★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2024-08-04 23:47:27 | 文学


行者樹の枝に上り、かの金撃子を取て敲き落すに、たちまち地中に沈みけり。行者是を見て其奇なるを感じ、直綴の襟をひらきて、三個の葉を打おとし、懐にして立かへり、沙悟浄と八戒に分ちあたへ、皆悦んで是を吃ふ。一人の童子是を見て大きに驚き、忙ぎ三歳の前に走り来り、罵て申しけるは、「你が三人の弟子、吾師父の秘置き給ふ人参果を偸み吃ふ。你此事りたるか」三蔵聞きて驚いて曰く、「人参果とは、先に童子の賜りたる嬰子にてあらずや。吾が徒弟何の爲にかかる怪しき果を偸みくらへるや。只今吾これを糺すべし」とて大音に三人を呼び給へば、沙悟浄聞て申しけるは、「今師父の急に我々を呼給ふは、果して人参果の事なるべし」

だいたい弟子というのは100%不肖の輩である。彼らが師父になるのは、師父として生長するプロセスを踏んでからであって、弟子としてはやはり弟子止まりである。しかし、よのなか弟子と呼ばれずに師父の立場にありながら、もっと偉大な者に対しては、弟子でもなんでもない何者かになる。三蔵が案外我が儘だったりするのは、その危機を示している。教師は不安定だ。

例えばわたくしなんかも、教師×学者もどきをやっていると、誰かの影響を受けていると言われることは多いが、――最近では、やっていることがジジェクだろうと言われたし、昨日はまるでラカンだと言われた。しらないうちにそんな偉人に似ていたとは驚きだ。どっちかというと顔は高橋和巳を少年ぽくしたかんじなのに。

文フリでもらってきた、はなべとびすこ×田丸まひる「サイダーとアイス02」なんか、何者でもない感じがまだポジティブな傾向に覆われていて私とは雲泥の差だ。

かかるとき、先人達はどうしていたのか。例えば、危うい立場の不安定に対して、リストの「ハンガリー狂詩曲」は観衆の奴隷にならないために、全曲続けて一種のオペラみたいにきくとよい曲集として作られたとおもうのである。雑誌『談』のトライコトミー特集をよんだが、崩壊の過程である三角関係を、解放のプロセスとしての3人として再構成するがごときであった。こういうのを協働というのであろう。

むかし西原理恵子は、イチローは内野安打ばっかでたいしたことないと漫画で言っていた。たぶん西原はイチローの一人旅にたいして、自らの家族に呪われた三角、あるいは四角関係を対置していたのであろう。そういえば、わたくしも大谷も二刀流ばっかでたいしたことないと思ってたら、通訳に壮大に金を盗まれてたらしいという事で、金的というか西原的にもなにか文句のつけようがない境地に昇格している。というより、大谷も結婚して、通訳との二角形を三角形につくりなおして難局を乗り切ったと言ってよい。

研究も、三角形であるべきだ。若い頃、本に線をひっぱったり悪口を書きながら勉強したが、困ったのはレーニンの「哲学ノート」で、すでにレーニンによってヘーゲルとかの引用に「はっはっ!!」とか「弱い!」とか「??」とか書き込んであるのである。すでにツッコまれているものに弱いという学徒に典型的な症状を示しつつレーニンをわたくしはあまり一生懸命読まなかった。ここで、ツッコミにツッコミを入れるような根性があれば、ヘーゲル=レーニン=わたくしの三角形によって何かもっとすごいものが生じたのかも知れない。

三蔵の弟子も二人ではなく三人いたからいいのであろう。


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