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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

立派な魂について

2025-05-18 23:41:20 | 文学


「減ろびるならばかく激しく、来たるべきものならばかく速やかに――」
 その時、私はふいに意外なものを見とめてぎよつとした。おゝ、泣き叫ぶ人びとの間から、一人の、二人の、三人の、そして数人の人間が、まるであやつり人形のやうな、奇妙な恰好をして空へ昇りはじめたではないか。それは忽ち、あつちからこつちからと段々数を増してゆき、ふらりくと月光美しい空へ向って泳ぎ昇つてゆくのだった。瞬間、私は何かはげしい眩惑を感じ、思はずよろめくと息をのんだ。
――おゝ、昇天してゆく、地上一千メートルの彼方、神の子らが昇天してゆく。
 頭上にはげしい一撃を受けたやうに、私は再びよろめいた。驚異からではなかつた。今宵はこのことも當たりまへ事のはずだつたのである。あゝ、今わたしをよろめき倒さんとするものは、いきなり奇怪な幻想に襲はれたやうな、得体知れぬ一つの不安だった。 思ひがけぬその不安は、いつか、昂然と復讐の成就に肩をはる私の姿勢を崩し、やがて底知れぬところまで落ちゆくと、それは忽ちあの嫌悪と焦燥を翳りたて、征服の絶頂に立つてみた私は、もはや絶望の穽を足もとにみたのだった。


――横田文子『白日の書』


明日は、これと尾崎翠の「第七官界彷徨」と比べてなにか妄想を話すつもりであるが、二作はまるで双生児のようなものだ。尾崎翠は横田の小説がでたころ、もう東京から島根に連れ去られたあとであったと思う。だから、尾崎翠が昭和10年代においても書きつづけていたら横田みたいになったのでは、――といったことを想像しがちであるが、時代は違ってもあちらとこちらのような作品はあるものだ。同時代性というのは時代を超えてあるものである。

尾崎翠の小説は、見掛けよりもインテリ小説である。インテリにこき使われる少女がおかしくなっている小説とも言えるのである。苔の恋愛とかなんとか「きれい」(花田清輝「ブラームスはお好き」)な場面が多いのであれなのであるが、案外彼女は忙しいのである。あまりやることが多すぎると却って非効率になるみたいなのは、一見真実を示しているように見えるが、単にそのひとが能力がなさ過ぎるだけの場合があるのは当たり前である。テクノロジーのおかげでこういう自明の理がわからなくなるのも現代社会のあれであるが、尾崎もたぶん横田も生活に忙殺されているに違いない。いかにデカダンスであっても忙しいのであった。なぜかというと、おそらく生活に関する単純な作業がやや苦手だからだ。

しかし彼らが別に生活者として敗残していったとは思わないのである。我々は、初読の印象が強いために青春の文学だと勝手に思い込んでいるものがあるが、「第七官界彷徨」とかもむしろ中年から初老の文学だと思う。わたくしも生活に疲れてはじめてそのモードを理解したように思う。考えてみると、職業人にはやいうちになった村上春樹なんかも案外そうではないかと思うのだ。そうでないとコマル。わたしがこれから読むからだ。

学生ははやく職業人となるべきだ。それだけでどこかしら立派に見えることは確かだし、実際立派になる。確かに働いたら負けという側面はあるし、正直人生はそこでいったん終わるが、立派になる。立派になった眼で見ると、――乱暴な議論なんだが、「負け組」と「マイノリティ」の関係が常に混乱する、この現状をあまり軽視すべきでないと分かる。「負け組」とは、民主主義の多数決で負けた人々と一緒で根本的にマジョリティなのでそれだけでは魂がない。横田と尾崎の違いを考えるときに、どちらに魂があるのかみたいな議論が必要だ。大学院生のわたくしは尾崎をマジョリティとみなしていた。

チャットGPTみたいなものでいくらか遊んでみたが、さまざまな人が指摘しているように、――「中とって」とか、「綜合すると」とか、「より適切な」とか、「そのことを考え合わせて」みたいなことを答えてくる傾向がある。これには魂がない。尾崎の小説が泣けてくるのは、その寄せ集めみたいな文体にもかかわらず、魂みたいなものあるからだ。人間がある事柄を一〇年考えてぎりぎりなことを言い出す側面がある。チャットなんとかにはいまところそれはない。言うまでもなく、そういう欠落を客観的な論理的能力と錯覚が大手を振って歩くのが我々の社会である。そういう能力は、文学や思想にはほとんど役に立たないばかりか、《ジャーゴン知ったか野郎》みたいな状態を長く続ける可能性が出てきて非効率だ。


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