兩側に櫛比して居る見世物小屋は、近づいて行くと更に仰山な、更に殺風景な、奇想的なものでした。極めて荒唐無稽な場面を、けばけばしい繪の具で、忌憚なく描いてある活動寫眞の看板や、建物毎に獨特な、何とも云へない不愉快な色で、強烈に塗りこくられたペンキの匂や、客寄せに使ふ旗、幟、人形、樂隊、假装行列の混亂と放埓や、其れ等を一々詳細に記述したら、恐らく讀者は竦然として眼を掩ふかも知れません。私があれを見た時の感じを、一言にして云へば、其處には妙齢の女の顔が、腫物の爲めに膿たゞれて居るやうな美しさと醜さとの奇抜な融合があるのです。 眞直ぐなもの、眞ん圓なもの、平なもの、凡て正しい形を有する物の世界を、凹面鏡や凸面鏡に映して見るやうな、不規則と滑稽と胸悪さとが織り交つて居るのです。正直をいふと、私は其處を歩いて居るうちに、底知れぬ恐怖と不安とを覺えて、幾度か踵を回さうとしたくらゐでした。
――「魔術師」
谷崎の主人公が不安とともに幻視したものは、いったい群衆の中の何だったのか?ネットはこんな風にみえなくもない。
わたくしもまた、新聞や雑誌はまともなのにネットではそれが誤読や曲解によって崩壊していると思い込んでいたが、最近文芸誌や総合誌をいくつか読んで、――やはりそう事態は単純ではなく、ネットの把握不能な過剰さに比して、雑誌のそれは毒にも薬にもならないかんじにむしろなりつつある気がした。学会誌だって例外ではないかもしれない。ネットは確かに刹那的だが、対抗すべき雑誌は逆に月刊のペースが逆にはやすぎるのだ。思うに、コミュニケーション能力とか言い始めてから、論説みたいにコミュニケーションとはいえないものでもコミュニケーションみたいになってきている、書き手の「意識」においてそうなのである。こんな状況では、読み手を信用していないと、ものすごく質が落ちたことをしてしまう。わたくしにもその自覚がある。社会が信用をうしなうと、こういうことが起きるのであった。こんな状態では、コンスタントにいい仕事をすることはできない。
社会への過剰適応は、もはやひそかに社会問題なのだとおもうが、――よくみられる症状は、上の「意識」の欠落である。一方で発達障害的に括られ、一方でこんな社会で業績を積み重ねる条件と化す。上の困難から導き出される現象である。
『夜明け前』を読んでいると、同じような適応に関する問題を想起させられる。むかし芳賀登が言っていたように、島崎藤村の親父の国学への接近はある程度農政学的な興味からだったとも思われる。私の母方の祖父も、国語の教師であって且つ農業の経営研究所の看板を掲げていた。長野県での白樺派や京都学派の勉強会みたいな観念的な運動は目立つが、他方で農業と結びついた保守的とも見えるいろんなものがあったに違いない。たぶん彼らはそれを十分文字にすることに失敗しているのだとおもう。藤村もたぶん失敗している。こういうことは、たった一代でも継承に失敗するのだ。近代社会の恐ろしさかも知れない。