★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

神社の効用

2020-06-16 23:03:18 | 文学


おほやけには、例の、そのころ八幡のまつりになりぬ。つれづれなるをとて、しのびやかに立てれば、ことにはなやかにていみじう追ひちらすもの来。たれならむとみれば、御前どもの中に例みゆる人などあり。さなりけりと思ひてみるにも、まして我が身いとはしき心ちす。簾まきあげ、下すだれおしはさみたれば、おぼつかなきこともなし。この車を見つけて、ふと扇をさしかくしてわたりぬ。

お祭りだと、つれづれなのに出て行ってしまう我々の心の悲しさよ。そんなところに出て行けば、ボンクラと会うに違いない。いや、それが分かっているから行ってしまったと言うべきか。威勢よく先払いをしてくるものあり――ボンクラである。蜻蛉さんは惨めになるだけである。さて、そろそろ、蜻蛉さんも悪霊なんかになってボンクラの寝所を襲ったりするべきではないかとも思うんだが、蜻蛉さんは教養あふれんばかりの人なのに、寺に行って、仏教そのものに余り興味がないようだし(しらんけど)、八幡神についても興味がなさそうである。そもそもボンクラなんかより、寺や神社について調べたりする方が面白そうである。わたくしだったら、一日中、神社をめぐって記録をとってしまう。この時代の地方には、さぞ面白いものが祀ってあったに違いないぞ……

ボンクラがさっと扇で顔を隠して通り過ぎたので、蜻蛉さんはもうそれだけ鬱である。

正面に社殿が黒くぼつと見えて來た、前に張られた七五三飾が、繩は見えないで、御幣の紙だけ白く並んで下つて居るのが見える、社殿の後は木立が低いので空があらはれた、左右の松木立の隙間にあらはれた空の色が面白い、薄い茶色に少しく紫を含んだ、極めて感じのよい色である、油繪にもかういふ色は未だ見ない、西洋の寫眞にこういふ色を見ることがある、西燒のあかりが未だ空全體に映つてゐるのであらふ、松林にまじつてゐる冬木が幾分の落葉を殘してゐてほんのりとした梢の趣が其空の色と調和がよい油繪が出來たらなアと思う、空の色がよいなと思つた眼を稍下へ見下げると、社殿の右手の木立が西あかりを受けてかあたりが一體にあかるい、其あかるいのに何となし光がある樣に思はれる、不折君の所謂繪具の光といふことなど思ひだす、あたり一面に色ある落葉が散つてゐる、がさがさ落葉を蹈みちらして進む、拜殿の柱に張つた七五三と思つたは、社殿二間ほど前に兩側にある松に張つてあるのであつた、松の根にある唐獅子は只黒ずんで見える許り目も鼻も判らぬ、臺石に點々色がある、落葉かと思つて眼を寄せて見れば黒ボクの石の隅々をついだシツクイであつた、二人社前に正立し帽を脱て默拜した後右手へ廻る。

――伊藤左千夫「八幡の森」


鎮守の森がいいと思うのは、もはや神様なんかはどうでもよくなってくることだ。自然が神だとか賢しらなことを言う人もいるのだが、どうみても、鎮守の森は鬱状態になった人間の治療場所だと思う。ときどき、旅人を生贄にしたりする風習があって、ある種の集団的な治療に使ったような話も聞かないではないのだが。――そして、これが重要なのだが、それで治らないだけでなく、治ったふりをしなければならなかったのである。