まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

虚空のせせらぎ(3)ー『団塊俳人競詠』を読む/連衆72号

2015-09-03 15:28:28 | エッセー・評論
米櫃に櫻が残るこの世かな   久保純夫
前後の句からもこれは実景ではない。現実の眼前のモノコトなど、この作者にとって見えて来るはずもなく、観念の牢獄の格子の隙間から覗かれる《桜なるもの》の一瞬の残滓が、「米櫃」という現存性のフィルターを通して何事かを語ると仮定されている。この世とは《団塊の世代》という特殊フィルターを通しても、通さずとも何も語りはしない。『絶倫や櫻の術が満ちており』『木蓮に身投げをしたる男かな』『木蓮を植え終わりたる左肩』『木蓮の内なる禁忌持ち歩き』と、所与の対象に〈身投げ〉をしたところで、たかだか〈肩〉という己れの肉体の一部が元々の姿のまま残されているだけのことである。作者にとって観念の祖型としての《内なる禁忌》こそが仮の到達点である現在に聳え立っている。しかし、このことは出発点にあってすでに確かな予兆として《団塊の世代》の肉体に深く刻まれていたのではなかろうか。

鳥帰るやがて孤影の紺世界   大井恒行
トランス(忘我)という言葉がある。「孤影」であるが故に《確かなるもの》として自我の投影された「紺世界」、いわば《紺そのもの》の渦中に作者の《意識》は現在も投げ出されている。作者が求めて止まないのは「鳥帰る」の時系列とは全く別個の、作者の発する個有の《定型言語》によって断ち切られ、同時に作者の言語意識を押し込めてしまう《いつか・どこか》の記憶として仮構された空間である。

ゆくも魔道の/言霊/赫し/虚空のせせらぎも   高原耕治
高原氏には20年前に一度横浜(当時)の拙宅にお寄りいただいたことがある。氏はまだ40歳代半ばであったように思う。中学生になる子供がいるが、家庭というものが動物のようでイヤだ・・と語っていた。この日、同人誌(第二次未定)の句会の閉会後、氏の富沢赤黄男や渡辺白泉についての名講義が延々と続き・・3次会のカラオケでの私の『愛燦燦』に「君は歌えるのか」のお言葉をいただき、・・タクシーでの帰路の途中でのことであった。新句集『四獣門』については谷口慎也氏の評を待ちたい。【了】