しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

坂本龍馬の妻・お龍のその後の生き方

2010年10月04日 | 坂本龍馬

高知市の坂本龍馬記念館に、妻・お龍の若い頃の写真と晩年の写真が拡大されて展示されていた。この写真はネットでも容易に見つけることが出来る。



この若い頃の写真は、龍馬の京都での定宿で暗殺現場ともなった「近江屋」の主人(井口新助)のご子孫の家で、昭和54年に見つかった写真を複写したものだそうだ。
ちょっと痩せているが、今でも充分「美人」で通用する女性と思われる。

この写真は、傍らの洋風の椅子、背後の壁などから、明治元年から八年の間に浅草の写真家・内田九一のスタジオで撮影されたものだそうだ。内田九一という人物は幕末から明治にかけての写真家で、史上初の天皇の公式写真を撮ったとして有名な人物だ。



上の画像は内田九一が撮った明治天皇の写真だが、この写真は皆さんもどこかで見たことがあるのではないだろうか。

お龍のもう一枚の写真は、白髪混じりの晩年のものだ。
上の写真は、明治37年(1904)の12月に東京二六新聞に掲載されたものである。



お龍は明治39年(1906)の1月15日に66歳で亡くなっているのだが、この写真はその1年1か月前のものだ。

晩年の写真は本人のものに間違いがないのだが、若い頃の写真は別人のものだとする説もあり、平成20年(2008)に高知県坂本龍馬記念館が警察庁科学捜査研究所に依頼をした。その結果「同一人物の可能性がある」との結論が出され、その旨の記者発表がなされているが、この件についてはWikipediaに詳しく書かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D

しかし、警察庁科学捜査研究所は同一人物との断定をしたわけではない。ただ可能性があることを示唆したに過ぎない。
当時は写真を撮影料金は安価ではなかったので、お龍がこのような場所で写真を撮るようなことは考えられないとか、別の女性であると主張する説も根強くあるようだが、お龍の養女であった西村ふさも同じ写真を所有していたらしいという話もあり、この写真がお龍を写したものであるというのが多数説になっている。

晩年のお龍の写真を今の老人と同様に比較してはいけないのかもしれないが、この写真は65歳にしては晩年のお龍の写真はかなり老けた顔に見える。夫の龍馬が暗殺された後、お龍はどのような人生を送ったのかをちょっと調べてみた。

お龍の生涯についてはネットでいろんな人が書いているが、次のWikipediaの記事は内容も詳しく参考文献の紹介もある。龍馬死後のお龍について、他の記事も参考にしながらまとめてみよう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A2%E5%B4%8E%E9%BE%8D 

坂本龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは慶応3年(1867)11月15日だが、その時お龍は亀山社中の活動拠点のあった下関におり、龍馬が亡くなった知らせがお龍に届いたのは12月2日とのことで、お龍はしばらく気丈に振る舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供えて号泣したと言われている。

その後お龍は、龍馬と親交のあった三吉慎蔵らの世話になっていたが、明治元年(1868)3月には土佐の坂本龍馬の実家に迎えられるも、義兄の権平夫婦とそりが合わず3ヶ月ほどで立ち去っている。

その後海援隊の菅野覚兵衛と結婚した妹・起美を頼るも、覚兵衛の米国留学が決まったために明治2年(1869)に土佐を離れ、その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直は、訪ねてきたお龍を冷たく追い返したそうだ。

元海援隊士の間ではお龍の評判は悪かったらしく、田中光顕(元陸援隊士で宮内大臣まで出世)の回顧談によると、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際に、妹婿の菅野覚兵衛までが、「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒は見られない」と拒否したらしい。
お龍は後年、腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語ったそうだ。

明治7年(1874)に旅館の仲居として働いた後、明治8年(1875)に西村松兵衛と再婚して西村ツルとなり、母の貞を引き取り妹の子・松之助を養子として横須賀で生活を始めるのだが、明治24年に母と松之助を相次いで亡くしている。

その後、坂本龍馬の活躍を書いた坂崎紫瀾の『汗血千里駒』がベストセラーになったこともあり、お龍にも取材が来るようになるのだが、明治30年に安岡秀峰という作家が訪ねた時には、お龍は横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしていたそうである。

晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と夫の松兵衛に絡んでいたという。

その後、妹・光枝が夫に先立たれてお龍を頼るようになり3人で暮らし始めるが、やがて夫の松兵衛と妹・光枝が内縁関係となり、二人でお龍の元を離れて別居してしまう。

お龍は明治39年1月に横須賀の棟割長屋で亡くなった。死因は脳卒中だったらしい。

お墓は横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)にあるが、長く墓碑が建てられず、田中光顕らの援助を受けて、お龍の死の8年後の大正3年(1914)に、妹の中沢光枝が施主、西村松兵衛らが賛助人となり、お龍の墓を建立したという。


画像でもわかるとおり大きなお墓だが、この墓碑に使われた石は海軍工廠が寄付したドック建設用のものだそうである。

墓碑には夫の西村松兵衛の姓ではなく「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれているのが確認できるが、何故施主が夫ではなく妹なのか。何故8年もたってから墓が建つのか。 結局、夫の西村家の墓にも、龍馬の坂本家の墓にも迎えられず、維新の元勲が資金を出して妹に墓標を作らせたと考えればよいのだろうか。

龍馬を失ってからのお龍の人生は、「自分が龍馬の妻である」ということを支えにして生きようとしたのかもしれないが、そのことが彼女の人生を非常に淋しいものにしたと思われる。
本人自身が周りの人から愛される努力をしなければ、本当の幸せを掴むことはできないのは、いつの時代も同じだと思う。 
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BLOGariコメント

龍馬とお龍の関係は、今風で言えば「事実婚」のようなものではなかったでしょうか。

 姉の乙女にはひんぱんに手紙を龍馬は書いているようですが、家長の兄に対しては何もしていなかったと聞いています。

 いわば「愛人関係」であり、龍馬の妻と言う位置ではなかったようです。そういう関係を龍馬もお龍ものぞんでいなかったかもしれません。

 お龍の性格やキャラクターも影響していたのかもしれません。プライドが高かったようですし、海援隊の仲間たちにもあまり好かれていたようにないし。

 その点長州の桂小五郎や伊藤博文などは、稽古出身の女性を妻にしているようですし。この違いはなんでしょうか。

 龍馬が思いも早く、予定外にこの世を去ったため、取り残されたお龍は気の毒であったとしか言いようはありません。
 
 
けんちゃんさん、コメントありがとうございます。

龍馬は慶応3年5月8日に三吉慎蔵に宛てて、自分にもしもの事があれば「愚妻本国に送り返し申すべく、然れば国本より家僕および老婆壱人、御家まで参上つかまつり候。その間、愚妻おして尊家(三吉家)に御養い遣わさるべく候よう、万々御頼み申上げ候」との手紙を書いています。
土佐の坂本家から迎えが来るまで、下関の三吉家で世話してほしいということですが、お龍の事を「愚妻」と言い、夫婦の認識は龍馬には間違いなくあったと思います。

お龍が坂本家と上手くいかなかった理由は、龍馬の兄の権平にあったとお龍は語っているようですが、権平はお龍を龍馬の妾として扱ったという話もあるようです。

龍馬とお龍は恋愛結婚であり、田舎の古い因習による正式な結婚の儀式をしたわけでもなく、そのために権平の古い常識を変えることが難しかったのかもしれません。
もう少し我慢して坂本家に留まる努力をすれば、もっと幸せな人生になっていたことと思います。
 
 
若い頃のお龍さんと言われている女性の写真は、お龍さんじゃないです。
後に子爵土井家の妾になった新橋芸者の写真です。
これ以上世の中に間違った情報をまき散らさないでください。
 
 
コメントありがとうございます。

文章をよく読んで頂きたいのですが、異説があることを明記していますし、この写真をお龍のものとして広める意図は最初から毛頭ありません。

新橋芸者説(お政)もありますがあの写真を似ているという人もいるでしょうが、似ていないという人も多いでしょう。誰もが似ていると思うような写真であれば、すぐに多数説がひっくり返っていてもおかしくありませんが、そうなりませんでした。
http://www.gouann.org/new_box/tokyo_suisyo/tokyo_suisyo.html

新聞の記事にもなったにもかかわらずこの説が拡がらなかったのはそれなりの理由があるのでしょう。少なくとも、近江屋の主人(井口新助)のご子孫の家になぜ新橋の芸者の写真があったのかを、読者が納得できるように説明する必要があると思いますが、いくら説明しても新橋芸者説も一仮説に過ぎません。


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