俳句とは何かについて書いてみたい。ただし俳句とは、あくまでも私にとっての《俳句》であることを断っておきたい。たとえこの場が、川柳を含む短詩型文学の《現在》を共有する空間であってもである。現代における《俳句》とは、常に個々人の生きて存る空間において自らの一次的な感情(即興感偶)を詠い上げるものでなければならない。したがってこれから述べることも、掲載される句群も全て客観性を持つことはない。持ってはならないのである。現在、そのことの精度によってのみ俳句定型に拠る発語は逆説として普遍性を持ち得るだろう。
前々号(70号)の巻頭言で、五島高資(「俳句スクエア」代表)は現在に至るまで虚子派によって結社(俳壇)イデオロギーとして流布され続けて来た【有季定型】【季題諷詠】の形式主義を相対化し、乗り越えてゆく場としてインターネットの電磁(情報)空間を、まさに鬼の首を取ったかのように掲げた。果たしてそうだろうか。・・・《続く》
前々号(70号)の巻頭言で、五島高資(「俳句スクエア」代表)は現在に至るまで虚子派によって結社(俳壇)イデオロギーとして流布され続けて来た【有季定型】【季題諷詠】の形式主義を相対化し、乗り越えてゆく場としてインターネットの電磁(情報)空間を、まさに鬼の首を取ったかのように掲げた。果たしてそうだろうか。・・・《続く》