しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

お龍は何故坂本家を飛び出したのか、お龍の言い分

2010年10月10日 | 坂本龍馬

前回は龍馬が亡くなってからのお龍の人生を辿ってみた。
お龍が坂本家からも海援隊メンバーからも嫌われていたことから、お龍の人生があのような淋しいものになったのはお龍の性格に問題があったのだとは思うが、お龍自身が坂本家についてどう語っているかも知りたくなった。

ネットで「わが夫坂本龍馬」(一坂太郎著:朝日選書)という本を取り寄せて読んでみた。
この本には、安岡秀峰が晩年のお龍から聴取した回顧談をまとめた「反魂香」や、その後川田瑞穂が聴取して著した「千里駒後日譚」という文章の一部を、読みやすいように一坂太郎氏の解説とともにまとめたものである。 

前回も書いたように、お龍は龍馬暗殺の後しばらくは三吉慎蔵らの世話になり、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。



上の画像は坂本権平だが、私が気になったのはなぜお龍が坂本家を飛び出したのか、坂本権平夫婦に問題はなかったのかという点だ。
お龍の不幸の始まりは、龍馬の死も大きいが坂本家を出て行ったところにもポイントがあるようにも思う。
普通の女性ならば、誰かに養ってもらうしか生きていけない時代だったのだから、少々のことは我慢するのが普通ではなかったか。
坂本家も、お龍が一人でどうやって生きていくのかと心配して、説得して引きとめるべきではなかったのか。 どちらも悪かったのかもしれないが、お龍の言い分はどうなのか。

坂本家を出た点について、お龍は次のように語っている。(「わが夫坂本龍馬」p168)

「ところが私は義兄(権平)および嫂との仲が悪いのです。

なぜかというと、龍馬の兄というのが、家はあまり富豊ではありませんから、内々龍馬へ下る褒賞金をあてにしていたのです。

が、龍馬には子はなし、金は無論私より他に下りませんから、私がいては、あてが外れると言って、殺すわけにもゆきませんから、ただ私の不身持*をするように仕向けていたのです。
*不身持(ふみもち)…異性関係にだらしのない様子

すでに、坂本は死んでしまうし、海援隊は瓦解する。私を養う者はさしずめ兄より他にありませんから、夫婦して苛めてやれば、きっと国を飛び出すに違いない、その時はおりょうは不身持ゆえ、龍馬に代わり兄が離縁すると言えば赤の他人。褒賞金はこの方の物という心で始終喧嘩ばかりしていたのです。

これが普通の女なら、苛められても恋々と国にいるのでしょうが、元来きかぬ気の私ですから、

『なんだ、金が欲しいばかりに、自分を夫婦して苛めやがる。私しゃあ金なぞはいらない。そんな水臭い兄の家に誰がいるものか。追い出されないうちに、こちらの方から追ん出てやろう』

という了見で、明治三年に家を飛び出して、京都東山へ家を借りました。」

と書かれてある。

またお龍は、龍馬の姉の乙女からは親切にしてもらったと言っている。次の画像が乙女の写真だ。 


「姉さんはお仁王という綽名(あだな)があって元気な人でしたが、私には親切にしてくれました。
私が土佐を出る時もいっしょに近所へ暇乞いに行ったり、船まで見送ってくれたのは、乙女姉さんでした。」

お龍はこう言っているが、お龍が坂本家を出た理由については、他にもいろいろな説がある。

一坂太郎氏は同上の著書の中で、
「また、権平は、おりょうを龍馬の「妾」として扱ったという話も伝わる」(p163)と解説しており、ちょっと気になってネットでいろいろ検索していくと

「しかし、そのお龍はその開放的な性格のために権平とそりが合わず、厄介視されたらしい。一説では、権平がお龍を「自分の妾」であると人に語ったので、お龍は居たたまれず、坂本家を去ったと伝えられている(「坂本竜馬の未亡人」-『報知新聞』明32・5・23付)。」

という新聞記事も見つかった。龍馬の「妾」として扱ったのか、権平が「自分の妾」と語ったのかはどうも話が違いすぎて違和感がある。

このようにいろんな説があるが、海援隊メンバーからもお龍の評判が悪かったことを考えると、お龍の回顧談についてもお龍の言葉をそのまま信用出来るものかどうかはわからない。お龍が自分自身を正当化するために、権平夫婦を悪しざまに言っているだけなのかも知れないし、龍馬あるいは権平の「妾」として扱ったという説も、もともとはお龍の口から出ているのではないだろうか。

坂本権平は龍馬の兄とは言っても、龍馬は五人兄弟の末っ子で龍馬とは年齢が21才も年上だ。
龍馬の母親は龍馬の11歳の時に亡くなったが、龍馬の父親の坂本八平が亡くなったは安政2年(1855)、龍馬が21歳の時だ。

それ以降坂本家の家督は長男の坂本権平が継いだのだが、龍馬にとっては権平は親の様な存在であったであろう。

坂本龍馬の全書簡を集めた「龍馬の手紙」(講談社)という本を見ると、あれだけ多く現存している龍馬が書いた手紙も、権平宛てに書いたものは少なく、慶応2年の12月4日付ので寺田屋騒動の事を詳しく伝えた手紙(権平および家族一同宛)、同じ日付で権平宛てに書いた坂本家に伝わる甲冑か宝刀を分けて欲しいと催促する手紙(権平宛)と、慶応3年6月24日付の坂本家伝来の宝刀を受け取った旨を書いた手紙(権平宛)と8月8日付の坂本家の二尺三寸の刀を所望する手紙(権平宛)、10月9日付の消息を伝える手紙(権平宛)くらいで、この中でお龍の事が少しでも書かれているのは家族に宛てた寺田屋騒動の手紙で、龍馬がお龍に助けられたことを少し書いているだけである。 

龍馬が家族に宛てて書いた手紙は大半が姉の乙女宛で、乙女宛の手紙にはお龍のことがしばしば書かれていて、お龍が姉の乙女と親しくなれるよう、龍馬がお龍を気遣っていることが読みとれる。
また龍馬の手紙の文体も、乙女宛の文章はかな交じりの読みやすい文章だが、権平宛てのものは最後の消息を伝える手紙以外はすべて「一筆啓上仕候。」からはじまる漢文調の固苦しいものばかりだ。
乙女とは仲が良かったが、権平とは気軽に何でも話せる関係でもなかったのではないか。

お龍にとってみても、権平は義兄といっても26才も年上で、自分の父親の楢崎将作は義兄の1歳年上に過ぎない。父親と変わらない年齢の義兄がお龍にとって気軽に付き合える存在ではなかったことは言えるだろう。

龍馬が最も心を許した友の一人である三吉慎蔵宛の手紙に、慶応三年5月8日付で、自分にもしもの事があれば、下関に居住するお龍について、

「愚妻儀本国(土佐)に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わされるべく候よう、万々御頼み申上げ候」

と、坂本家から迎えが来るまで、長府城下の三吉家で世話してほしいと頼んでいるが、坂本家にはお龍の行く末については何も書いてはいないようだ。

三吉慎蔵は龍馬との約束を守り、龍馬暗殺後しばらくお龍を引き取った。その際長府藩主はお龍に扶持米を与えたという話もある。

しかし龍馬が三吉慎蔵宛の手紙で約束したように国本の坂本家からお龍を迎えに来たということはなかったと思われ、慎蔵がお龍を龍馬の土佐の実家にまで送り届けたのではないかと考えられている。

龍馬は国事で奔走し大きな仕事を成し遂げたが、お龍に対する坂本家の対応やお龍の行く末までは考えが及ばなかったようである。
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BLOGariコメント

坂本龍馬が「時代を超えていた」ように、伴侶のお龍も同様に「飛んでいた」女性であったことでしょう。

 龍馬が暗殺されたのは、143年も前のことです。2人は「飛んでいても」まわりの人間たちは一緒に飛んではいません。

 龍馬は「暗殺される予定」とみじんも思っていなかったはずです。政治的な中心に新政府が出来ても身をおくつもりは泣く、「世界の海援隊」としてビジネスで身を立てたいと本気で思っていた筈です。

 薩長連合と大政奉還を成し遂げ、新政府案の構想も提起したので、自分は「政界」からは引退した気分になっていたのでしょう。でも旧体制は龍馬を許してはくれませんでした。

 しばやんさんが言われるように、兄夫婦は「龍馬の見舞い年金」を新政府に期待していたのかもしれません。竜馬はっ靖国神社に祀られるぐらいですから。

 お龍は寺田屋に復帰できなかったのでしょうか?

 2人の間に子供でも出来ていれば、また流れは変わったと思います。それが残念でした。
 
 
お龍は「千里駒後日譚」の中で、龍馬が「一戦争済めば山中へ這入って、安楽に暮らすつもり、役人になるのは、おれは否じゃ…」とお龍に語ったと書かれています。

新官制擬定書に龍馬の名前がないことを西郷から指摘されて、龍馬は「世界の海援隊でもやらんかな」と応えたとされています。

本人は政治的野心があったわけではなかったのですが、周りが許してくれなかったのはその通りですね。

お龍は、その後明治7年に料亭の仲居として働いた時期もありましたが、翌年西村松兵衛と結婚します。
松兵衛との生活は初めの頃は母・貞を引き取り、妹・光枝の子・松之助を養子として、それなりに幸せだったと思います。

お龍はその後明治24年(1891年)に母・貞と養子・松之助を相次いで亡くし、荒んだ生活になっていったのはそれ以降だと思います。

寺田屋のお登勢は明治10年(1877年)に亡くなっており、もう相談できる相手はいなくなっていました。

確かに、龍馬との間に子供がいれば、坂本家の対応も全然異なっていたでしょうし、彼女の生きがいになっていたと思います。
 
 
お龍については、よくない話も多く、当時の常識からは外れた女性であったことは確かでしょうね。
そんな辺りも、土佐という田舎ではあだたぬ存在として、厄介者扱いされたということもあったのではないかと思います。
 
 
土佐藩の佐々木高行がお龍のことを日記に、
「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。
善悪ともに兼ぬるように思われたり」
と書いています。

美人で、若い時には自分が何も努力しなくてもチヤホヤされた女性が、次第に輝きを失って周りから受け容れられなくなることは今でも良くある話ですが、お龍もそのような人ではなかったかと考えています。
土佐の言葉も壁になったかもしれませんが、周りの人から慕われる努力はいつの時代も必要なのだと思います。

桃源児さんのブログ見ました。彦根城は三年前に行きましたが、素晴らしかったです。英語でブログを書かれるのには感心しました。 




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