空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな
三種無二みたいな境地の現れかも知れないのだが、そこはそういう境地を観念的に要請する情況があったと考えた方がよいのではなかろうか。「世にあらじ」という感情は、実際には春の霞が立つという自然とは混じらないからである。もともと混じっていると思い込むことは出来るが、実際には混じらないことが、「世にあらじ」という言葉を吐かせている。啄木の「空に吸われし/十五の心」とはその意味で異なっている。啄木は、空に吸われようと思いながら、何かから逃げているので。逃げたいと言うこととは違う。
いずれにせよ、近代人の我々は、簡単にこういう境地には達しないのである。その努力はいろいろと始まっているのだが、いまのところ、「わが人生がくだらなすぎてひまわりがまだ咲いてる」みたいな境地が関の山だ。ここにも我が国の文化らしきものはあるんだろうが、やはり西行の歌にこそ文化はある。お国柄は頂点にこそ顕れ、それが「文化」と呼ばれる。
そういえば、もと日本人で現在アメリカ人の学者が九十歳にしてノーベル賞をとった。その人が、「日本人は他人を気にして生きていて自由がない」と言ってアメリカに留まった理由を説明していた。本当はそんな単純ではなかったはずだと思う。しかし、毎年のように、このようなある種の怨恨が外国に移っていった研究者から日本にむかって投げられるのは理由がある。
そもそも理系の学問も、その実、お国柄みたいなものはあるのではないかとおもうのだ。理系は万国共通というのは、とても信じられない。
文学でも他の国?のそれにも当てはまる構造とかいろいろあるわけだが、その統一理論をつくりゃいいというものではないし、比較した段階でも困難なことだらけ。しかしその困難から新たなアイデアや文化が生じてくるわけで、はじめから統一するのは「普遍的」暴力だ。理系?には人文系よりは共通理解のもとでやってることが多いかも知れないけど、人間のやってることなんで、同じようなことはあるに違いない。
その意味で、ノーベル賞受賞者から毎回のように、殊更、「普遍的」真理みたいに「日本人は他人を気にして生きていて自由がない」と言われつづけているのは非常にまずい。ほんとは、むしろ、他人と面白く生きる自由がなくなっている、つまり文化の生成が起こりにくくなっているだけなので、――上のような「普遍的」な意見に従って他人を無視するようになると余計症状は悪化するだけなのだ。――そして日本で自由を作り出そうとする努力を学者がますますしなくなって、次々に外国にいっちゃうのだ。
確かにほんとに日本で研究やってると心ないことを言われるし、誠実な学者が苛められているのを目にする。でもそれは外国でもある程度同じはずである。外国文学を読んでいる限りでは、どこの国にも馬鹿ないじめはありふれているからだ。
あるいは、知り合いの理系の研究者を見ていると、――「日本人はいつも他人を気にしている」というのは、ややこの業界の傾向に関係があるのかなと思う。共同研究が多いせいか、すごく他人を気にしている人が多いような気がする。人文系の方がかえって自由にやれてんのかもしれない。人文系は他人の自由とは何かがそもそも大きなテーマなので、ということもある。このテーマを避けて通っている研究は人文の研究とはいえない。――と思いたいところだが、そうでない例を沢山目撃してきたし、極端な体験をすれば、それだけでこの国が厭になってしまうのはあたりまえである。一般論に還元できない、個々人のひどい現実があるのだ。
一方、ノーベル賞の報道で楽しみ?なことのひとつに、隣にすわっているパートナーとかが「今までの苦労が報われました」とか家庭を顧みなかった旦那をいきなり横から撃つのを見ることがある。これはこれでおもしろい。当人達にとっては、おもしろいどころではないだろうが、そもそも家庭を捨てる勢いがよほどの天才でも必要だとおもうのはたしかである。
研究者とか批評家なんか、相当変人であるのが普通だ。万有引力とかふつうどうでもよくて、林檎はおいしいでおわりでしょ。でもこの普通と変人の対照性が崩れると、万有引力を考えついた人を讃えられなくなる。西行もおそらく後ろ指を指されるレベルの変人である。だからこそ、彼の歌はすごいわけである。
まあ今年も俺は逃したのであれだけど、たぶんノーベル賞はすごいわけで、みんなもっと讃えたほうがいいとおもうぜ。だいたい研究というのはなんかしらんけどすごいのが多いのであって、ふつうにもっと讃えるべし、さあ讃えよ。たぶん俺以外はすごいと思うから、みんなさっさと讃えよ。