「何か、この歌、すべて詠みはべらじ、となむ思ひはべるを、物のをりなど、人の読みはべらむにも、『詠め』など仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なむしはべる。いといかがは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などを詠むやうははべらむ。されど、歌詠むといはれし末々は、少し人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ、さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、甲斐ある心地もし侍らめ。露とり分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいではべらむ、亡き人のためも、いとほしう侍る」と、まめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらば、ただ心にまかす。我は、詠めとも言はじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は、歌のこと思ひかけじ」など言ひてあるころ、庚申せさせ給ふとて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。
清少納言は清原元輔の娘であった。有名な学者で歌よみでもあったので、娘は父の名を辱めるくらいならもう歌は詠みませぬ、と言って容易に歌を詠もうとしない。おまけに、「露とり分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいではべらむ……」と、「まったく大したことのないのにいかにも歌らしく、自分こそはというプライドを持っている風に、真っ先に読み出したりしては……」となにやら他人の悪口まで混じってしまうのだからすばらしい。
ただこれを真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ奴には候なれ。それも十年か二十年の事ならともかくも、二百年たつても三百年たつてもその糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候。何代集の彼ン代集のと申しても、皆古今の糟粕の糟粕の糟粕の糟粕ばかりに御座候。
――正岡子規「歌よみに与ふる書」
正岡子規の言っていることと、清少納言のいいわけを並べてみると、結局、歌の世界は人間の繋がりのことでもあり、その繋がりが絶たれなければ、新しい表現もありえなかったのだと思う。子規は、「糟粕の糟粕の糟粕の糟粕」とハンマーを何回も振り下ろしている。もっとも問題は、この「多」である。
「その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし。
つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来まし」と啓しつ。
清少納言 も父の名がなかったら千ぐらい軽く口からでてくると言って居る。糟粕よりもすごい数である。
しかのみならず――、彼らが至高の表現を目指していたとしても、人間の数は多く、結果的に、和歌は数えきれぬ程この国に溢れかえってしまうのであった。