しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

悲しき阿修羅像

2009年12月29日 | 廃仏毀釈・神仏分離


今年の春から秋にかけて東京と九州で開催された国宝阿修羅展は、それぞれ95万人、71万人という多数の入場者を集め大変な盛況だったそうだ。私も阿修羅像は大好きで、昨年の秋に正倉院展を見た後に、興福寺の国宝館の阿修羅像を鑑賞して帰った。

その時は興福寺の歴史を良く知らなかったのだが、興福寺は明治時代の初期に廃仏毀釈によって建物を壊されたり仏像仏具が消滅するなど甚大な被害を受けていることを後で知った。

今の奈良公園は廃仏毀釈以前はすべて興福寺の境内であったのだが、当時の奈良県知事が「往来の妨げになる」との理由で土塀を撤去させたらしい。そのために興福寺には今も門もなければ塀もない。正岡子規の俳句に「秋風や 囲いもなしに 興福寺」という作品があるそうだが、この経緯を知らなければこの句を理解することはできないだろう。

興福寺のホームページを見ると「古写真ギャラリー」があって、明治時代の19世紀後半に撮影された72枚の写真が公表されている。
http://www.kohfukuji.com/property/old_photo/index.html



その中に腕の欠けた仏像の写真がいくつも出てくるし、破損した仏像ばかりを並べた写真もある。そして最後には二本の腕がぽっきりと折れている阿修羅像の写真が残されている。

「五等 東金堂集合佛體」などという表題が書かれた写真は無着・世親立像とともに阿修羅像などが無造作に並べられている。よく見ると阿修羅像の腕が折れているようだ。



興福寺のホームページには、これらの写真の経緯については何も書かれていないのだが、いろいろネットで興福寺の明治以降の歴史を調べると驚くことばかりである。

明治4年に「寺領上知の令」により、明治政府が古来からあったお寺の領地を全て取り上げたために、古都奈良ばかりでなく全国の由緒ある寺院の多くが一気に経済的基盤を失ってしまい、寺は内部から崩壊して、生きるために仏像や寺宝を売却する者が出てくることになった。そのために、かなりの文化財が日本各地の寺院で失われることになった。

NHKの「その時歴史が動いた」~岡倉天心・廃仏毀釈からの復興~に比較的詳しくその頃の経緯が解説されており、当時の興福寺の状況を知ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=OauBe4jYhCQ

それによると興福寺の僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったらしい。

また、興福寺の五重塔をも明治政府は破壊しようとしたのだが、その費用がなかったので売却することとなり、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の厚い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたという話が、「神仏分離資料」に残っているそうだ。

阿修羅像の腕の欠損は廃仏毀釈が原因とも、享保二年(1717年)の火災が原因とも言われているが、火災時に破損したとすれば奈良で最も石高の高かった興福寺で160年以上も破損したままの仏像を放置していたことになる。

いずれにせよ腕の折れた阿修羅像は岡倉天心らにより修復されるのだが、現在の阿修羅像と修復前の画像とを比較すると手の位置が微妙に異なっている事に気づく。破損された画像をよく見れば、どうやら一番下の左手は合掌している手の位置ではなさそうである。右手で何かを持っていて左手で支えていたという説もあるようである。

ところで、明治時代の一定期間、誰も僧侶がいなかった興福寺の仏像は、一体誰が守ったのだろうか。一部の仏像は海外に流出しているがそれでも多くが残された。阿修羅像は腕が折れていたことが幸いして興福寺に残ることができたのだろうか。 
********************************************************

読んで頂いてありがとうございます。よろしければ、こちらをどれかクリックしていただくと大変励みになります。
     ↓ ↓         ↓ ↓       

      にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 
 コメント
 
だれの責任というものではないのかも知れませんが、
破壊行為によって時代刷新の機運が盛り上がるというのは、
寂しいですね。
文化財の海外流出を目論んだ情報操作が行なわれたということはないのでしょうか?
 
 
ならばさん、私がこのブログを書き始めたときに一番興味を持っていたのが廃仏毀釈でした。それまでは、日本人はずっと古い仏像を信仰して大事に守られてきたものとばかり思っていましたが、明治時代にわが国は歴史ある寺院の建物や仏像の多くを失いました。

奈良や京都もかなり被害がありましたが、多くの寺院があったので残った寺院も多かっただけです。しかし残された寺院も、収入を絶たれて大変な苦労があったはずです。
この時に明治維新の中心藩だった薩摩ではほとんどの寺院が破壊されています。

海外流出の情報操作のようなものはありませんでしたが、収入がなくなったために僧侶の生活のためにやむに已まれず売却された美術品はかなりあったはずです。

明治新政府は天皇を中心とした中央集権国家を作り国家神道を国の宗教と定めて、仏教は不要だと考えました。廃仏毀釈は明治政府が関与しているはずなのですが、いつの時代も勝者にとって都合いい事だけが残され、都合の悪いことは残されていません。