令和3年8月6(金)
お早うございます。
76年前の1945年8月6日は広島に原子爆弾が投下された日です。
8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」
ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立ったアメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、前橋市などに爆弾の雨を降らせていた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。

原子爆弾リトルボーイ(実物)

リトルボーイの構造。赤がウラン235。弾尾側にある黄色い火薬が爆発すると、円筒状のウランが弾頭側へ移動し、円柱状のウランにかぶさって一体化するように描写されている。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾「リトル・ボーイ」を積んだティベッツ少佐の「エノラ・ゲイ」もテニアン島を離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万フィートへ上昇を始めた。
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条町では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。

昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。

原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

広島城

原爆の爆風で燃える前に倒壊した広島城
(8月7日につづく)
お早うございます。
76年前の1945年8月6日は広島に原子爆弾が投下された日です。
8月6日午前0時、南太平洋、マリアナ諸島のテニアン島で、アメリカ軍第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、乗員休憩室で、26人の飛行士に訓示した。
「いま我々が落とそうとしている爆弾は、これまでの爆弾とは違うものだということをよく覚えておいてほしい」
ここでもティベッツ大佐は機密保持のため「原子」や「核」という言葉は、一度も使わなかった。言ったのは、この爆弾が「非常に強力」で「戦争を終結させる力を持っている」ことだけだった。
従軍牧師ウィリアム・ダウニーが、今回のために特別に作った祈りの言葉を唱えた。「全能の神よ。彼らをお守りくださるように祈ります。そしてあなたのお力に助けられて、彼らが戦争を早く終わらせることができますように」
乗組員への説明会は15分で終わった。
マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立ったアメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、前橋市などに爆弾の雨を降らせていた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を目指し、テニアン島を離陸した。

原子爆弾リトルボーイ(実物)

リトルボーイの構造。赤がウラン235。弾尾側にある黄色い火薬が爆発すると、円筒状のウランが弾頭側へ移動し、円柱状のウランにかぶさって一体化するように描写されている。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾「リトル・ボーイ」を積んだティベッツ少佐の「エノラ・ゲイ」もテニアン島を離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万フィートへ上昇を始めた。
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条町では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。

昭和20年(1945年)8月6日、月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。
深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。
この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。
この時、広島中央放送局では、情報連絡室から突如、警報発令合図のベルが鳴りました。古田アナウンサーは、警報事務室に駆け込んで原稿を受け取り、スタジオに入るなりブザーを押しました。
「中国軍管区情報! 敵大型3機、西条上空を・・・」と、ここまで読み上げた瞬間、メリメリというすさまじい音と同時に、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体が宙に浮き上がりました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
人類史上最初の原子爆弾が、広島に投下されました。

原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

広島城

原爆の爆風で燃える前に倒壊した広島城
(8月7日につづく)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます