まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

個のリアルとしての俳句表現/巻頭言・私にとっての俳句(2)

2015-09-15 00:18:24 | エッセー・評論
五島の第一の錯誤は近代俳句の3要素を批判しながら、結社や季語が成り立つ為の【文化的共有感覚】を無批判に踏襲したことである。季語の詩語としての普遍性を言うなら、その【文化的共有感覚】そのものを否定すべきであった。詩語としての普遍性を持つために、季語は《季語》である必要はない。第二に、近代俳句の多様性を無視したことである。碧悟東・井泉水らの【新傾向俳句】は《自由律》《無季》として、すでに虚子の【有季定型】と鋭く対立していた。第三に、近代俳句の【有季定型】イデオロギーを支えて来た【結社制度】に替るものとして、インターネットの電磁(情報)媒体を掲げたことである。ネットを生み出す電磁信号(技術)自体が、日本民族特有の言語の定型性(=文化的原感覚)とは相容れないものであり、逆に排除・破壊するものであることへの無知である。
インターネットを成り立たせるのは、所与のものとしての電磁信号であり、やがて個有の発語の肉体性を奪ってゆく。つまり人間の個体性は不用になる。俳句においても、伝統的に《座》と呼ばれて来た発語と季感(語)の【文化的共有感覚】そのものが電磁(情報)媒体(=システム)にとって無用の長物に貶められる。そもそもインターネットとは、個々人が生み出したものではなく、米国を中心とするグローバリズムである【世界情報寡頭制】が日本国に分配し、その構成員である我々日本国民に使用義務を課した新たな社会規範である。短歌・俳句など日本語に特有の言語の《定型性》は、その起源にまで遡って脳内の言語中枢(=発語システム)のレベルで破壊されるだろう。
私たちは近代俳句における【文化的共有感覚】の内実としての《季語》《結社》に替って、分断された《個》の肉体感覚(リアル)にこそ回帰すべきである。俳句の伝統と前衛とネット文化を貫く【流れゆくもの】としての過渡的な《自我》の混在の中で、私たちが自らの【文化的共有感覚】の主体であるためには、俳句の《定型性》の薄れてゆく状況に背を向けることなく、それぞれの《個》の現在性として、その渦中に踏み止まる覚悟こそが求められている。【了】

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