石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

日本のテレビよ、お前はどこまで頑張れるのか ― 戦後生まれの民放テレビも体質と構造は「官民一体型」

2012-08-26 09:48:09 | 月刊宝島「メディアに喝!」
月刊「宝島」連載コラム、2004年7月号掲載



 ジャーナリズムが追及する真実は「国益」よりも優先する。アメリカのCBSテレビが暴露した米軍によるイラク人捕虜虐待映像は、そう語っている。

 もし日本のテレビ局が、海外派兵された自衛隊の「不祥事映像」を独自に入手したら、果敢に放映するだろうか? これは現場の記者やプロデューサーを超えた「経営判断」にゆだねられ、スクープ映像は闇に葬られるのではないか。政府や世間から「反日的」と攻撃された時、テレビよ、お前は頑張れるのか?

 NHKと大新聞は自国の戦争に際し国益を言い訳に、ウソの報道をし続けた「前科」がある。それを国民に対して謝罪も総括もまだしていない。では民放テレビはどうか? 「日本の民間放送は、戦争に加担しませんでした」。これは「ニュースステーション」最終回で久米宏が最後に語ったコメントだ。あの戦争が終わってから会社ができたのだから、そりゃそうだろう。

 しかし、日本人の血にある、お上に睨まれたら「ハハーッ」と頭を下げてしまうクセは「民放」にだってある。まるで、味噌汁と白米を食ったら、誰でも「うまい!」と叫ぶように、戦後生まれだって関係ない。電波を発する「免許」を政府からもらって商いをするという「構造」が、そもそも戦前並なのだ。

 テレビ局とは「電波を永久的かつ独占的に使用し、電波料として広告費を懐に入れ、制作費という名の材料費までもらい受ける一方、何ら公共に資する支出を要求されたこともない、特権まみれの営利追及会社である」(堤治郎著『テレビを嗤う』2001年、文芸社刊)。

 この本には、放送業界に三八年間いて退職した人による「これまで誰も指摘したことがない放送業界の不公正な実態」が書かれている。いったい電波とは誰のものか。本来、国民全ての利益と便宜に供されるべき電波を、特定官庁の「お許し」のもと、「民放」を名乗る会社がタダ同然で使い放題だ。これはメディアの存在自体が政府に屈していることを意味する。

 はじめっから政府に不利益な情報が伝わりにくい構造、これは「国民の知る権利」を定めた憲法に違反していないか? アメリカと比べても異様なことだ。全米の放送局を管理するFCC(連邦通信委員会)は行政権力から独立し、連邦議会の監督下にあり、「報道の自由」のシンボルである。

 日本のミンポーは、ひとたび電波の「免許」を得れば、民間会社として利益追及に狂奔する。見よ、連日連夜のサラ金CM、公共の電波を使って繰り返される自社の番組と事業宣伝を。連夜のお笑いバラエティ番組はメデイアの「自由」を謳歌しているかに見える。

 しかし、イラクでの自衛隊報道を自粛する協定に簡単にサインしてしまう体質、有事法制では放送もまた「国民保護」の名の下に国策に協力することをうたっている。メディアから反対の声はない。これでジャーナリズムか?

 戦時中、日本は政府による報道規制では世界の先進国だった。戦後「軍部の被害者面」をして「みそぎ」を済ませない大新聞社は系列の「民放」テレビ局を作った。大丈夫か?「官民一体型」に見える今のテレビ。 

 テレビが挑戦すべきたった一つのことは、行政府・総務省からの独立である。そして日本版FCCの独立行政法人を作って、電波の管理、免許の執行をガラス張りにすることだ。テレビの威力があれば、そのキャンペーンは勝てる。この国を、役人のやり放題から救う最後の道である。


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