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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

1945年8月7日はこんな日だった。

2021年08月07日 | 日本の歴史
令和3年8月7日(土)
お早うございます。

1945年8月7日はどんな日だったんでしょうか。

1945年8月7日、広島に原爆が投下された翌日、世界では新しい爆弾(原爆)に関する報道がトップ面で伝えられた。しかし日本では、原爆が投下されたことが暫くの間伏せられていた。

アメリカ合衆国 第33代大統領 ハリー・S・トルーマン

1945年8月7日午前1時30分(現地時間6日午前11時30分)、当時のアメリカのトルーマン大統領は「広島に投下された新型爆弾は、原子爆弾である」との声明を、世界に向けて発表した。広島に原爆が落とされてから16時間経ってからの発表だった。

すぐにアメリカ、イギリスをはじめとする世界のメディアが、トルーマン氏の声明を大々的に報じた。しかし、そのほとんどは連合国の国々によるものであったため、アメリカによる原爆投下を批判するものではなかった。

ニューヨーク・タイムズは8月7日、1面から10ページにわたる特集を組んだ。トルーマン氏の声明全文のほか、イギリスのチャーチル前首相(当時)の声明、原爆の威力、アメリカの陸軍士官学校が原爆開発をリードしたことや、原子力兵器は戦争を早期に終結させるといった内容のオピニオンなどが、原爆を支持するような表現で、紙面に盛り込まれた。

1945年8月7日のニューヨーク・タイムズ紙面

イギリス紙のマンチェスター・ガーディアン紙(現ガーディアン紙)は、「アメリカとイギリスは、20億ドルが投じられた史上最大の科学上の賭けで、ドイツとの競争に勝利した」とするトルーマン氏の声明を紹介。「われわれは日本のどの都市であれ、これまで以上に迅速に破壊する態勢をとっている」とし、日本が降伏しなければ「空から破壊の弾雨が降り注ぐものと覚悟すべき」と警告する内容も合わせて報じた。
ほかにも、「日本に原子爆弾」という簡単な内容の記事から、「原爆、ジャップを激震」というような刺激的な見出しの記事まで、各紙がトップニュースで広島への原爆投下を報じた。


豊橋空襲と豊川海軍工廠の空襲
 豊橋市は、昭和20年(1945)6月19日深夜から20日未明にかけてB29による爆撃を受けました。一夜にして市街地の90%が焼け野原となり、624人の市民が亡くなりました。世帯数では16,009世帯が、人員は68,502人が被災しています。人的被害は、死亡624名、重傷229名、軽傷117名、物的被害は、全焼全壊15,886棟、半焼半壊109棟です。
 また、豊川海軍工廠では、昭和20年(1945)8月7日の空襲により学徒動員されていた県立豊橋中学校はじめ豊橋桜ケ丘高等女学校、豊橋松繰高等女学校などの10校の生徒や前芝国民学校の児童が亡くなっています。

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