平成30年6月1日(金)
お早うございます。
早いもので今日から6月、うっとおしい梅雨の時期となります。
皆様にお かれましては、くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申し上げます。
<6月1日今日は何の日>
1918年6月1日 板東俘虜収容所にてベートーヴェンの交響曲第9番が日本初演。
”奇跡の地 坂東捕虜収容所”
鳴門市は、ベートーヴェン作曲 交響曲 第9番「合唱」がアジアで初めて演奏された地でもあります。

お遍路と阿波踊り、鳴門海峡の渦潮で知られる徳島県鳴門市。その郊外に、美しい白亜の洋館がある。「ドイツ館」と呼ばれるこの館には、第1次世界大戦で俘虜(捕虜)となって日本に移送されたドイツ兵士たちと、この地が「板東」と呼ばれていた頃の町民との交流の歴史が刻まれている。本国から遠く離れた日本に連れて来られたドイツ兵捕虜は約4600人。そのうち約1000人が板東俘虜収容所に収容された。鉄条網の中で囚われの身として暮らすことになり、しかしそこで「歓喜の歌(ベートーヴェンの交響曲第九番)」を歌うにいたった彼らの数奇な運命と、そこから日本に根付いたドイツ文化に注目する。
板東俘虜収容所の所長には、当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍のエリート街道を進んできた彼だが、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人でもあった。「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。

松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日) - 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長
「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」
ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じた。捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江の収容所運営はこうして始まったのだった。

それまでの収容所で経験した劣悪な環境から、警戒心を持って板東俘虜収容所にやって来たドイツ兵たちに、松江はまずこう語り掛けた。「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」
お早うございます。
早いもので今日から6月、うっとおしい梅雨の時期となります。
皆様にお かれましては、くれぐれもご自愛くださいますようお祈り申し上げます。
<6月1日今日は何の日>
1918年6月1日 板東俘虜収容所にてベートーヴェンの交響曲第9番が日本初演。
”奇跡の地 坂東捕虜収容所”
鳴門市は、ベートーヴェン作曲 交響曲 第9番「合唱」がアジアで初めて演奏された地でもあります。

お遍路と阿波踊り、鳴門海峡の渦潮で知られる徳島県鳴門市。その郊外に、美しい白亜の洋館がある。「ドイツ館」と呼ばれるこの館には、第1次世界大戦で俘虜(捕虜)となって日本に移送されたドイツ兵士たちと、この地が「板東」と呼ばれていた頃の町民との交流の歴史が刻まれている。本国から遠く離れた日本に連れて来られたドイツ兵捕虜は約4600人。そのうち約1000人が板東俘虜収容所に収容された。鉄条網の中で囚われの身として暮らすことになり、しかしそこで「歓喜の歌(ベートーヴェンの交響曲第九番)」を歌うにいたった彼らの数奇な運命と、そこから日本に根付いたドイツ文化に注目する。
板東俘虜収容所の所長には、当時44歳の松江豊寿が任命された。陸軍のエリート街道を進んできた彼だが、戊辰戦争に敗れた会津藩士の子として、降伏した者の屈辱と悲しみを目の当たりにして育った苦労人でもあった。「薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けがあれば」。そうつぶやく周囲の大人たちの苦悩の表情は、幼い松江の心に深く刻み込まれていた。

松江 豊寿(まつえ とよひさ、1872年7月11日(明治5年6月6日) - 1956年(昭和31年)5月21日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。第9代若松市長
「武士の情け、これを根幹として俘虜を取り扱いたい」
ドイツ兵捕虜を収容所に迎える前日、松江は部下にそう伝え、捕虜を犯罪者のように扱うことを固く禁じた。捕虜という存在の理不尽と悲しみを、真に理解する松江の収容所運営はこうして始まったのだった。

それまでの収容所で経験した劣悪な環境から、警戒心を持って板東俘虜収容所にやって来たドイツ兵たちに、松江はまずこう語り掛けた。「諸子は祖国を遠く離れた孤立無援の青島において、絶望的な状況の中にありながら、祖国愛に燃え最後まで勇戦敢闘した勇士であった。しかし刀折れ矢尽き果てて日本軍に降ったのである。だが、諸子の愛国の精神と勇気とは敵の軍門に降ってもいささかも損壊されることはない。依然、愛国の勇士である。それゆえをもって、私は諸子の立場に同情を禁じ得ないのである。願はくば自らの名誉を汚すことなかれ……」
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