限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第109回目)『私の語学学習(その43)』

2010-11-12 15:40:41 | 日記
前回から続く。。。

2009年7月にギリシャ語の独習を開始し、ギリシャ語の基礎文法と 2000単語を覚えてからはすぐに宿願であったプラトンを原語で読むことに挑戦した。プラトンは西洋哲学の頂点に立つ哲学者であるが、案に反して、文章は極めて容易である、というのがもっぱらの世評であった。それは、一つには会話体が多いためであるが、根本的にはソクラテスおよびプラトンの考えがしっかりしているので、難しいことを易しく言い換えることを自由自在にできたためである、と私は考えている。管見といわれるかもしれないが、私には近代の哲学者、とりわけカント以降のドイツ観念哲学、およびその影響をもろに受けて、難解な術語で文章を綴るのが哲学の本道と、はきちがえた日本の哲学者達は、プラトンの文章に見る論理の透明性には程遠いと感じられる。

プラトンを原語で読むと、たとえプラトンが易しいとは言っても、当時の私は一行に何回も辞書をひかなければならなかった。久しぶりに中学生に戻って英語に取り組んでいるような懐かしい感じがした。しかし、英語との差は、『私の語学学習(その38)』で述べたように、辞書がひけないことであった。ラテン語の場合は、このような私を助けてくれるパソコンソフトを入手したのであるが、ギリシャ語の場合、こういった類のソフトを見つけることができなかった。その代わり、『 All the Greek Verbs 』(N. Marinone)という単語リストの本を見つけた。この本は、動詞の変化形、例えば、来るの過去形である『KITA 来た』がエントリーとなり、『KITA、 Kuruの過去形』と言うように短く説明されている。この本にはこういった変化形が約 3万単語エントリーされている。この一事をもってしても、ギリシャ語の動詞がいかに不規則であるかが分かるであろう。この本の初版は 1961年となっているが、それ以前の人たちにとってギリシャ語を独習するとなると非常な苦労をしたことだろうと想像する。

パソコンではなく、こういった単語リストの本で動詞の変化形を調べなければギリシャ語が読めないというのは、あたかもミサイルや戦車の時代に竹やりで突撃しているようなアナクロニズム(時代錯誤)を感じさせるが、ともかくもプラトンを Loeb Classical Library のギリシャ語の原文を英訳を頼りに読み始めた。一冊(400ページ)を読み終えるころには、ギリシャ語の文章法にも慣れ、ようやく一息つけるようになった。そして初めて、長年の念願であったプラトンを原語で読んでいる、という感激に浸ることができた。それがたとえ両方に補助輪がついている三輪車のような頼りなく、のろい歩みであってもだ。



プラトンを数冊読み終わったころ、インターネットでいろいろと情報を調べていたところ、Perseus(ペルセウス)というサイトを見つけた。アメリカのタフツ大学(Tufts University)がギリシャ古典のテキストを集大成し、それにいろいろなツール(語句検索、辞書、文法解析、頻度解析など)を開発して Web上でオープンにしていた。マッキントッシュ用には、CD で既に販売されていたが、Windows 用にも販売されるとの広告を見つけた。当時のインターネット回線は、まだキロビットレベルだったので、Web上のアクセスは、とても家庭からサクサクと行える環境になかった。それで、早速 Windows 用の CD(Perseus 2.0)を予約注文した。

Perseus 2.0 には、私のような素人のギリシャ語学習者に必要なテキストはほとんど網羅されていた。しかし最も恩恵を蒙ったのは、そのツール類である。とりわけ、悩まされていた動詞の変化形の検索もソフトウェアを使うと一発で解決した。辞書も、希英辞書の定番である、 Liddell & Scott(略称:LSJ)の Intermediate 版も丸ごと入っていた。

これらのツールを使いながら Loeb Classical Library のシリーズを読んでいった。当然のことながら、例の『カンニング読書』で最初に英語の部分を読み、意味を理解してからギリシャ語の文を読むのだ。そして分からない所は飛ばしてどしどしと読んでいった。この方式で、先ずはプラトンを完了し、ついでヘロドトス、ツキディデース、クセノフォンを読んだ。ヘロドトスの文章は『標準語』であるアッティカ方言ではなく、小アジアのイオニア方言であり、綴りが多少異なる。始めはてこずったが、数十ページを読み進むうちに、ほとんど意識せずによむことができるようになった。私の持論である、語学は論理的に理解するものではなく、慣れるもの、つまり『学』ではなく『術』であるとの認識を新たにした。ツキディデースは、古典ギリシャ語の作家の中では一番難解であるとの世間の評判であった。それで多少恐れはあったが、幾つかの節を『カンニング読書』で読んだところ、それほどでもないことが分かり、数ヶ月で全巻を読み通すことができた。

このように独力で読めたのは、希英辞書(LSJ)や All the Greek Verbsという古典的な方法ではなく、Perseus のソフトウェアの助けが非常に大きかった。しかし、一旦 Perseus の CD に収納されていないプルターク(Plutarch)を読む段になって、はたと困ってしまった。

続く。。。
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