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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

公営競技の歴史

2013年12月01日 | 一般
<日本の公営ギャンブルの歴史>
ギャンブルの歴史は相当に古くて人類に文明が生まれた頃には,既にギャンブルは存在していたようです。

日本でも『日本書紀』の中に「天武天皇十四年、大安殿に御し、王卿をして博戯せしむ」という記載があるように西暦685年には日本でもギャンブルの原型は行われていました。

当初は双六のようなゲームで、いくらかの金銭や物品を賭けていたと思われます、その後時代が進むにつれて、双六が博打へと変化していきました。

また公営ギャンブルの始まりは、軍馬育成への貢献を名目とした陸軍の肝いりで1936年に日本競馬会が結成され、本格的な政府公認のギャンブルが開始されました。戦後、日本競馬会は国営化されて後に日本中央競馬会へと組織変更され、また各種公共ギャンブルが開催されるようになってきたのです

<公営競技の歴史>
 日本の公営競技の一つとなっている近代競馬は1860年9月に横浜の外国人居留地で初めて行われた。外国人居留地の競馬では馬券が発売されていたが、外国人居留地で治外法権が認められていた間は、江戸幕府や明治政府による賭博の禁止の影響を受けなかった。日本政府容認の近代競馬としては黙許として1906年11月に東京の池上競馬場で初めて開催された馬券発売を伴う競馬が最初とされる。1923年7月に旧競馬法が施行されたことにより全国11の公認競馬倶楽部で馬券発売を伴う競馬の開催が完全に合法化された。
 
 第二次世界大戦後に戦災からの復興支援を主目的とした公営ギャンブルの一つとして開催されることになった。まず、戦前から開催されていた公営競馬の馬券販売が終戦後の1946年に再開された(戦争の影響で1944年から1945年までは馬券販売が禁止されたため小規模な能力検定競走のみ開催されており、また終戦直後の混乱期の1945年から1946年までは地方で非合法な闇競馬が開催されていた)。また競馬だけでなく、1948年11月に福岡県小倉市(現北九州市)で初めて競輪が開催され、1950年10月に千葉県船橋市で初めてオートレースが開催され、1952年4月に長崎県大村市で初めて競艇が開催されるなどし、公営競技の種類が増えていった。

その後、昭和30年代に反ギャンブルの運動が高まったことを受け、1962年9月に総理府の公営競技調査会から公営競技の規模を現状維持とする長沼答申が出され、競技場新設が事実上行われなくなった(廃止されたところの「代替地」としての新設例は存在する)。

公営競技は長年にわたり地方財政の健全化に大きく貢献してきたが(中央競馬は国庫納付金を納めている)、1990年代以降になるといわゆるバブル経済崩壊による不景気、パチンコ・パチスロの隆盛およびレジャーの多様化の影響などにより収益が年々悪化し、収益事業であるにも関わらず赤字となるケースが増加するようになった。このため、電話やインターネットによる投票システムの導入、広域に渡る場間場外を含む場外投票券売場(場外勝馬投票券発売所、競輪場外車券売場、競艇場外発売場)の拡充、高い配当金の期待できる新式投票券(馬・車番の2・3連勝単式投票券や「チャリロト」「Kドリームス」などの複数レースに渡る重勝式投票券)の導入などの方策が採られているが、収益悪化を理由に公営競技事業から撤退した自治体や、撤退を検討中の自治体が増加している。また、事業の民間委託に踏み切った自治体や、民間委託を検討中の自治体も増加している。

1992年の公営競技の売上高は過去最高額の8兆9320億円を記録したが、2005年には5兆2440億円、2006年には5兆1330億円、2007年には5兆0973億円、2008年には4兆9628億円と16年連続で減少し続けている。このうち、中央競馬の売上はピーク時の69%であるが、他競技の売上はすべてピーク時の50%以下にまで減少している。オートレース(31%)、地方競馬(39%)、競輪(42%)、競艇(45%)、の順に減少が激しい。

<競艇の歴史>
  ライフ誌のモーターボートのグラビア写真を見て、「海洋国日本の復興は海への発展しかない」とモーターボートのレースをイメージした、当時A級戦犯容疑者として東京巣鴨の獄中にあった笹川良一、「モーターボートを競馬のように公営競技にできないものかなぁ」と考えていた福島世根、1950(昭和25)年5月に戦後初の日米対抗モーターボートレースを企画具現化した渡辺儀重らの構想が、モーターボートを競走させる競艇へと形を整えていったのは良く知られている。

 第一回の競艇は1951年8月10日、長崎県モーターボート競走会が運輸大臣による設立認可を受け、1952年に九州の大村湾で大村市主催で三日間開催された。その普及ぶりであるが、1952年には、津、琵琶湖、大阪狭山(1956年に住之江に移転)、尼崎、丸亀、芦屋、若松、鹿島と九場があいついでオープンした。翌年は、半田、三国、鳴門、常滑、唐津、浜名湖、徳山、福岡の八場とどんどん増えて、現在では北は桐生から南は長崎県大村まで全国24か所の競艇場で、177の県市町村が施行者となって行われている。

 競走運営を支援・指導する立場の社団法人全国モータボート競走会連合会では、「いつでも、どこでも、おもしろい競走」の具現化に向けて業務を行っている。競艇が他の公営競技と違うのは、女子選手の活躍が目立つことだ。女子選手第1号は1952年5月1日付けで登録された1932年12月15日生まれの則次千恵子選手。1998年9月18日現在で135名の女子選手が登録されている。気になる収入だが、1996年の最高賞金獲得者、山川美由紀選手は5000万円を越えた。
<女子競艇選手> 
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