以前、四条大橋が明治初期の廃仏毀釈で強制的に取り壊されたお寺の鐘や仏具を溶かして橋材に使われたことについて書いた。
この時期にどれだけのお寺が取り壊されたかについては良く分からないが、京都でこれだけのお寺が無くなったのであれば、庶民の記録のようなものが何か出てこないのだろうかとネットでいろいろ探したことがある。
当時は神社と寺院が共存していたことをヒントに、有名な神社をいくつか調べていくと、「かみがもばなし」というサイトの中の「お寺の話」が見つかった。しばらく引用させて頂くことにする。
(以下引用)
『三百年も続いた江戸時代も、終わりを告げ時代も「明治」と改められた頃、新しい国づくりがはじまりました。
ここ上賀茂の地にも、新しい時代な波が押しよせてきました。そんなある日のこと、
「えらいこっちゃ、お寺がないようになったで。」 「賀茂川に行ってみ、つぶしたお寺の柱やら燃してるで。」
と、村中は大さわぎになっています。きのうまであったお寺は、次々とこわされているのです。
そのこわした木材を賀茂河原に出して火をつけて燃しているのです。その火は数日続いていたといわれています。
むかしから、この明治になるまで、寺と神社はいっしょにまつられていました。
ところが、この時代になってから、神社と寺は別々にまつるように、
神社にある、あるいはその神社の社領地にある寺は、認めないということです。これを「廃仏令」といいます。
明治をむかえるまでの時代には、このような寺の目的は、神社を守るためとか、神社へ奉仕をするためにあったそうです。
ですから現在のように、おそう式をする寺ではないのです。
上賀茂は、むかしは、上賀茂神社の社領地でありました。ですから、このような「おふれ」にしたがい、つぎつぎと消えてしまったのです。』 (引用終わり)
「かみがもばなし」は上賀茂の歴史研究家である初田耕治氏が上賀茂小学校の育友会広報誌に寄稿されたもので、「お寺のはなし」は初田氏が大田神社の藤木さんという方から聞かれたことをまとめられたものらしい。
そこには明治に入るまでは上賀茂神社に8つのお寺があったことが記されていて、そのお寺が廃仏毀釈で全て毀されるか移転されて全てなくなってしまったということなのだが、そういえば子供のころになぜ上賀茂神社や下鴨神社の近くにお寺がないのか不思議に思ったことがあった。ネットで調べていくと、下鴨神社も同様に神宮寺というお寺がこの時期に取り壊されたことが分かった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/kyo_kamosimosya.htm
以前紹介した石清水八幡宮もそうだが、八坂神社にも北野天満宮も多宝塔などの仏教施設があったのがこの時期になくなっているのだ。どれだけの仏像や絵画がこの時期に失われたか想像もつかない。
中学や高校の歴史で学んだ廃仏毀釈は明治維新の一事件という程度の表層的な理解であったが、詳しく調べれば調べるほど、想像の域を超える凄まじいものであったことがわかる。弾圧された側の仏教の立場からの記述や、庶民レベルの記述がほとんど見当たらないのだが、あれば読んでみたいものである。
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