竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

JA蒲郡市青年部と市議会議員 情報交換会

2019年08月22日 | 各市町村議会等、各種団体等との意見交換・交流会
令和元年8月22日(木)
お早うございます。

<8月22日今日は何の日>
1875年 - 樺太・千島交換条約批准。

署名 1875年5月7日(サンクトペテルブルク)効力発生 同年8月22日

樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するためにサンクトペテルブルクで署名され、同年8月22日に東京にて批准され締約された条約。
千島・樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルク条約(英: Treaty of Saint Petersburg、露: Санкт-Петербургский договор 1875 года)と呼ぶ場合もある。

日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。
1856年(安政2年)にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。
箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に、樺太をロシア領とすることを建言した。徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、慶応2年(1867年)、石川利政と小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。
しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太はこれまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
これにより幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢になった。
日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。
こうした事態に対して、日本政府内では、樺太全島の領有ないし樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見と、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の2つの意見が存在していた。その後、副島が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。
明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。
榎本とピョートル・ストレモウホフ(ロシア語版)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。



さて、話は少し遡りますが、8月19日(月)午後7時より、JA蒲郡市 本部3階会議室にて、

「JA蒲郡市青年部と市議会議員 情報交換会」を行いました。

市議会側は、自由民主党蒲郡市議団、総勢7名、青年部側は事務局を含め25名です。

主な議題は
(1)農業について

(2)地域について

(3)農業用ハウスの償却資産税について

有意義な意見交換会が出来ました。・・・ありがとうございました!

追伸 8月22日~23日の両日、今枝宗一郎衆議院議員の御計らいで、衆議院会館にて勉強会と、国土交通省、財務省に要望書を提出してまいります。
誠に勝手ながら、8月23日のブログはお休みいたします。
ご迷惑をお掛けいたしますが、よろしくお願いいたします。

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