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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (8)

2018年10月15日 | 研究余話
承前

 セガンは、人々に交じって、革命演説に耳を傾け、そして行動に立ち上がった。ドミトリーでの馬鹿騒ぎをパリの街路に持ち出したのだろう。彼の手には、軍隊と闘うにふさわしい武器が携えられていたのであった。後年、セガンは、ソルボンヌ広場でのサン=シモン教徒による伝道集会に参加することになる。
 ただ、セガンは、この辺りの事情、出来事は一言も自著に綴っていない。しかし、1830年革命でルイ・フィリップ立憲王誕生に功績のあった者の褒章授与の勅令集および被授与者名簿に、功労賞受賞者の一人として、オネジム=エデュワール・セガンの名を見出すのである。授与式典は1831年5月13日、パレ・ロワイヤルで行われた。先に示した年譜にあるように、この時セガンは、すでに、パリ法学部に学籍を置いている。1830年11月のこと。特級コレージュ・サン=ルイ特別進学クラスの課程修了をすることもなく、超エリートへの階段を下りたのである。これは、間違いなく、7月革命への参加が直接の引き金となったのであった。
 父親ジャック=オネジム・セガンと同じ職業世界(医学界)に生きる意志をまったく示さない法学部、そして、この時以降に公刊したセガンの各種論文・著書の著者名、またセガン自身が起草する公的請願書等に、「オネジム(Onesime)」の名を欠落させてもいる。それは、父親と息子とをつなぐファーストネームの一部である。
 こうして、若鳥は、親の育み(羽包み)から飛び立った。セガンの少年期は、ここで終止符を打つ。それにしても、なぜ「法学部」に進路を定めたのか。あるセガン研究開拓者は「セガンが人権に目覚めたからだ」と私に断言したが、それは虚妄による虚言としか評しえない。この時代の「法学部」は、ナポレオンI世の実学主義教育改革の目玉の一つであり、人権という思想哲学とは無縁の法律処理術修得の場として、古典法学主義の場「法学校」を改組して創設されたものである。課程修了しても、せいぜい法廷弁護士か地方自治体の中間役人の職、あるいは新興産業 のサラリーマンぐらいしかその進路はなかった。セガンの後年の白痴教育とかかわらせて「人権に目覚めた」というのは、あまりにも早計な断言だろう。
 やはり、なぜ「法学部」なのかの解は見出すことはできない。なお、セガンは学籍簿上で理解できることは、法学部を修了していない。にもかかわらず、 1841 年の妹の結婚にあたっての立会人宣誓署名に「弁護士」との肩書をつけている。明らかに 虚偽なのだ。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (7)

2018年10月14日 | 研究余話
「第二の誕生」―エリート路線からの離脱と新しい自分像の創生

 その時代の中でどう生きようとしていたか。これが本講演の根元を流れる問題意識である。とくに、幼年期のとらえ方から派生していく思春期・青年期の、現代的に言う「自我形成期」の理解を、史的展開を通して求めたい、ということ。たまさか、フランス社会は、18世紀末から19世紀後半期まで、政体で言えば、王政、共和政、帝政、ふたたび王政、ふたたび帝政、王政と共和政のドッキング政体(立憲王政)、そして、みたび共和政へと、疾風怒濤のごとく変転を繰り返している。もちろんその背景には、それらを支える経済的文化的変化があり、またイデオロギーや運動がある。当然のことながら反発するイデオロギーや運動が展開され、その周辺に多様なイデオロギーや運動がうごめき、消えては誕生するという激動がある。それらはたんに政治家や運動家・思想家の間だけで活発さを見せていたのではない。次第に都市職人層(親方衆)の間にも広がりを見せ、やがて下級職人集団へ、さらには新興労働者たちにも影響を及ぼし始める。若き学徒はさらに敏感であった。セガンが生まれ育ち、半生を送ったフランスは、まさに疾風怒濤社会。決して「人権宣言の国フランス」一色で塗られるようなものではない。
 オネジム=エデュアール・セガンは、第1帝政期にこの世に生を受け、復古王政期に青年期の大方を過ごし、立憲王政を樹立せしめた1830年7月革命に主体的に参加し、立憲王から褒章(功労賞)を授けられている。7月革命参加時のとっかかりは、コレージュのドミトリーで繰り広げた「馬鹿騒ぎ」的情熱から生まれる一揆主義的な感情と行動であったのかとも考えられる。王立特級コレージュ・サン=ルイ校の学窓から眺める社会の動乱の様子が、あるいはドミトリー(共同寝室)の仲間たちとの語らいや「遊び」が、青年期入口にあるセガンの血をたぎらせたのだろうか。
 時あたかも1830年7月下旬。絶対王政権力の数々の施策は、保守層のかなりの部分にまで、不満感情を募らせ、改革要求が高まりの頂点に達していた。ついに、政治変革の欲求を強く抱いた民衆たちが武器を持って立ち上がった。パリの主要な道路にはバリケードが築かれ、民衆と軍隊とが激しくぶつかり合った。
 セガンが在学する特級コレージュ・サン=ルイの目の前をド・ㇻ・アルプ通り(現サン=ミッシェル大通り)が走る。大通りを挟んだ向かい側は、常に人々が集い、演説会が開かれ、民衆教育場となっていたソルボンヌ広場がある。当然、ここで、革命演説が盛んになされ、人々は啓蒙され、武器を取って大通りに出る。演説者の多くはエコール・ポリテクニックの学生や教師、聴衆には多くのコレージュ生が。
 フランスにおける各時代の革命運動のイデオローグは若きエリートやその予備軍が担っていた。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (6)

2018年10月11日 | 研究余話
(承前)

 「無骨でさまざまな形の遮断物や防御物」と、セガンが形容するその具体は、次のようであった。
 「精神病院の窓よりもサンがしっかりとはめ込まれている」、「監獄の窓より小さい」、「鉄格子で息きを固く閉ざしているドア」、「2つの部屋と100以上のベッドに対して1つの灯りだけ」
このような障害物や防御物が設置されている理由を問うと、次のような回答がある。
「生徒たちは怪我や死の危険を冒してまで悪さをしようとして抜け出そうとする」、「もし生徒たちの手がドアの上のニッチの灯に届くことがあったら火を消してしまう」
具体的に生徒たちの様子はどうなのか。
「子どもたちの感覚が優れており彼らがその感覚に従うならば、武骨で様々な形の遮断物や防御物こそが子どもたちを、制約するすべてのシステムの突破へと誘う」と、セガンは、寄宿舎内での生徒たちが健全なる発達をしていれば、いわば「馬鹿騒ぎ」を起こすのが必然である、と綴っている。親や教師の意図するところとは違って、生徒たちは、障害物が目立てば目立つほど刺激となって「違反行為」を起こす、というわけだ。ニッチの灯が消された暗闇での「馬鹿騒ぎ」は、やがて、「火の付いたような騒ぎになる」。
「監獄」と称されるコレージュは、生徒たち自身の演じる「抑圧、閉塞からの解放要求エネルギー」を誘い出していたわけである。そのことが日常の生徒たちの言動に「健全さ」を導いていた。セガンは言う、「長期の休暇の間、これらのまさに猿たちがその母、姉妹、知人たちに非常に都会的なところを見せていた」、と。この時代のフランス社会は、ドミトリーの示す諸相のようなアメ(馬鹿騒ぎの許容)とムチ(様々な障害物の設置)による教育システムが張り巡らされていた、と言えよう。その結果が作る人間像こそ、社会に忠誠を誓う姿なのである。


講演草稿 閑話休題

2018年10月10日 | 研究余話
 人と自分とは違う。この当たり前の観念を前提にしながら、この人はなぜこの道を選んだのだろうと、しばしば考える。このことは研究対象に関しても同じだ。

 セガン研究で学会賞を受賞されているさるお方が、次のような言葉を口にされたことは、忘れられないし、今もなお私の観念を縛っている。

 「それはセガンが人権に目覚めたからです。」

 研究的にいえば意外性のある「パリの法学部」(パリの旧法学校)に在籍していた、という情報を得た時のことだ。不埒な奴だ、とお叱りをいただくかもしれないが、その時、私と重ね合わせて、セガンの進路選択を初めて考えた。
 私が進んだ大学は東京教育大学、学部学科は教育学部教育学科。上記の「さるお方」風に評されることがあるとすれば「それは、川口が、教育(学)に目覚めたからです!」となるのだろう。事実は全く異なる。
 国立で、ある程度評判が良くて(新制大学の類ではなくて)、自身の学校学力に可能で、というのが選択するときの思考の枕にあった。その結果が東京教育大学教育学部教育学科だった。合格する自信はなかったから、目いっぱい背伸びした選択だったのだろう。二期校や私学へも願書を出したが、最も得意とする教科「数学」にかかわる学部・学科を選んでいる。間違いなく「教育学に目覚めた」などというのはみじんもない。

 つまり、セガンさんも、不肖川口のような迷いの選択進路で無かったとは言い切れないんじゃないか?そんな青年期であったのかもしれない‥‥
 上記のさるお方は、こうした私の思いを一顧だになさらなかった。「セガンなんですから。」 セガンには人生に迷いや戸惑いはなかったのかなあ、青年期的な迷いはなかったのかなあ‥‥。「セガンのことを悪く言う人を私は許しません!」という「お言葉」で返されたままである。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (5)

2018年10月09日 | 研究余話
承前

 片田舎の秀才少年が名にしおう特級コレージュ・サン=ルイに進んだ。フランス社会を背負って立つエリート候補生への道を歩み始めた、という意味もあるが、同校は、生徒たちにとって、現代もなお冠されている「監獄」に収監されたということにもなる。この時代の教育風潮は 「厳しい監視・管理と体罰で愛を教える」という言葉が当たり前のように使われている。セガンが後年に著した著書(1846年著書)の中で、「コレージュは親の代からの教育をそのまま引き継いでいる」と批判しているが、「監視・管理と体罰で愛を教える」思潮と実際は根深かった、ということができよう。授業では一斉教授、暗記、復唱がなされている。そのほか、宗教行事や軍事教練も重要な教育内容であり方法であった。
 これらは、オーセールで学んだコレージュとは異質であり、強迫的に思われただろうか。そうではあるまい。「フランスのコレージュ全体に見られる傾向だ」と、アメリカにわたって著した書の中で綴っている。ただ、学校規模の大小や生徒たちの「質」の違いが与える心象は異なるものであったかもしれない。これまでのセガンの学習経験を語る所論に共通しているのは、「非常に申し分のない教育を受けた」(セガン告別式における友人ロケット博士による弔辞)である。学歴的評価であるが、実質的評価であるとは、到底思えない。
 ところで、コレージュがコレージュであるゆえんは、それが「寄宿学校」である、というところにある。教室で、礼拝堂で、訓練場で、管理・体罰を旨とする教育を受けるばかりか、生徒たちは、それぞれが所属する寄宿舎においても、同様の教育を受けた。寄宿舎の教師は「補習教師」と呼ばれたが、個別教授よりもむしろ一斉授業が行われている。管理人や教師による直接的管理、教授・訓練から解放されるのは、大人数の生徒を一堂に集めるベッドルーム、ドミトリーのみであったと言ってもよいのかもしれない。サン=ルイ校のドミトリーがどのようであったのかを知る手立ては得られていないが、同じ特級コレージュのアンリーIV校のドミトリーの様子を、セガンは描いている。ほぼ同様のベッドルーム経験をした、と考えられる。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (4)

2018年10月08日 | 研究余話
自己内外の疾風怒濤期―特級コレージュ在学中のこと その1
 その時代の中でどう生きようとしていたか。これが本講演の根元を流れる問題意識である。とくに、幼年期のとらえ方から派生していく思春期・青年期の、現代的に言う「自我形成期」の理解を、史的展開を通して求めたい、ということ。たまさか、フランス社会は、18世紀末から19世紀後半期まで、政体で言えば、王政、共和政、帝政、ふたたび王政、ふたたび帝政、王政と共和政のドッキング政体(立憲王政)、そして、みたび共和政へと、疾風怒濤のごとく変転を繰り返している。もちろんその背景には、それらを支える経済的文化的変化があり、またイデオロギーや運動がある。当然のことながら反発するイデオロギーや運動が展開され、その周辺に多様なイデオロギーや運動がうごめき、消えては誕生するという激動がある。それらはたんに政治家や運動家・思想家の間だけで活発さを見せていたのではない。次第に都市職人層(親方衆)の間にも広がりを見せ、やがて下級職人集団へ、さらには新興労働者たちにも影響を及ぼし始める。若き学徒はさらに敏感であった。セガンが生まれ育ち、生涯を閉じたフランスは、まさに疾風怒濤社会。決して「人権宣言の国フランス」一色で塗られるようなものではない。
 オネジム=エデュアール・セガンは、第一帝政期にこの世に生を受け、復古王政期に青年期の大方を過ごし、立憲王政を樹立せしめた1830年7月革命に主体的に参加し、立憲王から褒章(功労賞)を授けられている。7月革命参加時のセガンの政治選択に「立憲主義」が含まれていたのだろうと推測できるが、青年期的情熱から生まれる一揆主義的な感情と行動であったのかもしれない。王立特級コレージュ・サン=ルイ校の学窓から眺める社会の動乱の様子が、青年期にあるセガンの血をたぎらせたのだろうか。そうだとして、それを生み出させた源な何だったのだろうか。
 セガンの少年期の学びの機会は、セガン研究の巷間で語られているような、両親による自由で進歩的で愛情豊かな「身体的な」ものであったとは考えられない。乳母、里親、家庭教師という、上流社会に伝統的な子育て環境の中で育ったセガンは、地域エリート・財閥などの上流階級の子弟がしたように、軍隊的寄宿生活の学習環境の中で、ラテン語・ギリシャ語・キリスト教学を主軸にして学んでいる。父親による人生航路選択だったのだろう。
 続いて、セガンはパリに出る。パリにしかない王立特級コレージュ5校のうちの、サン=ルイ校を選んだのは、セガンが数学の学力が高かったからだろうか。同校は、グランゼコールの中でもトップに数えられる王立理工科学校(エコール・ポリテクニック)の予科とみなされ、超トップクラスのエリート候補者養成をもっぱらとしていた。事実セガンは、数学特別選抜クラス第4次席という優れた成績を残している(1829年)。同校への進学も、父親の希望に沿ったものだったと推測される。
 セガンは、総じて、「とても優秀で、いいところの品行方正なお坊ちゃま」として、少年期を送って青年期を迎えていたのだろう。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (3)

2018年10月07日 | 研究余話
承前

1834年 精神医学者フェリックス・ヴォアザン、女子不治者救済院に「白痴学校」を創設。
1835年 秘密結社・家族協会の活動に参加し、検挙されたか?(23歳)
1836年 サン=シモン主義系のいくつかのジャーナリズムに執筆か?『ラ・プレス』紙8月9月に「芸術評論」を執筆。単行本化の準備を進めていた。(24歳) 「死ぬほどの病気」に罹病したと回想しているのは、この年のことか。当時おびただしい死者を出したインフルエンザ渦に巻き込まれたと思われる。
1837年 イタールの指導の下で、唖で痴愚、8歳の男児の教育に取り組み始める。(25歳)この男児への教育の成果は、翌年、「H氏へ 私が14か月前から取り組んできたこと」というパンフレットで公表された。セガンの白痴教育の成果がヨーロッパ・アメリカに知られるところとなり、評判を呼んだ。
1838年 イタールの死によって、セガンの白痴教育の後見人がエスキロルに移る。「実践過程を聞いてくれたが具体的な指導はなかった」とエスキロルとの関係を評している。(26歳)この年、エスキロルを中心として「精神病者保護法(予防拘禁法)」が制定される。
1839年 医学博士ヴォアザンが、ビセートル救済院内に「白痴学校」を創設。
1840年 パリ・ピガール通りの共同住宅内に公教育大臣認可の教育施設を創設。生徒3名。妨害(虚偽風聞)が強くなされ、セガンは訴訟。勝訴のようだが、はっきりとした結末の記録はない。(28歳)
1841年 パリ救済院総評議会は、男子救済院と女子救済院の「白痴の教師」として、セガンを雇用。セガンは男子不治者救済院のみで教育実践を行った。生徒数11名。実際の就労は翌年から延べ2年間。セガンのフランス時代の実践の実相が最もはっきりと記録されているところである。(29歳)
1843年 ビセートル救済院の「白痴の教師」に転じる。同年12月20日、救済院総評議会によって罷免された。(31歳)
1848年 2月革命。短命な第二共和政の夜明け。セガンは果敢な共和主義者として活動。中でも「労働者の権利クラブ」は白痴労働者を組織していた節がみられる。(36歳)
1850年 家族ともどもアメリカ合衆国に移住。(38歳)
1852年 ナポレオンIII世帝政(第二帝政)
1880年10月 赤痢に罹病し、68年の生涯を閉じる。
1894年 フランス医学アカデミーは医学博士エドワード・セガン(米名)を「外国人通信会員」(名誉会員)に、全員一致で選出採択。これによって、フランス時代に冠されたさまざまな不名誉が完全に払しょくされた。



草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (2)

2018年10月06日 | 研究余話
(挿入資料 セガンの略年譜(フランス時代)―基本的に公的文書に依拠して作成
1779年 フランス革命
1801年 セガンの「第一の師」とされる外科医ジャン=マルク=ガスパル・イタール、パリ聾唖学校で「アヴェロンの野生児」の教育を開始する。発達の可能性を実証したが、それは社会的適応を意味する発達ではなく、後年、セガンが厳しく批判するところとなる。
1804年 ナポレオンI世帝政(第一帝政)
1812年 オネジム=エデュアール・セガン誕生。後年、弟と妹が生まれる。乳母によって授乳され、他市に居住する母方祖母の家の里子となり、やや長じて家庭教師によって初歩の教育を受けた。この子育て・教育システムは社会の上層階級では常態であった。しかし、大方のセガン研究では「ルソー主義の両親の手によって自然主義方式で養育された」と、近現代的子育て・教育論の立場から、セガンの生育環境を論じてきている。
1814年 復古王政(ルイ18世、続いて、シャルル10世 絶対王政への回帰志向)
1815年 ナポレオン「百日天下」
1816年 セガンの「第二の師」とされる精神医学者ジャン=エティアンヌ=ドミニク・エスキロール、論文「狂気について」で、「白痴は感覚・知性・意志の虚弱もしくは欠如した、終生変わることの無い状態症である」とした。教育不能論に立つ。
1825年 ヨンヌ県オーセールの伝統名門コレージュ、ジャック・アミヨ校に在籍。(13歳)
1829年 フランス社会のトップ・エリート養成のグランゼコール予科、王立特級コレージュ、サン=ルイの「特別進学クラス」に在籍。17歳。
1830年 7月革命。ルイ・フィリップ立憲王政の出発。セガン、革命に功労あったとして、褒章を受ける。ほどなくして、社会運動や新興しつつあった進歩的思想にたいして弾圧が始まる。長い「冬の時代」を迎える。 同年、セガン、パリ法学部に学籍を置く。18歳。
1831年 サン・シモン教「家族」の一員となる。19歳。
1832年 徴兵検査合格。父ジャック=オネジム・セガンの尽力で兵営に入ることを免れた。20歳。
1833年 初の義務教育法(ギゾー法)成立。
1834年 精神医学者フェリックス・ヴォアザン、女子不治者救済院に「白痴学校」を創設。

明日に継続します。

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (1)

2018年10月05日 | 研究余話
 本日の講演では、先行研究で語られていることの「再試」(検証)作業によって得られた、新たな人物研究の課題、とりわけ「青年期」論をお話ししたい。当該人物、すなわち、オネジム=エデュアール・セガン(通称名エデュアール・セガン)の情念は終生燃え尽きることはなかった。その情念のよって立つ源を確かめる旅に出ることにしよう。
 オネジム=エデュアール・セガン。フランス人。「白痴(idiot、知的障害)」 の子どもの教育を開拓し、白痴の社会参加を可能にし、今日の知的障害者自立の礎を築いた人である。
 だが、セガンは、研究史上、虚偽多く語られてきた人物である。その一例を―― 「セガン家は当地代々の医師名家」とされてきたが、父ジャック=オネジム・セガンがフランス中央部の小都市クラムシーに医学博士医師として入植したが、1870年代初めにジャック夫婦の死去によって、セガン家は、その代限りで消滅している没落家族である。今日、クラムシーにセガン家があったと知るクラムシー市民はいない。
 2003年以来の私のたびたびの調査行動も作用し、行政当局が関係公文書、セガンから寄贈されていた著書などを掘り起こし、保存に努め始めている。その活動の一環として、2012年秋に、セガン生誕200周年記念国際シンポジウムが開催された。同シンポジウムで語られた各セガン像は検証に耐えられないほどに陳腐なものであり、セガン研究は、国際的にも、きわめて不十分であることを再確認した。私も招かれ、依頼によって、日本におけるセガン受容史、研究史を語った。アジアの東端の国日本にまでセガンの影響が及んでいることを、驚きと称賛を持って、理解されたようである。
 セガンは、10代半にパリに出、王立特級コレージュ(グランゼコール予科)在学中の1830年7月革命では果敢な闘士としての足跡を見ることができる。続いてパリ法学部に学籍を置いた。グランゼコールは、いわゆる大学(セガンの当時は「学部(今日でいう単科大学)」)とは全く教育系図が異なり、フランス社会の各種特権的エリートを養成する機関である。国庫から給与が出された。それに対して「学部」は、基本的に、社会の中・上級実務者を養成する機関である。セガンは、なぜ、グランゼコールに進まなかったのか?その後は、サン=シモン教徒として社会・教化運動に参加し、また共和主義者として社会・政治運動にも参加している。さらに芸術評論などを著したのはサン=シモン主義哲学の把持者であった証である(24歳時)
 これらの時期のセガンの実相はほとんど明らかにされていない。解明の努力を重ねてきているが、その努力の意図するところは、後年のセガンの白痴教育哲学の礎が形成されたと、理解しているからである。キリスト教的世界観、人間理解の基本がこれらの期に形成された。日本のセガン研究の先輩たちが意識した「社会主義への接近・深化」は、あまりにもイデオロギッシュな研究姿勢からもたらされた「結論」である、というべきか。

翻案 パリ・コミューンと少年(19)終章その2 完

2018年10月04日 | 研究余話

 数週間が過ぎ、心ならずも、ぼくは我が祖国の歴史に加わり、大人になった。サン・ピエール教会で、ぼくがパパとおじいさんを最後に見たことで、どうして我を忘れなかったのだろう?
 その日以降、ヴェルサイユの鎮圧が想像を絶して恐ろしいものであると感じるようになってからは、頭からある考えがけっして離れない。どんなに恐ろしいものであったか。ティエールの男ども、つまり、残忍な皆殺し人、そして皆殺しに寛容な、ギャリフェ、もう一人、マク・マオンは、1万人、いや2万人かもしれない、を虐殺し、4万人以上の男性、女性、子どもを捕らえ、流刑にした。パパやおじいさんのように。あまつさえ彼らはごくごく少数の裁判しか開かなかったのだ。
 天の攻撃に突き進んだすべての人たちの復讐のために、ぼくはパクティエ 印刷工になる!この考えしか頭にはないのだ。  完