★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

健康奉仕と虫

2021-07-26 19:30:46 | 文学
人の才能は、文あきらかにして、聖の教えを知れるを第一とす。次には手書く事、むねとする事はなくとも、是を習ふべし。学問に便あらんためなり。次に医術を習ふべし。身を養い、人を助け、忠孝のつとめも、医にあらずはあるべからず。次に弓射、馬に乗る事、六芸に出せり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、誠に、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は人の天なり。よく味を調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。この外の事ども、多能は君子の恥ずる処なり。詩歌にたくみに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸くおろかなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし。


男子の必修科目を主張したこの文章はまったくいまの日本みたいな発想であって、断じて容認できない。

第一の漢籍をしるべし、まあいいかもしれない。(もっとも、これはいまなら英語を習えみたいなものなので、それ自体意味はないと見てよいであろう)第二の文字を書くことであり、これも出来てさしあたり当然の気がしないではない。兼好法師も「むねとすることはなくとも、これを習うべし」と言っている。わたくしを含めて、字の醜悪なやつが多すぎる。キレイに書けばいいというものではないが、そもそも字を書くこととは、伝わりゃいいというような獣コミュニケーションみたいなものを越えた芸の領域に属しているのであって、種の保存のためには行為だけが必要で美しい羽はいらんみたいな主張なのである。とりあえず、孔雀の前で主張して頂きたい。

第三の医学を学ぶべし、は――いまや健康政策のようなものなのかもしれないが、まずは戦乱の世を鎮めてからこういう主張をしてもらいたいものだ。労働が魂の抜けた運動と化しているのに健康診断を強制して悦に入っているようなものである。

とはいえ、わたくしも医学に従属した人生を送っていることは確かである。小さいときに、病院の待合で多くの時間を過ごした心の癖なのか、いまでも待合室にいると心が落ち着く。先日も、コロナのワクチンを打ったときに、アレルギー反応が心配な人間に分類されて、ぽつねんと三〇分待機エリアに座らされているときのわたくしは、たぶんに悟りの境地に達していた。

――わたくしの後半生は本を読んだり書いたりといった時間が大きな割合を占めているが、これも所謂「研究」というより、生きるための記録を付けて行く作業みたいなものかと思う。なぜなら、ワクチンの副反応観察記録のプリントを渡されてなぜだか俄然やる気が出てきたからである。私を記録するのがわたくしの生である。もっとも、かかるあり方は案外わたくしに限らず普遍化しているような気がする。SNSなんてほとんどコミュニケーションの為には行われていない。記録が目的である。

そのいみで、兼好法師の第四の弓馬は、武力が人間を守る的な遅れた時代の名残であった。すなわち、第五の食は、いかにもというかんじである。兼好法師の考えていることは「安心安全」に他ならない。兼好法師ではなく、この人は健康法師、いや健康奉仕と呼ぶべし。第六の細工も、戦場のときに生き延びるためであろう。

――というわけで、こういう反動的必修科目から芸術が外れているのは無理もない。「金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし」。兼好法師は芸術を金に喩えているのであろうか。それよりも鉄だと。プロレタリア文学かっ。我々の風土は、政治が崩壊しているところで武力が出来てくる。そして政治が芸の範疇であったことにすべてが崩壊してから気付くのである。

健康奉仕の理想の男とは下のような人間未満の化け物であろう。



しかし、こういう虫もよくみてみると可愛らしくもあるのであって、問題は、虫だからと言って嫌う連中である。

誰だ? この花園に入って来て、虫喰いの汚ならしい赤い花ばかりを残して、その他の美しい花を、汚ない泥靴で、荒らして歩こうとするのは!

――中村武羅夫「誰だ?花園を荒す者は!」


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