★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

糸より神社を訪ねる(香川の神社102)

2017-11-04 10:08:18 | 神社仏閣
浜ノ町の糸より神社に来ました。



案内板に曰く、

「糸より姫は、正和三年(西暦千三百十四年)に御醍醐天皇の第二皇女としてお生まれになりましたが、南北朝争乱の渦中に巻き込まれ、悲しみのあまり延元三年(千三百三十八年)従者と共に住みなれた都を後に、讃岐の国玉藻の浦西浜に落ちのび、この地の漁師達にあたたかく迎えられたと伝えられています。糸より姫二十五才の時、漁師の乙吉青年と結ばれ一男六女をもうけられましたが、弘和二年(千三百八十二年)波乱の多い六十八才の天寿を過ごされた霊地であると言われています。」


後醍醐天皇にはかなりの子どもが居るらしいので、――というより、天皇の子どもは昔から膨大な数いるはずなので、もはや――臣民すべて天皇の赤子とかいう大日本帝国の妄想もあながち妄想ともいいきれない――訳はない。ピンチだったり暇だったりする時にわれわれがどんな物語を紡ぐのか、いずれにせよ、興味深い。この話を貴種流離譚の一つだととらえてみても、それはある種の諦念に彩られている。確かに十市皇女が壬申の乱から逃れて妊娠中に死んだ伝説とかに比べれば、辛抱強く生きた話にも見えるが、辛抱強さとあきらめは表裏一体である。わたくしはまだ、流離譚でも「ラーマヤナ」の方を好む。人生を「一男六女をもうけられましたが、[…]波乱の多い」云云と言ってしまってはならないような気がするのである。上の話は、「立派な親の元に生まれました→住み慣れました→他人の争いに巻き込まれ悲しみました→温かく迎えられました→結婚しました→たくさん生みました→天寿を全うしました」という流れ、天皇云々を取り去ってみれば、極めて一般的な女性の人生にみえる――という効果がある。しかし、実際の人生は、一般的でもなんでもない。

日に日にに
   網糸つぎむおぐるまの
     糸より浜と名をのこすらむ

糸より姫の、み歌としてつたえられ、以来のこ浜辺を誰言うとなく「糸よりの浜」と呼ぶようになりました。


別に平家の落人説もある。

https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/minwa/minwa1/minwa3/minwa3.htm

http://www.ku-kai.org/itoyori.html
上の話の
「村の人たちはきれいなお姫様に見とれてしまい、魚は一匹も売れない。困ったお姫様は、手拭いでほおかむりをして売りに行くことにしたそうな。
すると、売れるわ、売れるわ。おもしろいように魚が売れたのじゃった。やがてお姫様のうわさがひろがり、他の女たちもお姫様の真似をしてたらいを頭に乗せ、魚を売って歩くようになったそうじゃ。」

という部分などは面白いと思う。わたくしなんか、この話は――どこのものとも知らぬ美人がほおかむりをして魚を売りまくっているのをみて、あまりに悔しいので、不幸な身の上話をあとからくっつけたのではないかと思ったりもした……

  




「糸より姫」の像である。

この神社は、昭和四十五年にできたもので、その由縁は、像の左側の大きい碑に書かれている。ここでは姫は後醍醐天皇の皇女とされていて、人々は姫を偲ぶ余り、産土の神に合祀したりしていたそうである。で、あるとき子孫の方の一人が霊夢で姫に会ったそうで、彫刻家の新田藤太郎に頼んで像をつくるに至ったそうである。新田藤太郎は明治二十年代の生まれだからもうかなり歳だったはずだが……。新田氏はいろいろなものをつくっている人だが、爆弾三勇士といい、いとより姫といい、――誰も見たことはないが、誰でも見たことのあるような、文句を言われないそれらしい感じでつくることを要求されて大変だっただろうと思う。あともうひとつ注目すべきは、真言宗大覚寺派(お大師さんのとこです)の大僧正、乃村龍澄が相談にのっているらしいということである。

 

姫様の視線の向こうには漁港がある。

しかしまあ、この神社のある地帯をふくめてここらは確か大正時代ぐらいまで全体が海だったのであった。


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