しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1

2011年01月06日 | 大航海時代の西洋と日本

中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。
例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。

16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。

鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶応11年(1601)に書いた「鐡炮記(てっぽうき)」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。

その記録によると、
天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。
下の画像は種子島にある時尭の銅像である。

種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。
そこで、翌年来航した外国人から矢板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。
その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊(すぎのぼう)や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。

最初に種子島に漂着した船にいた「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した海賊の王直の号であり、王直は中国安徽省出身であったこともわかっているそうだ。王直はその後、鉄砲に不可欠な火薬の燃料である硝石を中国やタイから日本にもたらして、交易で巨利を得たという。

鉄砲の製造と使用は急速に広まり、1570年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は8000挺の銃を用いたといい、1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍は1,000挺ずつ三隊に分かれて、一斉射撃を行って武田の騎馬隊を打ち破ったことは有名な話である。

米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)という本にはこう書いてある。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」(p35)

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」(p38-39)

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」(p63)



「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」(p160-161)
「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」(p162)

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多かったのだ。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで書いてある。


鉄砲だけではない。刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験した人がいるそうだ。 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」(p41)

この本を読むと、日本が西洋の植民地にならなかった理由が見えてくる。
前々回の記事でこの当時日本に滞在したイエズス会の宣教師が日本を絶賛した記録が残っていることを書いたが、この本にも当時に日本に派遣された外国人が、日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。

「十六世紀後期に日本に滞在していた…宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろんルネッサンスの絶頂期にあった。前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチと同様の結論であった。…」(p45)
と、著者が根拠とした文献とその何ページにそのことが記載されているかについて詳細な注が付されている。
この本の巻末には、著者の注だけで24ページ、参考文献のリストに11ページも存在し、ノエル・ペリンだけが特異な意見を述べているのでないことがわかる。世界にはこの時期の日本の事が書かれた書物が色々あるようなのだが、参考文献のほとんどが邦訳されていないのが残念だ。

この本を読んでいくと、この時代において鉄砲でも刀でも文化でも日本に勝てなかった西洋諸国に、日本を征服できることは考えられなかったことが見えてきて、日本人なら少しは元気になれるというものだろう。

しかしこの本のような記述は、私が学生時代以降に学んできた歴史の印象と随分異なる。戦後日本の歴史教育は、日本の伝統技術や文化水準に正当な評価を与えているのであろうか。この本のように当時の日本のことを丁寧に調べた書物ですら、我が国であまり注目されていないのは随分おかしなことだと思う。

私は、戦後の長い間にわたって、自虐史観に合わない論文や書物が軽視され続けてきたという印象をもつのだが、ペリン氏がこの著書で参考文献に挙げた海外の書物が邦訳されるのはいつのことなのだろうか。
<つづく>
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BLOGariコメント

 しばやんさんご指摘のように、戦国ー織田ー豊臣ー徳川幕府時代の日本は間違いなく世界の軍事大国でした。

 日本同様の島国のフィリピンやインドネシアが欧米列強に侵略され、後にはアジアの超大国のインドや中国までが植民地化されていくなかで、日本は独立を守ることができたのも軍事力のおかげであったと思います。

 また土佐沖に難破したイスパニアの船員の会話から、報告を受けた豊臣秀吉は、「キリスト教は国民を骨抜きにし、植民地化するための道具である。」と鋭く見抜いて、キリスト教の布教を以後禁止しました。

 「鎖国」も秀吉の路線の延長上のことであり、それが可能であったのは、帆船の軍事力だけでは日本を侵略できなかった。また当時の日本の軍事力で海からの侵略に十分対抗できたからでしょう。

 「鉄砲を捨てた」のも、海外へ打って出て植民地経営を放棄したこと。徳川幕府の治世の安定化には、鉄砲の進化は必要なかったことが原因ではないでしょうか。

 戦闘部隊の武士階級は、江戸時代は「読書階級」になり、給与を貰えない、貰えても僅かな収入の下級武士は寺小屋を開いて、庶民の初等教育を担いました。

 儒学が江戸時代の主要な学問でしたが、朝鮮のように中国の模倣にとらわれず、実践的な解釈で現状を見る、行動する儒学者が結構多くいました。

 朝鮮では「読書階級」であったヤンバンという貴族階級が、儒学の枝葉末節にとらわれ、国難に十分に対処できなあkったので、秀吉の軍事侵攻を受けたり、20世紀には植民地化されたりしました。

 日本は鉄砲こそ放棄しましたが、現実をどう解釈し、いかに行動するのかという学問が盛んでした。吉田松陰に象徴される読書階級が明治維新の原動力になりました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-05fe.html(「吉田松陰」を読んで)

 幕末期に、吉田松陰や村田蔵六、その他実践的な学者や読書階級の行動的な集団がいくつも存在し、行動したのは「世界史的な奇跡」であると私は思います。
 
 1000字以内と言うことなので、続きの投稿です。

 しばやんさんご指摘の「自虐史観」でもなく、最近台頭している「自慢史観」でもなく、左右の稚拙なイデオロギーの呪縛から離れた歴史の解釈が必要であると思います。

 韓国の近代史は日本の植民地からはじまります。韓国の歴史教科書の記述の半分が豊臣秀吉の侵略と、植民地支配で占められています。(1990年に訪問した韓国の中学校で見せてもらいました。)

 中国も近代化はアヘン戦争からです。その後の欧米列強の侵略と植民地化、日本による侵略戦争の歴史と国共内戦に勝ち抜いて現代の中国はあります。

 現代の中国国歌は抗日戦争時の行進曲です。文化大革命時代には禁止されていました。

 1989年の民主化の動きを封じるには、日本を仮想敵国、歴史的な悪者にして青少年を教育してきたのが江沢民です。民主化をそらすための政治教育が中国の歴史教育なのでしょう。

 話が飛んでしまいましたが、結論は左翼の「自虐史観」でもなく、右翼の「自慢史観」でもない、歴史観を各人が持ち、韓国や中国の歪んだ歴史観を正していくことで、本当の近隣諸国との対話ができると思います。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。とても勉強になります。

ブログの吉田松陰の記事読ませていただきました。

地域を活性化させるためには「現世代だけでなく、現世代の子孫にわたって同じ”生きがい”と”死にがい”を感じることが必要だ」という言葉はいい言葉ですね。
昔の人は、その地域に「骨をうずめるつもり」で頑張ってきたのだと思います。そのがんばりが魅力のある地域文化と地元の繁栄をもたらしたのだと思います。

戦後の日本は経済合理主義的な経済政策が行き過ぎて、途中で地域社会との共生を忘れてしまったように思います。結果として地域の職場を奪い、地域の若い人材を首都圏に集めて、地域の老齢化させ疲弊を招きました。

地域の活性化のためには、その地域に「骨をうずめるつもり」の人がもっと出て来なければ始まりません。そのためには、地域の繁栄に貢献した人々の努力の歴史を知り、その地域を愛することから始まるのだと思いますが、そのことは国レベルでも同じことが言えると思います。いつの時代も、国民に健全な愛国心が育たなければ国を守れないし、地域の人々に愛郷精神がなければ地域が守れません。

このブログを始めて1年を過ぎましたが、次第に正しいことを知りたくなりました。
いわゆる「通史」と呼ばれるものは、多くの場合時の権力者によってかなり歪められ、戦勝国によって書き改められてきました。
けんちゃんさんのコメントの通り、私も「自虐史観」でも「自慢史観」でもない真の歴史を知りたいと思っています。自分の価値観や感性を信じて、自分が真実と納得できるものを少しずつ探し当てていきたいのですが、長い間正しいものと信じてきた通史の呪縛を解くのに、当面苦労しそうです。
 
 
「鉄砲を捨てた国」といえば、同時代に琉球王国がありました。しかし1615年頃に徳川家康の許可を得た、薩摩藩が軍事侵攻してきて、従属を余儀なくされました。

 最大の同盟国、宗主国の明は当時秀吉の侵攻で朝鮮を救援したことや、女真族の反乱などで衰退し、滅亡寸前。琉球を助ける余力はありませんでした。

 家光時代に明が滅亡。残党が台湾に逃れ、大陸反抗を企てていました。徳川幕府への救援支援があったそうです。

 幕府は慎重に協議しましたが、結局支援軍を出しませんでした。

 鎖国が先だったのか、支援要請が先だったのかはわかりません。

 当時の日本は海外からの侵略を跳ね返すだけの軍事力と組織があったということです。琉球王国や朝鮮国にはそれはありませんでした。

 鎖国で鉄砲を捨てても、学問や組織力はきちんと残したのではないでしょうか。
 
 
日本だけでなく、琉球も鉄砲を捨てたことは初めて知りました。秀吉の朝鮮出兵の影響で明が琉球を援ける余力がなかったというのも、台湾が徳川幕府に増援要請があったというのも初耳です。情報ありがとうございます。

どの国も自分の国は自分で守れるだけの軍事力が必要なことはいつの時代にも言えることだと思うのですが、軍縮が出来る国というのは軍事力を少々削っても、他国からの侵略を防げるだけの軍事力を保持できる国しかありえないのではないかと考えています。

日本は軍縮後も海外の情勢をよく知っていたことは御指摘の通りですね。

 



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