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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今日は何の日 「桜田門外の変」

2020年03月24日 | 日本の歴史
令和2年3月24日(火)
お早うございます。

<3月24日今日は何の日>
1860年(安政7年3月3日) - 桜田門外の変が起こる。

桜田門外の変(1860)

安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、水戸浪士の一行は東海道品川宿の旅籠を出発した。
この日は明け方から季節外れの雪模様でもあり、一時は大きな牡丹雪が盛んに降り、辺りは真っ白になった。しかし、斬り合いの時刻には雨混じりの小雪で、やがて薄日が射した。

襲撃者ら一行が現地へ着いた頃、既に沿道には江戸町民らが武鑑片手に、登城していく大名行列を見物していた。
この日いわゆる雛祭りのため、在府の諸侯は祝賀へ総登城することになっていた。
襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、直弼の駕籠を待った。

午前8時、登城を告げる太皷が江戸城中から響き、それを合図に諸侯が行列をなし桜田門をくぐって行った。
尾張藩の行列が見物客らの目の前を過ぎた午前9時頃、彦根藩邸上屋敷の門が開き、直弼の行列は門を出た。
彦根藩邸から桜田門まで三、四町(327から436メートル)、彦根藩の行列は総勢60人ばかりだった。
雪で視界は悪く、彦根藩護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、とっさの迎撃に出難く、それは襲撃側に有利な状況だった。
また江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、彦根藩行列の警護は薄かった。
もっとも直弼の元には以前より不穏者ありとの情報が届いていた上、当日の未明 にも直接の警告があったが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと直弼は判断し、敢えてそのままに捨て置いた。
この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。
それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとした時、凶報がもたらされた。
登城する直弼の駕籠は、彦根藩上屋敷の門を出た後、内堀通り沿いを進み、江戸城外の桜田門外の杵築藩邸の前に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。

先供が松平親良邸に近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づいた。
彦根藩士・日下部三郎右衛門はこれを制止し取り押さえに出たが、森は即座に斬りかかったため、日下部は面を割られ前のめりに突っ伏した。
森が護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストルを駕籠めがけて発射した。
これを合図に浪士本隊による全方向からの駕籠への抜刀襲撃が開始された。

発射された弾丸によって、直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。
襲撃に驚いた丸腰の駕籠かき、徒歩人足はもちろん、彦根藩士の多くも算を乱して遁走した。
残る十数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。
護衛の任にある彦根藩士たちは、雪の水分が柄を湿らせるのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、これと鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んだりして、指や耳を切り落とされるなどした。

こうした防御者側に不利な形勢の中、彦根藩士も抵抗を行い、結果として襲撃者側も被害が拡大した。二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪の河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒し、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若い剣豪・永田太郎兵衛正備も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。
しかし、河西が斬られて倒れ、永田も銃創により戦闘不能になる。
乱闘により、襲撃者側で当初戦闘に参加しない予定だった斎藤監物も、途中から戦闘に加わった。

やがて、護る者のいなくなった駕籠に、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。
まず稲田が刀を真っ直ぐにして一太刀、駕籠の扉に体当たりしながら駕籠を刺し抜いた。
続いて広岡、海後が続けざまに駕籠を突き刺した。この間、稲田は河西忠左衛門の反撃で討ち死にし、河西も遂に斃れた。
そして、有村が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴み駕籠から引きずり出した。直弼は既に血まみれで息も絶え絶えであったが、無意識に地面を這おうとした。
有村が発した薬丸自顕流の猿叫(「キャアーッ」という気合い)とともに振り下ろした薩摩刀によって、直弼は斬首された。
事変の一部始終をつぶさに見ていた水戸藩士・畑弥平は、襲撃から直弼の首級をあげるまで「煙草二服ばかりの間」とのちに述懐しており、襲撃開始から直弼殺戮まで、僅か十数分の出来事だった。

有村は刀の切先に直弼の首級を突き立てて引き揚げた。有村の勝鬨の声を聞いて、浪士らは本懐を遂げた事を知った。が、急ぎ彼らが現場を立ち去ろうとしたとき、斬られて昏倒していた目付助役の彦根藩士・小河原秀之丞がその鬨の声を聞いて蘇生し、主君の首を奪い返そうと有村に追いすがり、米沢藩邸前辺りで有村の後頭部に斬りつけた。
水戸浪士・広岡子之次郎らによって小河原はその場で斬り倒されたが、現場に隣接する杵築藩邸の門の内側から目撃した人物の表現によると、小河原が朦朧と一人で立ちあがった直後、数名の浪士らから滅多微塵に斬り尽くされた有様は目を覆うほど壮絶無残だったという。一方、この一撃で有村も重傷を負って歩行困難となり、直弼の首を引きずっていった。
しばらくの逃走の後、有村は若年寄・遠藤胤統 (近江三上藩)邸の門前で自決した。これにより、直弼の首は遠藤家に収容されることになった。

小河原は救助され、藩邸にて治療を受けるが即日絶命した。
小河原は、自分の他に数名でも自分と同じような決死の士がいれば、決して主君の首を奪われることはなかったと無念の言葉を遺している。
現場跡には、襲撃者側で唯一その場にて討ち死にした稲田の他、数名の彦根藩供侍と首のない直弼の死体が横たわり、雪は鮮血で赤に染まっていた。
襲撃の一報を聞いた彦根藩邸からはただちに人数が出撃したが既に遅く、やむなく人員を割いて死傷者や駕籠を収容し、さらには鮮血にまみれ多くの指や耳たぶ、数本の腕が落ちた雪まで徹底的に回収した。

直弼の首は前述の三上藩邸に置かれていた。所在を突き止めた井伊家の使者が返還を要請したが、遠藤家は「幕府の検視が済まない内は渡せない」と5度までも断り、その使者を追い返した。
そこで井伊家、遠藤家、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた(遠藤胤統は現役の幕閣であり、彦根の近隣の藩主でもあることから有名な直弼の顔を家中もよく知っており、実際には気付いていた可能性が高い)。
その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した届を幕閣へ提出、直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建により胴体と縫い合わされた。

「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵 万延元年 (1860年)

昨日(3/23)、令和2年3月定例会 最後の本会議が、午前10時より、8階本会議場にて開かれました。
追加議案を含め全ての議案を可決して閉会いたしました。

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