★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

微笑もて正義を為せ!?

2018-07-13 23:56:25 | 思想


太宰治の「正義と微笑」のなかには、正義のために落第した、とか、微笑もて正義を為せ!、とか太宰流のスカした名言が出てくるのである。今日、同僚と話していて、正義を孤立したからといって引っ込める輩には教養がないからじゃないかという話になった。わたくしも賛成である。馬鹿だから正義を貫けるというフィクションをわれわれは読みすぎたのではないか。ある種の教養のみが正義を支えるのだ。

まあ卑近な例を挙げれば、マルクス主義が廃れたのは、勇気がなくなったからでも時代が変わったからでもなく、マルクスが読まれなくなったからなのである。マルクスボーイ全盛の頃から、既に(われわれが現時点での読解可能な)マルクスは時代遅れといわれていたのだから――もう没落自体は時間の問題だったのである。あとは読まれなくなっただけだ。しかし別にマルクス自体が古くなったとは思わない。マルクスが古くなったというのなら、スミスはもっと古く、アリストテレスは古すぎる。

いずれある場所で話す必要があるのであるが――、「君たちはどう生きるか」という書物が明らかに教養主義的なものであるにもかかわらず、上の教養たり得るのかといった問題について、わたくしは、ちょっと懐疑的だと言いたい気分だ。この本は学校生活のための道徳的な教材という感じがする。教養のための書物とは、例えば、大人になって夢敗れ自分の限界も知った教養あるコペル君が卑怯なまねをしてしまうという――苛烈な書物である必要があるのではなかろうか。教養とは個人の物語(ヴィルディングスロマン=教養小説)という形をとることが多いと思うのであるが、それにしても物語をきれい事で済ませるものが多すぎる。

そういえば、今回の豪雨ではなんとなく全体的に救助その他の動きが鈍かった。首相周辺が飲み会やってたみたいな批判があるが、たとえ飲み会やっててもちゃんとやることが機能してればよいのであって(そもそも政治家というのは、そういうレベルの輩なのである。最初から頼る方が間違っている)、――この全体的な動きの鈍さは何だろう。マスコミも自治体も自衛隊も何もかも動きがゆっくりだったようにみえたのはわたくしだけではあるまいて――。そろそろ、われわれがいざとなったら人助けのために奔走する国民であるという神話も崩れるに至ったか(という感慨も気にしないようになってしまったか)。老人が増えたというのもあるだろうが、そろそろ我が国は国民を本格的に見捨て始めたようだ。わたくしが小さい子どもなら、ここ二週間の我が国からのメッセージをこう受け取るであろう、「逆らったら何人でも死刑だ、逆らわない場合でも助けないけど」と。

これは為政者を責めるだけで解決する問題じゃなく、われわれが、やることやらなきゃこうなる、しかもやってもこうなるとは限らないのだがやるしかない、と思うための教養を欠落させたことから来るものではなかろうか。何回か言ってきたが、安倍氏は多くのわれわれの似姿なのである。仕組みにやや問題あるとは言え、選挙という人気投票だけが自動機械化すれば、安倍やトランプが台頭してくるに決まっている。小泉もそうだったが、彼らはわれわれの潜在的な欲望をよく捉えているからで、実際、彼らの動きを注視して良い思いができる、もしかしたらもっとできる国民は案外多いのかもしれん。――にも関わらず、そのこととは関係なしに、社会の崩壊が止まらないのは、人気投票の独裁のためだけではなく、われわれが個人としてのまともさを失ったからである。戦争の悲惨さという教養に頼っていたのはまずかった。それがなくなったら、何もなくなってしまったのであった。


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