★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

同一化と差異化

2023-08-08 23:16:51 | 思想


子曰、回之為人也、択乎中庸、得一善、則拳拳服膺、而弗失之矣。

孔子が顔回を褒めた有名な箇所であるが、顔回ははたして自分のことをどうかんがえていたのであろう。孔子は顔回が中庸を選んだ場合にそれを大切にできる人柄だったと言っているので、顔回の認識というより、認識を保持する能力をほめているようにみえる。これは褒めていることになるのであろうが、顔回はある種のよい受容器のようなものであると言っているに等しい。顔回は四十一歳で死んでおり、若い頃から孔子にそんな性格だと思われていたにちがいない。大概は、拳拳服膺どころではなく、自分が中庸的なものになろうとしたり、中庸ではない何者かになろうとして魂をすり減らしてしまうからである。

現代は、自らの存在を同一性と差異化でしか計れないような狂った感覚が支配している。孔子が上のようなことをいうということは、当時もそうだったのかもしれない。ようやくわたくしも昨日、チャットGPTをやってみたのだが――、やっぱりかなり解答が思想的に片寄っているように思われた。とくに、質問がおおざっぱなのときにその特性が表れる。要するに、質問が雑だと間違わないように右顧左眄をしているのである。みんなに怒られないように正解を言わなければならないような危機管理的な知というかなんというか。場合にもよるが、こちらの課題の出し方を意図的に雑にすることもありうる。すると、かならず間違えてくれそうである。言葉と化した真理との同一性をめざせば、そういうことになりがちである。我々は、その真理から常におもしろく疎外化された存在である。右顧左眄的な社会的「真理」とも違うが、それは同一化可能である。例えば、テロの扱いなんか、社会的「真理」しかGPTは答えない傾向にあった。しかし、もともと我々はそれ以上に真理から疎外されているのである。

おもしろく疎外されているおかげで、我々は作品を生み出してきたに違いない。作者がなぜすごいかといえば、その性格を体現しているからである。手塚治虫や夏目漱石のファンとしての作者が似ても似つかん作品をオマージュのつもりで生成させてしまう。これを、学者や評論家が、真実の方に疎外を解いて近づけてしまう。それを多様な読みとか言い訳してみても無駄で、その正しさにおいてつねに作者の行為よりも下位にある。小林秀雄以下の評論家たちがおもしろかったのは、おもしろく疎外されたものを更に主観的に疎外する努力をしたからである。

もっとも、作品が社会に影響を与えることもまた作品を疎外して行われる。元長柾木氏がたしか『ユリイカ』の荒木飛呂彦特集で、「ドラゴンボール」も「ジョジョ」も戦闘能力のインフレが起こっているけれども、それは少年マンガの良さであって否定すべきでなく、少年漫画的必然として「デスノート」の「ルールインフレ」に繋がっている、みたいなことを言っていた。しかし、現実もそんな「ルールインフレ」のような気がするので、いまは「少年マンガ」化した世の中といえるかもしれない。

「少年マンガ」は、差異化の世界であるとともに英雄への同一化の世界である。しかし、振り返ってみると、我々も若い頃はエネルギーをどこかしら他人に似せるところにつかっており、次第にエネルギーをなくすことによって自分をようやく発見するところがあると思う。自分らしさみたいなところにこだわる若者はある種の諦観の中にあることが多いし、何もしない方が自分らしくなるみたいなことにきがつく子どもも多いと思う。――もちろん、こんなことに拘っている時間はもったいないのである。


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