★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

薬師仏はさびしく立つ

2020-06-23 22:23:08 | 文学


いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏を造りて、手洗ひなどして、ひとまにみそかに入りつつ、「京にとく上げたまひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せたまへ。」と、身を捨てて額をつき、祈りまうすほどに、十三になる年、上らむとて、九月三日門出して、いまたちといふ所に移る。
年ごろ遊び慣れつる所を、あらはにこほち散らして、立ち騒ぎて、日の入り際の、いとすごく霧り渡りたるに、車に乗るとてうち見やりたれば、ひとまには参りつつ額をつきし薬師仏の立ちたまへるを、見捨てたてまつる悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。


女は、以前浮舟や古今和歌六帖にシンクロしていたように、薬師仏を「等身大」につくる。自分の願いを叶えてくれる仏に平を床にこすりつけお祈り申し上げる、その対象は、ほぼ自分なのだ。だから、願いがかなって家から離れるときに、振り返ると薬師仏が霧の中で立っているのをみて、仏を見捨たてまつるのが悲しくて泣くというのは、それが過去の自分と離れるみたいだからである。霧の中でぽつんと立っていたような一三年間だったのだ。

「ものくさたろう」というのも、田舎にいるときには働かず寝っ転がっているわけであるが、とにかく彼と同じようなレベルの人間がいないのだからしょうがない。都に行くとがんばれる。嫁までもらって田舎に帰ってくる。百二十才まで生きたそうであるが、彼の嫁が彼の和歌を解するレベルの人間だったからよかったようなものの、そうでなかったら、また道ばたにひっくりかえったのではないかと疑われる。

問題は、田舎に帰ったときにレベルを保てるかどうかだ。ほとんどの知識人がそれに失敗する。

わたくしは、しかし、この場面はとてもよい場面だと思う。仏が人の形をしているのは、上のような願いの自問みたいなものの媒体だからである。これに対して、神社は集団で祈らないと間が持たない対象である。わたくしが勝手に推測しているのは、仏教こそが日本に個人主義を持ち込んだのではないかということだ。明治政府は、それを嫌って空虚な集団的主体を国民に強要した。

その芸術家が何人であったかは知る由がない。日本人であったか唐人であったかさえもわからない。が、とにかくわれわれの祖先であった。そうして稀に見る天才であった。もし天才が一つの民族の代表者であるならば、千二百年前の我々の祖先はこの天才によって代表せられるのである。

――和辻哲郎「古寺巡礼」


つまり、和辻は薬師如来をみて、自分に天才をみているのである。

わたくしは、田舎にうち捨てられている地蔵のなんということもない顔の方がいいと思う。そこには、つかれきった人間の願望が祈る人間より前にすでに顔にでているような気がするからだ。「第三夜」を書いていた漱石は、まだ地蔵に対して人間をみているとはかぎらない。まだ自分自身に希望を持ちすぎているような気がするのである。