しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

2010年10月31日 | 坂本龍馬

以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。

そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。

明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。

この内容はたとえば木村幸比古著『龍馬暗殺の謎』などで紹介されている。次のURLで、その一部を読むことが出来る。




今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく。

「6畳の方には書生が3人いて、8畳の方には坂本と中岡が机を中へ挟んで座っておりました。中岡は、当時改名していて石川清之助といっておりました。けれども、私は初めての事であり、どちらが坂本だか少しもわかりません。他の3人も勿論知りませんので、早速機転をきかして、「ヤヤ、坂本さんお久しぶりです」 と挨拶しますと、入り口に座っていた方の人が、「どなたでしたかねえ」と答えたのです。
そこで、ソレと手早く抜いて斬りつけました。最初、その横ほおを抜き打ちざま真横に叩いて、体をすくめる拍子に横に左の腹を斬って、それから踏み込んで右からまた一つ腹を斬りました。
この二太刀で、流石の坂本もウンと言って倒れてしまいましたので、私はもう息絶えたと思いましたが、後から聞きますと、明日の朝まで生きていたそうです。
それから、中岡の方です。これは私どもも中岡とは知らず、坂本さえ知らなかったのですから無理はありません。坂本をやってから、手早く脳天を3つほど続けて叩きましたから、そのまま倒れてしまいました。お話すれば長いのですが、これは本当に電光石火で、一瞬にやったことなのです。」(引用終わり) 

かなり具体的に書いており、本人でなければわからないような生々しさがある。 しかしながら、龍馬暗殺を聞きつけて真っ先に現場に駆け付けた土佐出身の谷干城は、今井の証言を全く信用せず単なる売名行為だとまで語っている。

谷干城は明治39年(1906)11月に「近畿評論を駁す」と題する演説を行ったそうだが、谷干城の遺稿の中にその演説内容が書き込まれている。



以前はネットで全文が出ていたのだが、今はリンク切れになってしまっている。以前存在したサイトから、谷干城が暗殺現場で見た龍馬と中岡について述べているところを引用させていただく。

旧(http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000005.php )


「坂本は非常に大きな傷を負っており、額のところを5寸ほどやられているから、この一刀で倒されたのであろうが、後ろからもやられて背中に袈裟掛けに斬られていた。
坂本の傷はそういう次第で、中岡の傷はどういうものかというと、後ろから頭を斬られており、それから左右の手を斬られていた。そして、足を両方とも斬ら れ、腹ばいに倒れたところをまた2太刀斬られており、その後ろから腰を斬った太刀は、ほとんど骨に達する程深く斬られていた。
けれども、傷は脳に遠いものだったので、なかなか元気な石川(中岡の変名)でありますから、意識は確かであった。」

「一体どういう状況であったかと(中岡に)聞いてみると、…(中岡が)坂本を訪ねて談話していると、『十津川の者でござる。どうぞ御目にかかりたい』と何者かが訪ねてきた。
そこで取次の従僕(藤吉)が、手札を持って上がってきた。この時、中岡は手前にいて、坂本はちょうど床を後にして前に座っていた。2人は行燈に頭を出して、その受け取った手札を見ようとしたところへ、2階へ上がる従僕について来た賊が、突然「コナクソ」と斬り込んできた。その時手前にいたのが、中岡である。
実際の状況とこの人の話とでは、両人がいた位置も違い、机などを並べていたというけれども、そんな訳はなかった。2人が手札を見ようとするところへ斬り込み、中岡を先にやったのである。」

「この人(今井信郎)の話によると、まず坂本の横ほおを一つ叩いたとある。これは何か話にでも聞いたものかもしれないが、坂本は額を5本くらい斬られていた。それから、これは少々似ているが、横腹を斬り、また踏み込んで両腹を斬った。深い傷は、横に眉の上を斬られたもの、それから後ろから袈裟に斬られたものがあり、この 2つがまず致命傷だった。」

「傷の場所からいっても、この人の話と事実は、全く違うのである。それから、さらに疑うべきことは、お前ハ松代の人であるとか何とか言ったとあるが、そんなことで応接するどころの騒ぎではない。従僕の後について来て、突然コナクソと言って斬り込み、実に素早くやったのである。」

「今井が両人を斬ったというのは、大変な間違いである。また、あの時代は斬自慢をする様な世の中であったから、誰が誰を斬ったというのは実に当てにならないと思う。」(引用終わり) 

では、谷干城は暗殺の仕掛け人は誰と考えているかというと、「この事件は、私ら土佐の者らの推測では、元紀州の光明丸といろは丸が衝突した時に、坂本らが非常に激烈な談判をして、賠償金を取ったからそれを恨み、紀州人が新選組を使って実行したのであろう。」と、書いているのだ。

今井は実行犯として、谷は最初に現場に行きまだ生きていた中岡から一部始終を聞いた人物として語った内容が書かれているはずなのだが、なぜこんなに話が違うのか。
最初に龍馬を斬ったのか、中岡を斬ったのか。体のどこを斬ったのかということからして一致していない。「近畿評論」の記事のとおりに中岡慎太郎が脳天を三度も斬られたのなら、中岡が谷干城に事件の一部始終が語れることはなかっただろう。

いろいろ調べると、「近畿評論」の掲載記事を寄稿した結城礼一郎が、大正13年(1924)になって、この記事の一部は捏造したものであることを認めた『お前たちのおぢい様』という手記を書いている。次のURLに全文が出ている。
http://books.salterrae.net/amizako/html2/yuukiojiisama.txt

そこには
「…今井さんから伺った話をそのまま蔵って置くのは勿体ないと思ったから、少し経って甲斐新聞へ書いた。素より新聞の続き物として書いたのだから事実も多少修飾し、龍馬を斬った瞬間の光景なぞ大いに芝居がかりで大向ふをやんやと言はせるつもりで書いた。
処が之れが悪かった。後になって大変な事になって仕舞った。…本当に残念な事をした、と同時に又お父さんは、お父さんの軽々しき筆の綾から今井さんに飛んだ迷惑をかけた事を衷心から御詫びする。」と、正直に書かれているが、自分が記事を書いてから24年間も黙っていたのは卑怯なことだと私は思う。

とにかくこれで、龍馬暗殺の一部始終については「近畿評論」よりも谷干城の言っていることの方が信憑性がありそうだということははっきりしたが、次の疑問は『お前たちのおぢい様』で結城が書いているように、なぜ谷干城が「近畿評論」を読んでムキになって、今井信郎を「売名の徒」とまで罵ったのだろうか。

谷干城は事件当初から坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与したのは新撰組が実行犯、黒幕は紀州藩と考えていたようだ。
また翌慶応4年(1868)の戊辰戦争で捕えた元新撰組長の近藤勇の処遇をめぐり薩摩藩と対立し、谷の強い意向でその年に近藤勇は斬首され、その後に京都三条河原でさらし首にされたとされている。



近藤勇の斬首を強く主張したのは谷干城ではなく徳川家側という説もあるようだが、いずれにしろ、坂本龍馬暗殺を新撰組実行犯と考えていた谷にとっては、この事件に関しては近藤勇の斬首により心の整理がついて終わったものになっていたのに、それから32年もたって京都見廻組のなかから実行犯と名乗る人物が出てきたのを頭から認めたくなかったから、「近畿評論」の記事を読んでムキになったということか。

しかし、谷干城がなぜ新撰組実行犯と考えたかという部分についてはあまり論理的ではなく、ほとんど初めから犯人を決めつけているようにも読める。事件直後なら新撰組を疑うのもわかるが、新撰組には龍馬暗殺の時間帯は伊東甲子太郎を襲う密議の最中で、主要なメンバーにほぼ完璧なアリバイがあることが後日判明しているのだ。
薩摩と土佐は最後まで新撰組説を唱えたといわれるのだが、ひょっとすると、犯人を新撰組だということにしたかったのかも知れない。薩摩や土佐のメンバーの誰かが疑われることを入口から遮断しようとしたことは考えられないか。

谷干城は龍馬が暗殺された慶応3年(1867)の5月21日に、板垣退助とともに西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀と会い武力討幕を密約しているのだが、坂本龍馬の考え方は武力討幕ではなく、徳川慶喜を新政府の中に入れるという穏健なものであり、薩摩藩や谷の考え方とは異なる。武力討幕派にとっては、徳川慶喜が絶対拒否するとタカを括っていた大政奉還を承諾したので、その流れでは坂本龍馬のような穏健派に新政府のリーダーシップを握られてしまうことを懼れて、龍馬を排除しようと動いたのではないだろうか。

もし坂本龍馬の暗殺に薩摩藩が黒幕で関与していたという説が正しければ、彼らにとってはいろは丸事件にからめて紀州と新撰組を結びつけ、新撰組を龍馬暗殺の犯人に仕立て上げて処刑まで行えば将来にわたって陰謀が暴かれることはない考えたのではないか。

しかしながら薩摩関与説は、龍馬暗殺直後から噂され、その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」という記述があるそうだが、事件後1ヶ月も経っていないのに公文書で薩摩関与説の記録が残っているのはもっと注目して良いと思う。

ところで、谷干城が慶応3年(1867)5月の武力討幕の密約で会った大久保利通は、坂本龍馬とはあまり接点がなかったのか、性格的に合わなかったのか良くわからないが、大久保利通の日記には龍馬についての記録が全くないらしい。
その大久保が、龍馬・中岡が暗殺された翌日から4日連続で岩倉具視に手紙を書き、龍馬や中岡が死んだことや、下手人が新撰組らしいということを伝えているそうだが、これはちょっと不自然だ。



大久保利通は自らの目的のために、江藤新平、西郷隆盛などを葬り去った男だ。孝明天皇の死にも岩倉具視とともに関与していた疑いももたれているのは以前にも書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-159.html 

黒幕は、武力討幕派の中でも薩摩藩が一番臭うのだが、西郷は龍馬を評価し、龍馬との接点も多い人物で黒幕の中心にいたとは考えにくい。
龍馬と接点が少なくお互い評価もしていなかった大久保利通こそが龍馬暗殺の黒幕の中心ではないかと考える人もいる。動かぬ証拠があるわけではないが、この説は私にはかなりの説得力を感じている。
大久保が中心でないとしても龍馬暗殺の黒幕は少なくとも武力討幕派の中にいて、彼らのメンバーの多くが後の明治政府の中枢部にいた。だから、龍馬暗殺事件については徹底した原因追究がなされることがなかったし、できなかったのだと考えている。 
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BLOGariコメント

興味深く読ませて頂いています。竜馬がこの世から消えるこ
とによって恩恵をこうむるのは誰か?という観点からすると、
黒幕大久保説は有力な論考の一つだと思いました。
 
 
コメントありがとうございます。
龍馬暗殺の話は前回までの2回で終わらせたつもりだったのですが、いろいろ気になって調べているうちに、大久保説に辿り着きました。岩倉具視も中心メンバーの一人だったような気がします。
幕末から明治にかけての歴史を学生時代に学んだ時は、良くわからないまま通説を記憶しただけだったのですが、こんなブログを始めてから昔の当事者の証言や日記なども読んで、通説は異なる世界が見えるようになり、この頃の歴史が面白くなってきました。
 
 
 わたしも大久保利通が黒幕ではないかと思います。

 かつての同士の西郷隆盛を追い詰め、江藤新平を斬首した大久保ならありえることです。

 それに岩崎弥太郎と大久保利通は大変親しく、利害も一致していたようです。龍馬が邪魔だと考えてもおかしくはありません。

 先日「吉田松陰」(童門冬二・著)の伝記を読みました。

そのなかで吉田松陰は「高杉晋作と久坂玄瑞穂を高く評価していました。伊藤博文は「周旋活動が向いている」と評し、山県有朋は「棒のような人物」と評していました。

 龍馬をはじめ、活躍を期待されていた高杉や久坂も維新前に亡くなり、維新後の内ゲバで西郷も亡くなり、大久保も暗殺されました。

 残ったのは「棒のような」山県有朋であり、周旋屋が向いているといわれた伊藤博文でしたから。

 法外な賠償金を取られた紀州藩も龍馬を恨んでいたことでしょう。

 独創的な政権構想だっただけに、坂本龍馬は身近なところからも敵が多かったのではないかと思います。
 
 
意見が一致しましたね。大久保だけでないとは思いますが、武力討幕派はかなり怪しいと思います。

事件から30年以上経過してから事実を語る人物が出てくるようなケースは、関係者が生存し要職についており、真実を述べるとまずいことになるようなケースに限られると思います。

もし徳川幕府が新撰組や京都見廻組に命じて龍馬を斬ったのであれば、表の記録に残るはずです。まして龍馬は徳川慶喜を新政府に迎え入れる考えであったのですから、幕府が龍馬を狙う理由はありません。ありうるとすればいろは丸の遺恨で徳川御三家の紀州藩が裏から手を回すぐらいでしょう。

岩崎弥太郎と大久保利通との接点の事はあまりよく知りませんでした。最後は両人とも龍馬を消すことで利害が一致したのかもしれませんね。
 
 
 大久保の後ろ盾が会ったからこそ、三菱が急速に大きくなり発展したのです。それは弥太郎と大久保利通との癒着というほどの関係があったからです。

 西南戦争の政府兵糧や武器弾薬の運搬を三菱が請負、大きな利益を受けました。台湾出兵の時もです。

 その前に明治政府になる前に、確か、江戸時代の各藩の藩札を兌換するとかいう太政官布告があり、岩崎弥太郎は政府筋からその情報を事前に聞いており、大儲けしたとか。

 その情報提供者が大久保ではないかとわたしは思います。いわば国家レベルのインサイダー取引でした。

 明治以降それほど癒着関係になる岩崎弥太郎と、大久保利通。坂本龍馬の描く政権構想や経済社会構想が「合わない」ことは明白です。

 龍馬は暗殺される直前に福井藩を訪ね、経済政策についてのアドバイスを由利公正(三岡八郎)に受けていました。確か新政府が紙幣を発行し、混乱を静める方策やに思います。

 龍馬の構想が新政府で実現されたら自分たちの活路がない。大久保や岩崎がそう考えてもおかしくはない。

 それで最もリベラルな坂本龍馬を暗殺したと思います。

 大久保利通は開発独裁的に改革を断行していきました。独裁を実行するために、司法制度の確立を目指していた江藤新平を斬首し、西郷隆盛も亡き者にしました。

 桂小五郎は維新後はうつ病状態でぱっとしませんでした。

 西郷亡き後、板垣退助や後藤象二郎たちが自由民権運動を展開しましたが、しょせんは苦労知らずの上士出身者。岩崎弥太郎に買収されてしまいました。大久保の敵ではない。

 吉田松陰に「棒のような男」といわれた山県有朋と「周旋屋」といわれた伊藤博文で、明治政府が歪められたのもいたしかたないところでしょう。
 
 
Wikipediaなどでは岩崎弥太郎にインサイダー情報を流したのは、後藤象二郎だと書いていますが、こういう話はほとんど記録に残らないので本当は誰かは良くわかりません。大久保の可能性もあるでしょう。

この時代は幕府を倒すことまでは多くの志士たちが賛同していたのですが、幕府を倒してからどういう制度にし、国として何を目指すかは、志士の間でもかなり違っていたのでしょう。

大久保は明治6年頃からは暗殺されるまでの時代は、大久保利通が全権力を掌握したので、「大久保政権」とも呼ばれています。その間岩崎弥太郎はうまく権力者に取り入って大儲けしました。空気を読む才能はすごいですね。

しかし、明治の時代がそれほど悪い時代であったとも思えません。龍馬が生きていて、徳川慶喜が内大臣に座っていたとしたら、江戸時代とそれほど変わらないか、いずれまた内乱となったかもしれませんね。

領土を奪われそうになっても何も動かない今の政治よりもはるかにましだと思います。
 
 
しばやんさん、こんにちは!

龍馬暗殺に関しては、大久保黒幕説が一番妥当かもしれませんね。

だいたい、大久保の日記って、誰に見られても構わない様に自分の本心を書かないでいたという、史料として全く価値のないものとして有名で、自作自演で脚色だらけ、なんですよね。

江藤新平の件でも、日記だけ見れば、江藤の人間性ってこういう人物だったのか、とこちらがはき違える程、大久保は巧妙に書き記していますからね…
 
 
「大久保利通日記」は結構高価なのでとても買う気にならないのですが、史料として価値がないなら読んでも仕方がないですね。ネットで探してもなかなか原文が見つかりませんでした。
龍馬暗殺後の大久保利通の4日連続の岩倉具視への書簡は、ネットで探せば出てきます。例えば、
http://www.togyo.net/cgi-bin/togyo/ryoma/index.php?c=1-2

大久保が評価もしていなかったと思われる龍馬が死んだことを「実ニ以可慨可惜事ニ奉存候(マコトニモッテガイスベキオシムベキコトニタテマツリゾンジソウロウ)」と嘆き、犯人は新撰組だ、近藤勇だと言っているところがとても怪しく感じられます。

これも「自作自演の脚色だらけ」の文章の様な気がしますね。
 
 
大久保黒幕説には反対です。根拠は彼自身が暗殺されているからです。反対者を暗殺したのなら、自分が権力者になったとき暗殺を当然警戒するはずです。紀尾井坂での暗殺の時、防備は手薄でした。坂本龍馬の暗殺現場では京都の町屋の二階ですし示現流は相打ちになる可能性あり不向きです。やはり定説の京都見廻組が実行犯、指示者は松平容保もしくは幕府高官だと思います。佐々木只三郎は小太刀の名人とされていましたので至近距離から致命傷を与えられる実力者だと思います。
 
 
大久保が暗殺されたのは龍馬が暗殺されてから11年もたっていますし、加賀藩の島田一良らの大久保暗殺の理由は龍馬の暗殺とは全く関係なく、「大久保らの専制政治は民権を抑圧して国費を浪費し、政府官吏の私利私欲。さらに外交の失敗により国権の失墜を招いた」というものでした。

実行犯は定説の京都見廻組かもしれませんが、今井の証言や渡辺の遺書に矛盾が多すぎます。また暗殺を指示したのが松平容保だとすれば、京都の治安維持業務の中で倒幕勢力を討つということですから記録に残らないこと自体が不自然だし、龍馬と中岡を討ったことを隠す理由がなく、自ら名乗り出てもおかしくない話です。また明治政府が今井を釈放するのも不自然だし、下手人も指示者も幕府勢力であるならば明治政府が本気で捜査すれば事件が完全に解明できたはずなのにそれができなかった。

明治政府で解明が出来なかったことに焦点を当てると、別の結論の可能性がいろいろ出てくることになりますが、いずれにしても確たる証拠はありません。




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