ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

草稿:「第二の誕生」を考える ーある歴史を切り開いた人の実相から (7)

2018年10月14日 | 研究余話
「第二の誕生」―エリート路線からの離脱と新しい自分像の創生

 その時代の中でどう生きようとしていたか。これが本講演の根元を流れる問題意識である。とくに、幼年期のとらえ方から派生していく思春期・青年期の、現代的に言う「自我形成期」の理解を、史的展開を通して求めたい、ということ。たまさか、フランス社会は、18世紀末から19世紀後半期まで、政体で言えば、王政、共和政、帝政、ふたたび王政、ふたたび帝政、王政と共和政のドッキング政体(立憲王政)、そして、みたび共和政へと、疾風怒濤のごとく変転を繰り返している。もちろんその背景には、それらを支える経済的文化的変化があり、またイデオロギーや運動がある。当然のことながら反発するイデオロギーや運動が展開され、その周辺に多様なイデオロギーや運動がうごめき、消えては誕生するという激動がある。それらはたんに政治家や運動家・思想家の間だけで活発さを見せていたのではない。次第に都市職人層(親方衆)の間にも広がりを見せ、やがて下級職人集団へ、さらには新興労働者たちにも影響を及ぼし始める。若き学徒はさらに敏感であった。セガンが生まれ育ち、半生を送ったフランスは、まさに疾風怒濤社会。決して「人権宣言の国フランス」一色で塗られるようなものではない。
 オネジム=エデュアール・セガンは、第1帝政期にこの世に生を受け、復古王政期に青年期の大方を過ごし、立憲王政を樹立せしめた1830年7月革命に主体的に参加し、立憲王から褒章(功労賞)を授けられている。7月革命参加時のとっかかりは、コレージュのドミトリーで繰り広げた「馬鹿騒ぎ」的情熱から生まれる一揆主義的な感情と行動であったのかとも考えられる。王立特級コレージュ・サン=ルイ校の学窓から眺める社会の動乱の様子が、あるいはドミトリー(共同寝室)の仲間たちとの語らいや「遊び」が、青年期入口にあるセガンの血をたぎらせたのだろうか。
 時あたかも1830年7月下旬。絶対王政権力の数々の施策は、保守層のかなりの部分にまで、不満感情を募らせ、改革要求が高まりの頂点に達していた。ついに、政治変革の欲求を強く抱いた民衆たちが武器を持って立ち上がった。パリの主要な道路にはバリケードが築かれ、民衆と軍隊とが激しくぶつかり合った。
 セガンが在学する特級コレージュ・サン=ルイの目の前をド・ㇻ・アルプ通り(現サン=ミッシェル大通り)が走る。大通りを挟んだ向かい側は、常に人々が集い、演説会が開かれ、民衆教育場となっていたソルボンヌ広場がある。当然、ここで、革命演説が盛んになされ、人々は啓蒙され、武器を取って大通りに出る。演説者の多くはエコール・ポリテクニックの学生や教師、聴衆には多くのコレージュ生が。
 フランスにおける各時代の革命運動のイデオローグは若きエリートやその予備軍が担っていた。
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