★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

リアリティの種類

2020-06-14 23:23:07 | 文学


  思ひそめ物をこそおもへ今日よりはあふひ遙になりやしぬらむ
とてやりたるに、さらにおぼえずなどいひけむかし。されど、又、
  わりなくもすぎ立ちにける心かな三輪の山もとたづねはじめて
といひやりけり。大和立つ人なるべし。かへし、
  三輪の山まち見る事のゆゝしさに杉立てりともえこそ知らせね
となむ。


ついに色気づいてしまった道綱君である。父親は国のお偉方、母親は有名な歌人――こんな状況ではすごく生きるのが大変であろうと下々マインドが身についているわたくしなんかは思うのであるが、そうでもないかもしれない。親が成功者の場合、どうやればそうなるというのが一応見えており、それを基盤として自分の道を親への反発みたいなものとは別個に考えることができそうである。親に対する低評価による反発という感情は非常に厄介で、反発はその対象を乗り越える手立てをかんがえることとは全く別物であるという思考がなかなか働かない。親に反発していたら、親よりもダメになってしまうことがあり得るのである。当たり前のことだが、社会改革と同じく、反発を覚えているだけでは物事は好転しないのであった。

――それはともかく、道綱氏はがんばって惚れた女に和歌を繰り出す。しかし、最後は、三輪山伝説の蛇あつかいされてしまった。確かに、この時代の男女関係は本当に賭けみたいなところがあって、それゆえ、和歌や物語をつくるような妄想力が発達してしまったのだともおもうのである。三輪山の蛇神はその意味で、非常にリアリティがあったにちがいない。だから、生身の相手に出会ったときには違った感慨があったはずである。もしかしたら、現実と虚構の関係は、リアリティの観点ではいまと反対であったのかも知れない。もっとも、恋愛というのは、そういうところがある。二次元の方がよいと思っているのは、近代の「リアリティ現実主義」をひっくり返しただけで、むしろ現実の方に二次元的な興奮があるというべきであった。

宇野常寛氏の『遅いインターネット』のなかで、いま必要なのは共同幻想からの自立ではなく、自己幻想からの自立だという主張が出てくる。確かにネットの世界は、吉本の三つの幻想が、それぞれと逆立せずに自己幻想のタイムラインの中で融解している印象がある。だからインターネットの速度を落として自己マネジメントをできる速度を取り戻すべきということになる。わたしもなんとなく気分は分かる主張である。だから、わたくしなんかは文章自体の速度を落とす努力をしている。宇野氏なんかは文章が速すぎて、――たぶん彼自身よりも論理が速くて彼自身が追いつかない。これこそ、インターネット的であるように思うのである。我々は、インターネットを遅くするのではなく、インターネットでものを考えるのを止めるべきなのではないだろうか。

「誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言うてみ。人間にはそれぞれ個人の事情というものがあるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな」

――木山捷平「苦いお茶」


これは満州で世話になった娘が戦後その世話になった男(正介)に出会ってお茶を飲んでいると、学生に冷やかされ、それに対して娘が反論するところだ。このような発言は内容は陳腐なので、インターネットのような空間では消費されてしまうが、お外の世界ではまったく違う。我々はものを考えるときに、現実で生きる言葉とそうでない言葉の関係を、インターネットでは忘れてしまう。わたくしの考えでは、吉本隆明なんかも、その文章の長さが辛うじて現実への回帰を果たす機能をしていたのである。