★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

昨日の鳥をアヒルだとおもっていたのだが、どうやら違った

2012-05-08 14:04:32 | 文学


似すぎているアヒルと白鳥。

「醜いアヒルの子」って、自分もいつか白鳥にとか思っている、自分の平凡さを自覚し始めた思春期前期の人の自意識をくすぐる話である。殺してもらおうとか思って白鳥のところに出かけていく醜いアヒルの子の自意識はすごい。この屈折っぷりは、白鳥の首の屈曲よりすごい。(以下の「僕」と「あいつ等」を入れ替えて読んでみればよい。)

そうすりゃあいつ等は、僕がこんなにみっともない癖して自分達の傍に来るなんて失敬だって僕を殺すにちがいない。だけど、その方がいいんだ。鴨の嘴で突かれたり、牝鶏の羽でぶたれたり、鳥番の女の子に追いかけられるなんかより、どんなにいいかしれやしない。」
こう思ったのです。そこで、子家鴨は急に水面に飛び下り、美しい白鳥の方に、泳いで行きました。すると、向うでは、この新しくやって来た者をちらっと見ると、すぐ翼を拡げて急いで近づいて来ました。
「さあ殺してくれ。」
と、可哀そうな鳥は言って頭を水の上に垂れ、じっと殺されるのを待ち構えました。
 が、その時、鳥が自分のすぐ下に澄んでいる水の中に見つけたものは何でしたろう。それこそ自分の姿ではありませんか。けれどもそれがどうでしょう、もう決して今はあのくすぶった灰色の、見るのも厭になる様な前の姿ではないのです。いかにも上品で美しい白鳥なのです。[…]で、その白鳥は、今となってみると、今まで悲しみや苦しみにさんざん出遭った事が喜ばしい事だったという気持にもなるのでした。そのためにかえって今自分とり囲んでいる幸福を人一倍楽しむ事が出来るからです(菊池寛訳)


しかし、比喩としてのアヒルは永久に白鳥にならないのである。アンデルセンは、ゴキブリが白鳥になった話とか、もっとわかりやすくすべきだったのだ。過去の苦しみは、幸福で消えたりしない。大人ならそんなことは誰でも知っている。にもかかわらず、アンデルセンによって、過去の苦しみが幸福で消えない大人は、永久に幸福から遠ざけられたのである。最後に、偶然通りかかった子どもに元醜いアヒルの子をほめさせるのもなんか嫌らしい。育ての親や大人や自分をいじめた同輩に対する憎しみ恐るべし――アンデルセンはある種の悪意の固まりである。これを善意の輩と解釈しているうちに、我々は素直な心を喪失し、自分の偽善すら偽善と認識できなくなってしまう。偽善は必要である。しかしそれをそれとして意識してやるものであって、――絶対的に利他的な偽善はあり得る。アヒルにも白鳥にも子どもにもあり得ないけれども大人の人間にはあり得るのである。


最新の画像もっと見る