しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

隠れ切支丹の里

2009年12月04日 | 大阪歴史散策

171号線の中河原交差点から忍頂寺福井線に入り、履正社茨木グラウンドから山道に入る。サニータウンを抜け大岩郵便局を過ぎると暫く樹木のトンネルのようなところを走る。そこを過ぎると、棚田が広がるのどかな田園風景になり、しばらく行くと「キリシタン遺物資料館」の案内標識がある。案内通り左折するとその資料館(茨木市大字千提寺262)がある。思ったよりも小さい資料館だった。


キリスト教がフランシスコザビエルによって天文18年(西暦1549年)に伝えられたことは、小学校や中学校や高校で習ったし、教科書や参考書にはザビエルの肖像画が必ず掲載されていた。神戸市立博物館で本物も見たことがあるが、今まで何度写真でみたかわからないあのザビエル像が、この茨木の山奥から出てきたことはここの展示物を見て初めて知った。


資料館のパンフレットによると、キリシタン大名として有名な高山右近は、永禄6年(1563年)11歳の時に洗礼を受け、その後天正元年(1573年)に高槻城主となり、在城の間三島地方(現在の摂津市・茨木市・高槻市・吹田市・島本町)はキリシタン宗の一大中心地となるのだが、天正15年(1587年)豊臣秀吉はキリシタン宗の布教と信仰を厳禁し、同様に徳川家康もキリシタン禁教令を発し、高山右近は慶長19年(1614年)に信者達とともにルソン島のマニラへ追放され、他の信者たちは死罪・流罪等の厳しい刑に処せられることになる。

そこで信者達は、表面上は仏教を信仰しているように見せかけ、山奥深く隠れるように信仰していたのだが、大正8年(1919年)に、キリシタン研究家の藤波大超氏によりキリシタン墓碑が発見され、その後、元信者宅の「あけずの櫃」などから相次いで絵画やキリスト像や銅版画、書物などが発見されたとのことである。資料館では、元信者の子孫に当たる方からの説明を受けることができる。

このような山奥であったからこそ細々と信仰が続いたことは理解できるが、なぜこれだけ急激に、また激しくキリスト教を禁じることになった経緯が長い間腑に落ちなかった。

3年ほど前にインターネットで、秀吉が何故禁教令に踏み切ったかがスッキリ分かる解説を見つけた。日本の教科書では西洋人に都合の悪いことは書かないことになっているのでしょうか。一度読めば、誰でも秀吉の英断に納得できるのではないでしょうか。

興味のある方は、是非このサイトをご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400

日本人が奴隷となって海外に売られた話は当時の宣教師の記録や伴天連追放令の11条などでも確認できます。

スペイン人がインディオを奴隷にして絶滅させたように、またポルトガル人がアフリカ原住民をその代わりの奴隷にしたように、当時の西洋では奴隷は普通の商品でした。西洋人が日本に来て、日本人を奴隷にしようという魂胆と日本を植民地化する野心を理解しなければ、秀吉や家康が何故禁教令を出し伴天連を国外追放にしたかが見えてきません。

多くの教科書では、異教徒を弾圧したくらいのことしか書かれていませんが、これでは歴史のリアリティを感じることができません。
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