆で、大塔合戦とも呼ばれた戦いです。室町幕府の政策と意図に従って、荘園や御厨を幕府側に取り戻そうとする守護・小笠原と押領した荘園と御厨を既成事実として領有したい大文字一揆衆の戦いです。大文字一揆衆の主力・主導者は村上一族と仁科一族です。大文字一揆衆は強固で、結局守護・小笠原長秀は敗北して京都へ逃げ帰ります。
信濃国守護・小笠原家が、甲斐・武田信玄に敗北して、信濃が武田に蹂躙される原因は、小笠原家が、信濃国の守護大名として成長できなかったことにあると言われています。甲斐と信濃では、戦国時代にも、経済的規模は、信濃の方が三倍とも四倍とも大きかった言われています。それなのに何故 ・・・?この答えは、小笠原一族内の内訌・一族内抗争とともに、北信濃と諏訪神党の、既得権益保守の連合豪族を統治できなかったことと言われています。

御厨が散在している所在地を点検していると、一つの特徴が浮かび上がってきます。
布施御厨、富部御厨は川中島の犀川寄り、芳美御厨、保科御厨、村上御厨、藤長御厨は千曲川流域、矢原御厨、麻績御厨、会田御厨、仁科御厨は犀川とその支流に位置します。
「神鳳鈔」などで確認すると、伊勢神宮へ奉納する貢ぎ物は、鮭と鮭の子(いくら)、麻の布、馬がほとんどです。ここから確認出来ることは、信濃川の上流・千曲川と犀川には、平安時代から鎌倉・室町時代までは、鮭が遡上していた事実が判明します。それも、恐らく大量な鮭の遡上であったのでしょう。そして、当時の衣服の繊維・麻布は、御厨内に麻の木が植えられ、さらに布にする織機が存在していたことが覗われます。大量の麻布は、伊勢神宮の神官の衣料のみならず、一般人の衣料用に換金されていたことが想像できます。併せて、御厨内に、牧が併設されていてことの裏付けも出来そうです。
日本で定常的に鮭の遡上が認められる南限の河川は、太平洋側は多摩川であり、日本海側は島根県の江の川の支流濁川が確認されています。鮭は太平洋側の伊勢までは行っておらず、伊勢神宮としては貴重なものだったのかも知れません。
日本海側の河川で、大量に鮭が捕獲された地域は、新潟県、長野県、富山県だそうです。
この鮭をキーワードにすると、信濃国のもう一つの大河・天竜川流域に、御厨を発見できない理由が判明してきます。
千曲川・犀川流域に、御厨を見る理由は、運搬ルートの関係があるようにも思います。定説には、伊勢宮への貢ぎ物の運搬は、東山道とされてきていますが、量的な運搬は、まず日本海側へ出て、北陸道を京方面へ向、伊勢へ向かったというルートが仮設されます。この場合、舟と馬が、運搬の主役になります。こちらの方が、説明が合理的のような気がしますが ・・・

現在、河川の汚染が浄化されて、鮭が昔のように戻ってきています。しかし千曲川には、なかなか鮭が戻ってきません。これは、飯山にあるダムが、鮭の遡上を拒んでいるようです。海無し県の、長野県が、かって鮭捕獲量のトップ3に君臨していたという食文化の特色は、水清く、自然の豊かな、誇るべき事だと思うのですが、どう思いますか。

 


研究ノート 「高遠一揆衆」の意味

2014-08-15 21:20:17 | 歴史

研究ノート 「高遠一揆衆」の意味

 「高遠一揆衆」 ・・『高遠治乱記』(蕗原拾葉)より

1: 『高遠治乱記』の中に、”高遠一揆衆は、諏訪より高遠・諏訪満継を迎えた。””、「 是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり」とあり”ます。


2:「高遠治乱記では、この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、さらに残存する木曽の傍流の領地を削りながら勢力を削いでいった経緯が記載されており、これらの反乱を治めるのに信定(=満継)に功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載されています。」


原文省略 ・・・

この 1:文 と2:文 の中の「高遠一揆衆」の意味が解せません。

そもそも、”一揆”なる言葉は、歴史上において、”百姓一揆”とか”一向一揆”とかで覚え、意味は、圧政に苦しむ農民が、年貢の拒否や低減を求めて、治世者(領主)への武力反乱、あるいは一向宗を信じる農民などが、信者同士の共同生活体を求めて団結し、そのときの領主と利害対立した武力衝突、という風に理解していました。

この意味を前提にして、”高遠一揆衆”を読むと違和感を覚えます。
本来対立する領主を、「迎入れる」行為は、反乱や衝突とは正反対の所為になります。
さらに、”高遠一揆衆”の構成は、農民や庶民ではなく、小領主(豪族)のようです。

こうなると、『高遠治乱記』の筆者は、”一揆”の意味を、”武力的反乱や衝突"と違った意味合いで遣ったと思えてなりません。

 

ウィキペディアでは ・・


一揆 ・・一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。
さらに ・・
室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。
そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
この際の共同体の契約の儀式は、「一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式」が行われた、という記録が残ります。

一味神水 ・・またまた、聞き慣れない言葉が出てきました。しかし、当時の当事者には極めて重要の言葉のようです。

そうなると、暴動を伴う一揆は、一揆の形態のひとつに過ぎない、ということです。
一揆の形態のひとつに過ぎない暴動を伴う一揆の方が、どうも一般的な、間違いの"一揆観"のようで、先入観から、どうも自分も、大いなる勘違いをしていたようです。

改めて、「高遠一揆衆」を「何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団」と定義し直して、中世の高遠地方を眺めてみると、違った風景が見えてきます。

高遠・諏訪満継の時代、高遠は国士・豪族の小集団が散在する地であったようだ。この高遠の地を、他国から押領の勢力から防衛する必要に迫られた。そこで、高遠の豪族の小集団は、防衛のために、もともと諏訪神社の神領であったので上社の大祝に高遠の盟主を依頼した。この盟主に選ばれたのが、本来なら上社大祝につくべき諏訪満継であった。おそらく、満継の方が上社大祝頼重より、”大祝継承順位”が高かったのであろうと想像します。しかし、満継は「生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず」に高遠一揆衆の盟主になったという。そうして、諏訪上社大祝は頼重が相続した、というように理解します。ここからは、文明の内訌を、上社・大祝継満とともに引き起こした高遠・諏訪継宗と満継の血縁の継続性・連続性は見えてこない。そうすると、文明の内訌の当事者の一人、継宗はその後どうなったのか気になります。諏訪神社の系譜の中には、この様に血の連続性のない相続が何カ所か出てきます。さらに、祖先の名前が、何代かあとに、そのまま復活したりします。そのため、諏訪神社、大祝や惣領家の系譜・系図は複雑怪奇な難解なものになり、手に負えなくなります。
高遠・諏訪満継とその子・頼継は、大祝を継ぐべき正統性があり、諏訪上社・大祝の返り咲きを生涯の目標とした、というように捉えると、その後の高遠・諏訪頼継の上社への攻撃性が見えてきます。
高遠一揆衆は、高遠が他国からの侵略を防ぐ目的で結集した集団であるため、呉越同舟とは言えないまでも、高遠家・諏訪当主はとは夢見る方向は異なってくる。さらに、他の戦国武将の主従関係よりも弱い繋がりも見えてくる。

以上が、1500年代前半の、高遠地方の豪族達と高遠・諏訪満継・頼継の関係性の風景である。


山吹城 ・・萩倉ノ要害

2014-08-01 10:53:25 | 歴史

↑ 金刺盛澄像

山吹城 ・・萩倉ノ要害

山吹城 ・・やまぶきじょう

諏訪下社・金刺氏の詰城 *詰城(ツメシロ)本丸、根城・最終拠点
山吹城は築城年代など不明。遺構の規模、造りから室町中期頃。上社との抗争から造られた可能性が高い。日常の金刺氏の居所は諏訪大社下社背後にある 下社大祝金刺氏の居城桜城。山道伝いに連絡できる位置ではあるが、 山吹沢の奥まった場所であり、展望は利かない。別名「隠れ城」、 金刺氏の詰城と思われる。
山吹城は大城と小城の二カ所に遺構。大城はかつて全山耕作されていたという。 多数の帯郭が確認できる。規模は、上社武居城と同等か上。
永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害」に拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた、といわれる ・・・『神幸記』。この萩倉ノ要害について、一般的には山吹城を指すものとされる。


諏訪郡下諏訪町下ノ原

桜城 ・・手塚城とも

桜城は下社大祝である金刺氏の本城と考えられている。
下社秋宮に隣接する霞ヶ城が 鎌倉時代初期に造られ、その後要害の地を求めて鎌倉時代末期から室町時代初期の頃に築城された と思われる。
上代から下社の大祝として勢力を持っていた金刺氏も、永正十五年(1518)金刺昌春が 上社の諏訪頼満に敗れ萩倉の要害に自落し、諏訪から追放され 桜城も廃城となった。昌春は甲斐の武田信虎を頼って行き、 下社再興を画策したが願いは叶えられず、・・・

その後、昌春は、享禄四年(1531)に甲斐国人衆が反信虎連合を結成して反乱が起きた。享禄四年(1531)の飯富兵部等の信虎への反乱時に戦死したようである。これにより金刺氏は滅亡し、昌春の族孫とされる今井善政が武居祝と称して下社大祝の祭祀を継承したとされる。他方、天文十一年(1542)に信虎の子晴信が諏訪氏を滅ぼし、同年に諏訪の領有を巡って晴信と高遠頼継が争った際、昌春の子とされる堯存が頼継に同心して討たれたとも伝わる。


研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代

2014-07-29 21:50:05 | 歴史

研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代


『幕藩大名家保科氏の戦国後期の系図』 - ucom.ne.jp より

Q・・・・問い) 保科家と荒川家の接点について調べています。
1「信濃の保科家の系譜」の中の②の項「正則の父としての③正利(正尚ともいう)」については、どこかに出典根拠の資料があるのでしょうか。教えていただきたい。
2 また、
 「易正 正倍(ママ。信の誤記か)嗣荒川易氏子神助
  正利 正知子光利子?
  正尚 弾正易正?  」
の「神助」とは尊敬・敬意を持ったあだ名、保科正利は光利の実子であるが嫡子予定で正知の養子になった、正尚は弾正易正の別名でもある、
と読み解いていいのでしょうか。

A・・・・1 幕藩大名につながる保科氏の系譜については、十五世紀中葉より前の歴代は不明としかいいようがない。もとは高井郡保科に起った諏訪氏(一に清和源氏と称した井上氏)の一族に出たというが、『東鑑』などに見える保科一族(例えば、建暦三年の泉親平の与党の保科次郎など)とのつながりが不明であり、中世の鎌倉・室町期の系図が不明であって、いくつかの所伝があるが、史料の裏付けがなく、信頼性が欠けるものばかりであろう。
 
2 戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪(高遠)頼継の家老として、「保科弾正」(筑前守。保科正光の曾祖父の正則とされる)の名が登場する。本来は北信濃の霜台城(長野市若穂保科)を本拠とする保科氏が南信濃の伊那郡藤沢村に移った時期や理由などについては不明である。保科正利が村上氏に敗れて伊那へ逃れ高遠に仕えたのではないかともいわれるが、具体的に伊那郡と高井郡との繋がりも判明していない。この移転説では、保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという所伝がいわれる。
  保科正利の系譜についても、例えば、①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
  次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)、というように所伝が多い。なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
 
3 ともあれ、諏訪神党の一つに保科氏が数えられるから、諏訪氏と何らかの関係が中世には築かれていたものか。伊那の保科氏の活動は弾正忠正則から具体的に見えており、これ以降の歴代については問題がない。東大史料編纂所所蔵の『諸家系図』でも、その第21冊に所収の「保科」系図では、正則を初祖としてあげて、「信州井上掃部介頼秀の末葉」とのみ記している(この清和源氏出自の所伝は疑問大)。
 
  すなわち、天文十四年(1545)、武田軍は藤沢次郎頼親が拠る福与城に攻め寄せたが、これに対し、松尾城の小笠原信定は伊那の諸将を糾合して藤沢氏を支援した。このときに保科弾正(正則か)が参陣しており、弾正は筑前守とも称して、高遠城主諏訪頼継の家老の職にあった。伊那では、高遠の諏訪(高遠)氏に仕えて、次第に頭角をあらわしていき、筑前守正則の跡を継いだ保科弾正忠(甚四郎)正俊は、高遠氏家臣団のうちで筆頭の地位にあったとされる。
 天文二一年(1552)に高遠氏は武田氏の信濃侵攻により滅亡し、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となった。保科正俊は、『甲陽軍鑑』では「槍弾正」として真田・高坂と並び「武田の三弾正」に名を連ねる。以降の歴代は、正直、正光とつながり、正光が保科正之(会津藩祖)と正貞(上総飯野藩祖で、正光の実弟)の養父となる。歴代の保科氏の通称は、「甚四郎、弾正忠、越前守」というのが多い。「甚」は出自の「諏訪神党(神人部宿祢姓か)」に通じるものである。
 
4 なお、お問い合わせの2の記事は、おそらくHP『武将系譜辞典』の「信濃国人衆」に出典をもつ記事だと思われるが、すべて正則の父についての記事であって、父の名については、
 「易正といい、正倍(ママ。信の誤記か)の嗣で、実は荒川易氏の子であって、通称が神助。また、正利とも伝え、正知の子といい、光利の子かともいう。さらに、またの名を正尚とも弾正易正ともいうか?」というくらいの解釈であろう。これは、漢文の解釈ではなく、上記HPでは、特有の表記がなされていることに留意される。

上記の文章は、荒川易氏が京都から信濃へ入り、易氏の子の次男(二助)易正が、保科家に養子に行った経緯のことと思われる。
この保科は、二通り可能性が考えられる。
一つは、北信濃・川田(若穂保科を含む)と高遠近在保科である。
川田・保科は、御厨であった保科庄のことと想定出来、高遠近在保科は、藤沢庄代官・保科貞親の居館のあったところと想定出来る。しかし断定する資料がない。
次代の比定は、将軍義尚の時代で1480年後半から1490年前半と狭く比定が可能である。
荒川易氏は、信濃武士の中に、記録を見つけることができない。
荒川易氏は、何者なのか?
将軍・義尚の奉公衆の可能性がある。また、荒川四郎神易氏の名、熊蔵、保科という伊勢神宮の御厨との関係性、自らを藤原とも名乗ったことなどから、伊勢・春日系の神官の可能性も生まれる。
保科は、戦国前期の動乱の中、北信濃・川田の保科と、代官家・貞親の藤沢保科が合流して一本化したことが歴史書の事例で見て取れる。その役割を担ったのが、荒川易正(=保科正利(正尚)の子・正則と孫の正俊。
熊倉へ行った荒川易次の系譜は、忽然と信濃から消えて、熊蔵(藤原)易次として三河に出現する。易次の次の世代は、伊奈熊蔵と名を変えて、忠基から松平(徳川)家に仕えるようになる。この忠基を祖父として三代後、伊奈忠次が生誕する。家康が、まだ三河に勢力を確定できなかった頃、伊奈家は家の存続を二分に分けて計る。その頃起こった三河一向一揆の側に、同族の吉良、一色などの今川勢力が主として参加したことに依り、伊奈家の伊奈忠次と父・忠家は一向一揆側に加担する。その為家康からは信頼がなかったようだが、本能寺信長殺害の後の、家康の伊勢路の逃避行に忠次は参加して、家康の民政官としての地位を確保し、やがて絶大な信頼を勝ちうるように、希代の農政官に成長していく。

これは、ドラマである。