★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

嘘と人にもあらぬ身の上――「蜻蛉日記」の終わり

2020-06-20 18:35:18 | 文学


今年いたうあるるとなくて、はだら雪ふたたび許ぞふりつる。助のついたちのものども、また白馬にものすべきなどものしつるほどに、暮れはつる日にはなりにけり。明日の物、をりまかせつつ、人にまかせなどしておもへば、かうながらへ、今日になりにけるもあさましう、御魂など見るにも、例のつきせぬことにおぼほれてぞはてにける。京のはてなれば、夜いたうふけてぞたたき来なる

考えてみると、紫の上は源氏が若い子の方に行ってしまって大鬱になって死んでしまったが、蜻蛉さんのような末路よりは案外悲惨でないかもしれないのだ。生きているのか死んでいるのか分からない状態こそが、変身の条件だとか言う人もいるけれども、大概そうではない。通い婚の時代の悲劇だとはいえ、似たような絶望が現在もそこここにみられるのはいかなることであろう。

御霊祭には死者の霊が訪ねてくるというが、そんなときにこれまでのボンクラとの思いだか悲しみだかに浸る蜻蛉さんであるが、今年も「果てにける」であるが、ご自身も「果てにける」なのである。ここで、冒頭に帰ってみよう……

かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経ふ人ありけり。かたちとても人に似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことはりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてありぬべきことなむ多かりける。

「世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ」、この「人にもあらぬ」(人並みでない)というせりふに込められた屈折。古物語のそらごと(虚構性)を批判するために、まことの私ではなく、「人並みでない私」を持ってくる、物語の嘘と拮抗する人並みでない私という重さ。実にいやなものである。人並みでないのは、「平凡」というものではない。平均とも言えない「ない」という否定に覆われている私であり、それが「嘘」に対抗している。

女が、あんなに平気で嘘をつく間は、日本はだめだと思いますが、どうでしょうか。」
「それは、女は、日本ばかりでなく、世界中どこでも同じ事でしょう。しかし、」と私は、頗る軽薄な感想を口走った。
「そのお嫁さんはあなたに惚れてやしませんか?」
 名誉職は笑わずに首をかしげた。それから、まじめにこう答えた。
「そんな事はありません。」とはっきり否定し、そうして、いよいよまじめに(私は過去の十五年間の東京生活で、こんな正直な響きを持った言葉を聞いた事がなかった)小さい溜息さえもらして、「しかし、うちの女房とあの嫁とは、仲が悪かったです。」
 私は微笑した。


――太宰治「嘘」


こういうことをいうやつは自分の意志だか意志でないか分からない死に方をした。蜻蛉さんがどうなったかはわからない。