★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

新築の伏石神社を訪ねる(香川の神社2ー9)

2021-10-16 23:39:09 | 神社仏閣


ほぼ立て替え完了の伏石神社を訪ねました。

一般に、平成の時とちがって金がないのか、信心がだだ下がっておるのか、――最近神社巡りが出来てオランので分からないけれども、改元紀念の鳥居はまだ確認できてません。しかし、伏石神社のそれは真新しい。メディアが妙に神社をブームにしたところがあるが、観光客が沢山来てもどすんとお金を出していろいろな物体をおっ立てる地元の人がいないと神社はなかなか生きてゆけない。ちなみに、鳥居の位置がかわっています。参道の一番前にでてきました。



拝殿





お狸様も健在。以前は、この二人の前にもう一人おられたが、、、



横にいた。やはり他を抜くとか言うのは二人の方がよいのであろうか。三人だといろいろと面倒だからな、この世は。狸だからダマし合いも二人だったらいいが、三人のダマし合いはもう脳がついていかない。世の中が、二項対立を好むのは嗜好ではなくて能力の問題なのである。

吉野以外を秘伝する

2021-10-15 23:12:35 | 文学


瀧落つる吉野の奥の宮川の 昔を見けん跡慕はばや

この歳になって、やっと柿本人麻呂の吉野讃歌が楽しそうな散文のように聞こえてくるようになったが、それに比べると、ただのミッションの表明ではないかっ、と思わざるを得ない。

天武持統の時代に、離宮であったのかもしれないそこは、確かにその時代は楽しそうな場所であったのかもしれない。奧に奧にいった先に何かがある感じは我々の文化的本能みたいなもので、学者なんぞやってるひとはだいたいこういうものに突き動かされている。先にはたいてい何も無いのだが、実際の山には確かにあったりするのだ。

だいたい吉野宮滝はまだ行ってないが、――写真をみるに、ほぼ寝覚ノ床にみえるではないか。こんなとこは木曽にもあるぜ。

木曽もちょっと木曽川からそれて御嶽の方に彷徨うと、開田高原なんか、神仙境にみえなくもなく、――まだいったことないが、小木曽なんかもきれいなところだ。銀座が日本各地にあるように、吉野宮滝みたいなものは日本中にあるのだといってよいんじゃないか。この類似性の拡散が、我々の何者かを形作っている。

そういえば、矢代梓氏って笠井潔の兄貴だったのか。今更知ったわ。ネットじゃなくても調べればわかったことだけど、こういうことが分かることがネット時代では多く、誰と誰が兄弟で親子で親戚でみたいなことが判明して世界が狭くなった。柳田國男の「先祖の話」を今日も少し読んだが、日本の分家制度のありかたは、上の吉野宮滝のありかたに似ている。家督を継ぐ当事者にとっては、祖先のたての繋がりは世界の広がりでもあり自由でもあったが、分家同士の分断でもある。ネット上のそれはしかし単に系図を眺めている状態にちかいのだ。

自分の家の系図を眺めることは世界をある意味広げた感じを体験することだが、人様の系図をみるのはそえとはちがい、狭まった感じがする。この経験は、ある種、戦国時代みたいな家同士の関係意識に近いのかも知れない。そういう対他意識的な危機意識とは別に、柳田が言うように、そもそも家督とはそれが一部でしかないような、習慣であり口伝でしか伝わらないものの集積である。柳田は秘伝・口伝という伝承方法を家督と結びつけるが、確かに、仲わるい親戚同士がばあちゃん秘伝の漬け物で一瞬仲良くなったりするわけである。あとカルピスの秘伝、あれはもう公開されたか。。。

戦時中「先祖の話」を書いた柳田はもう日本の家制度がぼろぼろであることを知っていただろう。

もっとも、秘伝と言っては少しちがうが、我々の祖父祖母の世代の戦争への処し方が案外、我々の世代ぐらいまでは秘伝みたいに伝わっていて、それがある種の家督意識を生じさせているのはあるかもしれない。偶然にも、我々はお盆を終戦記念日と同時に体験し続けることで、戦争当時の罪も責任も秘伝として受け取っているかもしれないのである。それは表にはでてこないが、秘めたる家の意識としてぎりぎり我々の世代までは伝わっている気がする。

吉野讃歌みたいなものも語り続けられるが、それは膨大な吉野に対する表明によってなされた。しかし、表明されないものの伝承も当然あるのである。今も難しくなったには違いないが、ある。

上方の花と下方の花

2021-10-14 23:47:40 | 文学


吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねん

桜と修行と言えば、百人一首で有名な行尊であるが、その「もろともにあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし」という花の視線の向こうに消え去った我みたいなものは、ここにはなさそうだ。まだ、花を自分が訪ねる主体が残っている。もっと、行尊も西行も、上方の花を前にしてぼーっとしていたことは確かであろう。彼らはたぶん、出家のアンヴィヴァレンツを上を向くことで晴らしていたのであろう。しかし、下をみればこれまた様々な花が咲いているものだ。

「なにか、怖ろしいものが、こちらへやってくるようだ。」と、こちょうはいいました。
「どうかこちょうさん、私のそばにいてください。私は怖ろしくてしかたがない。」と、たんぽぽの花は震えながらいいました。
「私は、こうしてはいられませんよ。」と、こちょうはいって、花の上から飛びたちました。
 そのとき、カッポ、カッポの音は近づきました。百姓にひかれて、大きな馬がその路を通ったのです。そして、路傍に咲いているたんぽぽの花は馬に踏まれて砕かれてしまいました。
 野原の上は静かになりました。あくる日もあくる日もいい天気で、もう馬は通らなかった。


――小川未明「いろいろな花」


ヒューマニストの小川未明は、花からも自分からもメッセージを受け取れず、花に人間を置き換えただけだったが、――たんぽぽは、こんなことで死なないので大丈夫。

捨てることと捨てないこと

2021-10-13 23:49:00 | 文学


花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に

出家は多くの雑音入りの録音から、ある音域だけを切り取ってみつめる作業のような気がする。そうすると、花に染まっている帯域が意識の中に顕れるのだ。出家をしないと我々はあまりにも多くの作用の中に自らを浸している。煩悩というのは、その多さに対する煩わしさでもあって、それを追い払うために大きな欲望みたいなものが近づいて来てしまうのである。

もっとも、心をある帯域の組み合わせのような範疇としてみた場合にはそういえるのだが、出家には、おそらく、無秩序さの自由さを取り戻す意味もあって、より煩わしさの感じないレベルの自由に身を浸す意味があった。西行にしても、方丈記の人にしても、河の流れや花の姿がめにちらつくほど、その周囲の状況は無のように見えて、雑多な無秩序が展開する自然が広がっている。精神は、フラットネスを厭う。我々のなかに、そういうテクストしか求めない欲望もあるし、山の世界がそうである。たぶん柳田國男が山人やらを想定してみたくなるのもそのせいではなかろうか。

わたくしなんか、山の世界を近代的に閉鎖(真空)空間と捉えていたので、平野にでてきてしまったが、妹たちはめざとく、一度平野に行ったけど飽きたのか、山の方に家を建てておる。

今日のアメリカの男女同権をそのままの形で日本へ輸入しようとするならば、私はまずダムの建設を提唱する。まずダムを作って、電力を無制限に、ほとんど無料のような料金で供給する。一方工業を興して電気冷蔵庫をたくさん作り、冷凍食品で生活出来るように、食生活を改善する。また真空掃除器も、ふんだんに作って、安く売り出す。そうして主婦は、家庭で無駄に消費される労力を省いて、外へ出て働き、経済的独立を確保する。そうすれば男女同権は、自然と生まれてくる。
 この議論は、もちろん極端な話であって、精神的の方面を全く無視した暴論である。しかし物質的方面を忘れた議論は、全くの空論であることを強調するためには、こういう議論もたまには必要であろう。男女同権はもちろん人道上の原則であり、当然そうなくてはならないことであるが、そのことと、それが一枚の法令さえあれば可能であるということとは、また別問題である。
 男女同権のような、いわば精神的の問題でも、やはり物質の制約を受けている。いわんやその他の問題では、推して知るべきである。
 アメリカの今日の繁栄は、別の見方をすれば、それは捨てる文化である。そして捨てる文化は、働く文化である。ただこの場合注意すべきことは、働くという言葉の内容が、日本の場合とは著しくちがうことである。


――中谷宇吉郎「捨てる文化」


なるほど、こんまりさんの断捨離論はアメリカだから受けたのか。そして働く文化がその合理化のみなもとか。中谷は働く意味が日本では違っていると言うが、――確かに、滅私奉公的空転のことを言っているのだろうが、もともと、世を捨てることと、逆に捨てない精神状態になることが重なっている我々の文化では、なかなかモノを捨てられない、ひいては制度も捨てられない癖がついてしまっているのかもしれない。

花と自己

2021-10-12 23:09:45 | 文学


あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき

あくがるる心が身に帰るはずはない。もともと心は身にないからである。

しかし、これが花に対する恍惚的な浮遊感だったから、身に帰らんとしても、ぼーっとしてればいずれはおさまるものであるが、これがなにか制度的に固定されたりすると、近代の愚かな愛国心みたいなものに転落する。われわれはもののあはれを持ちながら、それを常にモノへの執着として錯視しつつけている。心を失っても花が残ればいいのか。そんなことはない。

デジタルトラんなんとかの説明をいくつかみたが、SFにでてくる出来の悪いAIの書いたような文章が多く、酒飲んでだらけているアナログの主人公に「うるせえ死ね」と言われて破壊されるような雰囲気が漂っている。つまり、なんも思いついてねえくせに文章を書ける馬鹿=AIなのである。しかし、このAIというのも、一種の「遊離魂感覚」と関係があると思う。「あくがるる心」がAIの明晰さに置き換わっているだけで、だから、これほどまでに遊離感だけの文章が書けるのだ。しかも、そのD★とは、道具としてAIを使うんじゃなくて、我々の影響主体(笑)そのものに浸潤しなければならないものなのだそうだ。まさに、本気に花を感じろと命じているに等しく、――端的に頭が悪いといってよい、とはすまされない。「身に帰るべき」という不安が根底にあるのである。

自己肯定感の逆は自己否定感だと思うが、どっちも「感」であって、こういう判断ではない気分みたないなものをまずはやめてしまえば、自己否定か自己肯定かという勇気の表現となる。「感」は、やたら「と考える」とか「感じる」とか言っている文章と同じで精神がふにゃらけているのである。この「自己」は勿論、与件に過ぎない。認識出来ないがそれでよい。しかし、それを花で埋める必要があるのか。それもない。

自己とは「ドラゴンズ優勝」みたいな与件であるに違いない。不確かで、しかし、昔はあったかも知れない過去である。それ以上追究して、黄金時代を現在に将来させてはならない。そうすると、巨人のように金を使うことになり、過去の栄光まで失う。

出家と星座

2021-10-11 23:10:56 | 文学


鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん

「いかになりゆく我が身なるらん」というのは知ったことではないが、――寧ろ問題は、憂き世を「よそに振り捨て」ることが可能かということであった。「よそに」は場所を示唆しない。鈴鹿山がちゃんと場所なのに。むろん、鈴と振ると鳴るが縁語でつながっているので、案外、鈴をふりふりるんるん気分だったのかもしれないとも思わせる。「いかになり(成り=鳴り)ゆく」とか絶望だか雀躍だかのポーズを見せてみる西行は、たぶん、そういう背反的意識の面白さを感じているのであろう。

望遠鏡でオリオン大星雲をみながらスケッチするといいながら、実際には見えてないものを沢山描いていたわたくしは、嘘つきか文学むきか、どっちなのであろう。だいたい、批評用語で、ベンヤミン以来、「星座」を見出すんだみたいなこと言う人多いけど、「星座」を見出すのではなく「星座」から何を思うかも重要なのである。

西行にとっての出家も同じだ。出家は星座である。いざ出家してみたら、いろいろ見えてくるわけだ。

もっとも、藤井旭氏の『全天星座百科』のオリオン座のところをみてたら、三つ星がどうみてもオリオンは尿路結石ではないかとおもったわたくしは、見えないものが常にみえるというより、経験がみえるだけのことであった。しかし、まあ、単に「星座」がみえたり、アルテミスは美人かどうかが気になっている段階よりもましなのではないかと思う。

世を捨てる情況

2021-10-09 22:37:25 | 文学


世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

山家集の前後には捨てたけど捨ててない気がするとか、まだ思い切りが足りないんだとかなんとか歌ったものがあるので、出家の不徹底さを感じていたのだろうと思うんだが、――西行はたぶん周りに「おれ出家したからOK」みたいな出家の観念にひっついてしまったオバカちゃんが目に入って、もっとシンケンに出家しなさいよと思っていたのかもしれない。歌なんだから人に向けて歌っているわけで、内省だとは限らないのである。

そもそも、出家とは、世事のおしゃべりや手続きみたいな記号操作からはなれるだけで、むしろ、世の中の情景が自らの前にせり出しよく見えてくることを意味している。実は、離れるどころではなく、人の苦悩を背負う羽目になるかもしれないのは当然である。

最近は、一人で過ごす人々が実際は出家状態になっており、観念的な怒りにかられて苦悩しているのはよく知られたところである。たぶん釈迦もそうだが、出家することによってまずは一回観念的な堕落を経験するのである。

「東京」を称して一と口に魔都と呼び慣わす所以なのであろう。われわれの知らぬうちに事件は始まり事件は終る。この大都会で日夜間断なく起るさまざまな犯罪のうち、われわれの耳目に触れるものはその百分の一にも当らない。それも、形象は深く模糊の中に沈み、たまさか反射だけがチラリとわれわれの眼に映じるのである。

――久生十蘭「魔都」


都を離れるといっても、ここまで魔の場所となると逆におもしろくこの中に出家できそうだというのがモダニズムだとすると、そんな幻想もなくなったのが現在の情況である。

敗北感に棹さして

2021-10-08 23:01:57 | 文学


大井川舟に乗りえて渡るかな
流れに棹をさす心地して


出家の勢いとは別に、流れに棹差すというその勢いが素晴らしく、それは出家という観念を感じさせないような気がする。

われわれの文化には、言葉を重ね書きして行くところがある。引用への偏執、本歌取りというのも、その一種ではなかろうか。これはコミュニティではない。ある意味で死んだものに自分が積み重なってゆくような行為である。――というとひどいが、むろんはそれは屍体として意識されておらず、空虚な人形みたいなものなのである。むしろ、それが生きた感情とともにあったら屍体に見えるはずだが、生きた感情を無視できるところが我々はあるのである。その意味で、生と死は同一物であり、反対に我々の方を向いているのは人形だ。

ゼミ生にライトノベルの分類を教えて貰ったが、やはりライトノベルもその人形性が顕わなものであるように思った。コロナ禍でスマートフォンで気軽に読める漫画が隆盛を誇っているそうだ。言葉と絵が、掌の中にある経験は近代でも繰り返されてきた経験だが、わたしはそういうことに根本的な違和感を持っている。何か、圧倒的な敗北感と関係ある気がするからだ。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。


「草枕」のこの一節は我々の文化をよく語っている。考えることが、山路を登るという行為とともにあること。ほんとは、黙って座っていてもいいが、むしろそういうことは忌避される。本当はそれゆえに、智に働けば角が立つ、なんて言葉が出てくるし、情に棹させば流されるという形で、自己肯定が行われているような気がするのである。その「流される」というのは何がどこに流れるというのであろう。本当は「意地」ではなかろう、「智」が流産する悲惨が動き流れる――敗北感と対照されているのではないだろうか。そりゃ住みにくいだろう。だからといって、安いところに行かなくてもよい気がするのだが、要するに出家をしたいのであろう。身を捨ててこそ詩や画ができる。――たしかにそうなのかもしれないが、これは、スマートフォンを握って言葉と画を眺めているわれわれに近づいている。

身を捨ててこそ

2021-10-07 23:14:52 | 文学


惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をも助けめ


家柄と才能をもちながらこんなことを言っているのかとも思うが、人間社会のことである、本当に「惜しまれぬ」ことになってしまうことは屡々起きる。そんなときに、思い切って惜しいなど言わずに、身を捨てると言ってみようというわけである。精神から肉体への変換というか、そういうことも屡々、決心のありようとして語られている。ある種の絶望の形態であることが多いわけだが、絶望の因果を辿ったところで、自分の善意みたいなところにたどり着きかねず、まあどうしようもないわけである。その時は、精神を捨てる覚悟をしても欺瞞的になるだけである。そこには自分ではなく本当は「この世」しか映っていないからである。だから、大事なのは身を捨てることだと一応問題の主体を取り替えるのである。

とはいえ、この「身を捨てる」のが決心になるためには、実際の死が遠からず存在していなくてはならない。決心が二度三度あってはだめで、伸るか反るかでなければならないわけだ。まわりを見渡しても、中年以降の学問は長い病気との闘いに他ならないのだが、昔ならたぶん死んでた。やる気が強烈じゃなくても、普通に命をかけてしまう仕事だったのである。そして他の仕事も大概そうだったのに違いない。医学はその意味で命をかけるという観念を葬った。いまは仕事は死にかけながら続けるものみたいなものになりつつあり、一番残酷な「たっぷり苦しんでから死ぬがいいがっはっは」みたいなことをいわれ続けている気がするものになってしまった。

だから、自分に対する決心が直ぐさま「この世」への恨みに切り替わりがちである。

親となることは、「この世」との関係を変容させられることであるのは屡々指摘されるところだ。それが、「身を捨てて」という決心として行われがたいのもイマドキである。恐怖を乗り越えられる程度というものがあるのだ。先生の職場がブラックだと言うが、正確には教育に関する事柄全てがブラックというか狂っている。学生が教師を志望しないことと、若者が親にならないことはたぶん同じことなのである。

讃えよ

2021-10-06 23:22:40 | 文学


空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな

三種無二みたいな境地の現れかも知れないのだが、そこはそういう境地を観念的に要請する情況があったと考えた方がよいのではなかろうか。「世にあらじ」という感情は、実際には春の霞が立つという自然とは混じらないからである。もともと混じっていると思い込むことは出来るが、実際には混じらないことが、「世にあらじ」という言葉を吐かせている。啄木の「空に吸われし/十五の心」とはその意味で異なっている。啄木は、空に吸われようと思いながら、何かから逃げているので。逃げたいと言うこととは違う。

いずれにせよ、近代人の我々は、簡単にこういう境地には達しないのである。その努力はいろいろと始まっているのだが、いまのところ、「わが人生がくだらなすぎてひまわりがまだ咲いてる」みたいな境地が関の山だ。ここにも我が国の文化らしきものはあるんだろうが、やはり西行の歌にこそ文化はある。お国柄は頂点にこそ顕れ、それが「文化」と呼ばれる。

そういえば、もと日本人で現在アメリカ人の学者が九十歳にしてノーベル賞をとった。その人が、「日本人は他人を気にして生きていて自由がない」と言ってアメリカに留まった理由を説明していた。本当はそんな単純ではなかったはずだと思う。しかし、毎年のように、このようなある種の怨恨が外国に移っていった研究者から日本にむかって投げられるのは理由がある。

そもそも理系の学問も、その実、お国柄みたいなものはあるのではないかとおもうのだ。理系は万国共通というのは、とても信じられない。
文学でも他の国?のそれにも当てはまる構造とかいろいろあるわけだが、その統一理論をつくりゃいいというものではないし、比較した段階でも困難なことだらけ。しかしその困難から新たなアイデアや文化が生じてくるわけで、はじめから統一するのは「普遍的」暴力だ。理系?には人文系よりは共通理解のもとでやってることが多いかも知れないけど、人間のやってることなんで、同じようなことはあるに違いない。

その意味で、ノーベル賞受賞者から毎回のように、殊更、「普遍的」真理みたいに「日本人は他人を気にして生きていて自由がない」と言われつづけているのは非常にまずい。ほんとは、むしろ、他人と面白く生きる自由がなくなっている、つまり文化の生成が起こりにくくなっているだけなので、――上のような「普遍的」な意見に従って他人を無視するようになると余計症状は悪化するだけなのだ。――そして日本で自由を作り出そうとする努力を学者がますますしなくなって、次々に外国にいっちゃうのだ。

確かにほんとに日本で研究やってると心ないことを言われるし、誠実な学者が苛められているのを目にする。でもそれは外国でもある程度同じはずである。外国文学を読んでいる限りでは、どこの国にも馬鹿ないじめはありふれているからだ。

あるいは、知り合いの理系の研究者を見ていると、――「日本人はいつも他人を気にしている」というのは、ややこの業界の傾向に関係があるのかなと思う。共同研究が多いせいか、すごく他人を気にしている人が多いような気がする。人文系の方がかえって自由にやれてんのかもしれない。人文系は他人の自由とは何かがそもそも大きなテーマなので、ということもある。このテーマを避けて通っている研究は人文の研究とはいえない。――と思いたいところだが、そうでない例を沢山目撃してきたし、極端な体験をすれば、それだけでこの国が厭になってしまうのはあたりまえである。一般論に還元できない、個々人のひどい現実があるのだ。

一方、ノーベル賞の報道で楽しみ?なことのひとつに、隣にすわっているパートナーとかが「今までの苦労が報われました」とか家庭を顧みなかった旦那をいきなり横から撃つのを見ることがある。これはこれでおもしろい。当人達にとっては、おもしろいどころではないだろうが、そもそも家庭を捨てる勢いがよほどの天才でも必要だとおもうのはたしかである。

研究者とか批評家なんか、相当変人であるのが普通だ。万有引力とかふつうどうでもよくて、林檎はおいしいでおわりでしょ。でもこの普通と変人の対照性が崩れると、万有引力を考えついた人を讃えられなくなる。西行もおそらく後ろ指を指されるレベルの変人である。だからこそ、彼の歌はすごいわけである。

まあ今年も俺は逃したのであれだけど、たぶんノーベル賞はすごいわけで、みんなもっと讃えたほうがいいとおもうぜ。だいたい研究というのはなんかしらんけどすごいのが多いのであって、ふつうにもっと讃えるべし、さあ讃えよ。たぶん俺以外はすごいと思うから、みんなさっさと讃えよ。

遠国分家と難民

2021-10-03 23:49:12 | 思想


柳田國男が「先祖の話」で、「遠国分家」について語っていた。それは一種の武家の支配形態でもあり、子ども達にたいする思いやりでもあった――ような話だったように記憶する。水戸家から高松に松平がやってくるみたいなことであるが、これは末端の武士達、ひいては農民達もやっていたことだということだ。下っ端の武士と農民というのは境界があやふやであったのかもしれず、ほんとかどうかしらないが、農民なのになぜか先祖が清和源氏みたいなことになっている家は沢山ある。

結局、これが日本の特殊なところかは知らないが、支配される側と支配する側が家を作るのに同じようなやりかたをしているところが面白いところで、――したがって、本当に排除されている人たちは、閉じ込められたりひたすら流浪したりしていたのではないか、という想像がしたくなるわけである。確かに、いまでも家でなくても、なかまうちで、遠国分家できる連中だけが支配階級である。それは進学が確実な学級委員長みたいなところがある。

まあリベラリズムというのが学級委員長みたいなものなのは当たり前だ。言っていることは関係なく存在としてそういうものなのである。しかし最近は、彼らは高校まで学級委員長にもなってなくて、コミュ力(笑)みたいなのがそのポジションを占拠してたので、大学以降、学級委員長気質の人が、これまたもと学級委員長みたいな教員から理論(いや、作法)を教えて貰ってがんばるようになったんじゃあるまいか。そういえば、いまじゃなくても学生運動はそのヶがあった。彼らは委員長を当然のごとく挫折すると、もとの遠国分家できる世界に帰るだけである。

リベラルみたいなひとは、幽閉的定住か流浪に閉じ込められる「おれたち」を馬鹿にするから、右翼からもマルクス主義からも不良からも馬鹿にされてたじゃん、昔から。。

とはいえ、流浪の民のほうは、その所在なさからますます遁れられず、しかも意識は「遠国分家」の人々と同じレベルになっている。携帯電話などで親から自分が分家した気になっているかも知れないし、偉い人とSNSで繋がった気にもなっていよう。しかし、何か(ではないが)おかしいということに気づき、いまだと、「親ガチャ」とか「子ガチャ」とかなんとかいって、――嘆きの声はとまらない。以前も書いたように思うが、ほとんどついていけない勉強に縛り付けられる我々は、武士と農民とはちがった大量の難民なのである。かつて国民国家のために作り出されたそれは、国民国家の機能がグローバル資本主義によって再編されて、グローバル人材の予備軍としておだてられちゃいるが、じつのところ、グローバル人材なんてのは、一部の学歴成功者だけで、あとは労働者=流浪の民である。あまりに増えすぎたこの多さに支配階級が恐怖したこともあって、巧妙に子孫を残さない方向で亡びるように仕向けられているような気さえするほどである。

もっとも、「親ガチャ」とか「子ガチャ」とか、おもちゃじゃあるまいしかいったいどういうつもりかわからんが、――選んでいないつもりでも人生には選ばれているのであり、意志と関係なく人生は自分で選んでいる何者かであるからしてだからこそ、ホントに厭だったら相手を拒否も出来るわけだ。ガチャを認めてしまったらなにもかもおしまい。死んだも同然である。

以前、自分に合った本を見つけるにはどうすればいいですかと学生に聞かれたので、選ぶのは君ではなく本の方なので、選ばれるまでやたら読むしかないと答えたが、人生も同じである。

民の不安につけ込んだ、キ★リア教育の悪い部分というのは、選択肢を提示して自由をすすめているわけではなく、人生を自分で選べるという思い上がりと、自分だけ得する小狡い方策を伝授しているだけのような気がする。実際、小狡い生き方というのはあるからな。職業は絶対に自分で選ぶべきで、この自由に対する勇気こそが人生に選ばれるということだ。キャリア形成ということを自由意識と結びつけるような意識は、人に有利な進路をすすめたりするただの強制である。人生と、キャリアとやらの邪魔をする他人の排除が目的だ。

自然言語と山伏

2021-10-02 23:53:28 | 文学


シテ 山伏といっぱ山伏なり なんと聞こえたことか。
アド 聞こえたことでござる


蟹山伏は楽しい作品だが、考えてみると何が面白いのかはよく分からない。上のような形式論理と蟹が最後まで蟹に見えず、みたいなところが面白いのであろうが、あまりに抽象的なこの仕組みがしゃれているだけにこれ以上の地点が見えないのは中年になってくると不満になってくる。こういう作品をつくったのは若い精神である。

ある意味、考えることの放棄と論理にのみ挺身することが論文を書くときの技術だが、それをはじめから教えてしまうとうまくいかない。形式というのは、考えている事象と論理のある部分との同一性を要求する。その根拠は簡単に保証されるとは思えない。それを強引にやってしまうのが形式論理というやつである。だから面白いことを生み出すためには、――学生は放牧しなければならなかったわけである。簡単な例で言うと、起承転結もそうである。こんなのはじめから教えたら考えるなと言ってるようなもので、起と結がループする、ひいてはよく見なくてもそれがただの同一物である現象が起こるのである。論文は目的に向かって進む。大概は、ドクソグラフィーの内部である前提が目的意識と化しているのである。政策に関する論はもっとそうだ。つまり論じる内容とは関係がない。面従腹背的であろうとなかろうと、この無関係さを無視する癖を付けると、人の発言を自分の目的に向かって反対側に解釈することになんの罪悪感もなくなる。こういう癖を付けた共同体はもうどうしようもない。

そもそも論理は、生活と不即不離であるはずであるが、――そういうことを忘れさせるのも論理である。なるほど生活によって生じる自然言語という意識がうちの業界でもテクスト論などによって希薄になったというのはあるであろう。外国文学の飜訳不要論というのもあるが、――飜訳の意義にはこの自然言語の意識が必要で、それが希薄になると生活は異なるんだことが決定的に分からなくなっていくというのはある。生活が均質化しているから説明が難しくなっているのであるが、原理的にはそういうことである。「外国語を知らないものは、自分の国語についても何も知らない」、――ゲーテの文脈は忘れたけど、問題は言語が生えてくる生活への認識のことなのだ、だから「国語」が分からなくなるのが自らの生の認識の問題として問題なのである。漢文や古典文学に対しても危惧されるのはおなじことだ。このような自分達に遠いようで近い自然言語は居心地が悪い。意識と生活が便利という言葉古くなるほど一致しつつある現代は、その都度心理を反映しつつも意味を増幅させて自走させてしまう、ぶれ続ける自然言語を忌避する傾向があるわけだ。このぶれは古文漢文が分かるようでいて分からない状態と似ている。これが、古文漢文に対する反感の本体ではなろうか。近代文学もその対象になりつつあって、その近さ故にもっと反感は強いものである。

しかし、我々の使っている自然言語は、その性格をやめることはなく、絶対に数字には近づかない。だからその居心地の悪さからくるいらいらが不断の攻撃となる。いうまでもなく、人文的なものもその攻撃に対する不断の抵抗によってしか保たれない。この人文的なものは普通伝統とか言われているものかもしれない。よく言われていることであろうが、民主主義も「理念」的には、言葉を人工言語的に数字的な絶対命令として考えてしまう我々が、不断の努力によって、自然的なもの(生活)を保とうとする運動である。

かんがえてみると、以前、ドリルでパソコンを破壊した人が政治家でいたと思う。なんかこの事件、興奮するよね、パソコンをドリルで破壊――と思っていたのだが、ドリルがなにか自然的なものを思わせるからだ。機械なのに。この場合、本当の機械は法治やマスコミ、世論の方である。

そういえば、NHKで、料理をやってる人と誰かの対談やってたが、「料理は世界中に生活をかけてやっているひとがいるわけで、料理の専門家というのはそれだけですごい」と言ったら、細が「だよねー」といったので、すかさず「文学の専門家もそうだ、世界中に文学を読む人がいてそのなかでやってんだ。みんなが「ごんぎつね」知ってる状態でそれについて語るというのはたいへんなことだ」と必死の自己弁護を開始したわたしであった。

が、生活に近い分野は専門家とは言わず、むしろ達人と言うべきではないかと小林秀雄風に考えても見たが、まあどうでもいい。

石こづみの風習
此は、石の中にたまが這入る、と考へた事から生じた、一つの風習と考へられるが、石の中に人をつみ込む風習が、古く日本にあつた様だ。男子が若者になる為には、成年戒を受けねばならなかつた。彼等は、先達に伴はれて山に登り、或期間、山籠りをして来るのであるが、其間に、此風習が行はれた様だ。修験道の行者仲間には、かなり後々まで、此風習が残つて居た様で、謡曲の谷行を、あゝした読み方をするのにも、何か訣があるのだと思はれる。彼等の仲間では、死んだものがあると、谷に落して、石をふりかける。悪い事をした者は、石こづみにする。こづむとは、積み上げる事である。此が、後に石こづめと言はれる様になつて、奈良の猿沢の池の石こづめ塚の様な伝説も出来たのであるが、元は、山伏し仲間の風習であつた。其が、後には、山伏し以外の者にも、刑法として行はれる様になつた。
併し、山伏し仲間では、此が刑罰としてゞはなく、復活の儀式として行はれた時代があつたに相違ない。前に述べた、衣類や蒲団にくるまつて、魂が完全に、体にくつゝく時期を待つた、と同じ信仰のもので、石の中には、這入る事が出来ない為に、石を積んだのである。さうすると、生れ変ると信じたのである。


――折口信夫「霊魂の話」


こういう話をきくと、「蟹山伏」がえらく肉体に欠けた人工的なものに思われる。