背寒日誌

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写楽論(その26)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説(2)

2014年05月17日 10時06分17秒 | 写楽論
 中野三敏氏は、関根正直博士の「江戸の文人村田春海」(「史話俗談」「からすかご」所収)に、寛政6,7年以降地蔵橋側に居住した春海の養女多勢子が、その家の垣隣りなる阿波藩の能楽師某の倅を養子に迎え、それが春路と称して、村田家を継いだという記事があることを発見しました。そして、「江戸切絵図」をいくつか調べた結果、その隣人の能楽師の名前が斎藤与右衛門ということを突きとめ、写楽の俗称とされている斎藤十郎兵衛と縁故関係があるのではないかと指摘しました。
 斎藤十郎兵衛については、阿波藩蜂須賀侯のお抱えで江戸住みの能役者に同姓同名の実在の人物がいて、寛政4年、文化13年、文政8年頃の三つの史料に名前が出ていることがすでに確認されていました。また、斎藤与右衛門も、代々その名跡を継いだ喜多流能楽師であることが分かっていて、寛政3年版「武鑑」に名前が見える斎藤与右衛門(北八丁堀七間町在住)は、何代目かは分からないながら、寛政半ば以降、八丁堀地蔵橋に移り住み、江戸切絵図に記載がある嘉永7年(1854年)ごろまでは村田春海の隣りにその家があったことが判明したわけです。
 
 さて、その後、昭和58年に内田千鶴子氏が斎藤与右衛門と斎藤十郎兵衛の関係を突き止めた史料を発表します(中央公論社「歴史と人物」7月号)。
「重修猿楽伝記」と「猿楽分限帳」という古文書2冊の喜多流能役者の部を調べた結果、「猿楽分限帳」に喜多七太夫支配の地謡方(ワキの演者の側で謡をうたう役)として斎藤十郎兵衛の名があり、父与右衛門という表記があることによって、二人の親子関係が判明し、また、当時の年齢から斎藤十郎兵衛の生年までが明らかになりました。

 斎藤十郎兵衛 宝暦11年(1761年)に生まれる

 写楽がこの斎藤十郎兵衛だとするならば、写楽が華々しくデビューした寛政6年(1794年)ですから、写楽が満33歳の時ということになったわけです。
 内田千鶴子氏は平成5年(1993年)、能役者斎藤十郎兵衛説を主張する単行本「写楽・考」(三一書房)を刊行します。これによって、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説が一気に再浮上し、流れが旧来の定説に大きく傾いていく結果になりました。

 平成9年(1997年)6月、斎藤十郎兵衛の墓が発見されました。埼玉県越谷市にある法光寺という築地本願寺系の寺で、法光寺は昔はずっと築地にあったのですが、昭和63年の火災のあと、越谷市に移転したのでした。寺に残っていた過去帳から、斎藤十郎兵衛についてさらに詳しいことが分かりました。
 
 文政3年(1820年)3月7日歿、享年58歳。住所は八丁堀地蔵橋。

 寛政4年から寛政11年までは南八丁堀阿波藩屋敷内、文化4年から亡くなる文政3年までは八丁堀地蔵橋に住んでいたことも判明。過去帳には家族の法名もあり、父与右衛門、祖母、母、早世した二人の子の記載があったといいいます。

 話は少し戻りますが、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説を根拠づける第三の資料が平成の初めに発見されました。
 それは、写楽について重要な頭注のある「浮世絵類考」の写本2冊で、一つは、現在天理大学所蔵の写本、これは「達磨屋五一本」と呼ばれるもの、もう一つは現在内閣文庫所蔵の写本で、「奈河本助本」と呼ばれるものです。どちらも、天保年間に書写されたと推定されています。前者は、江戸時代末期の古本屋主人・達磨屋五一(1817~1868)が購入して所有していた写本。後者は、歌舞伎狂言作者の奈河本助(ながわもとすけ)が天保2年(1831年)に購入して所有していた写本。ほぼ同じ内容の頭注ですが、二つとも紹介しておきます。
 
 「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」(達磨屋五一本)
 「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」(奈河本助本)

*十郎兵衛と十郎平の違いだけです。
「周一作洲」は、周は洲の作り(書き方)の一つという意味で、式亭三馬の補記、「東周斎」は「東洲斎」のことだという注であると思われます。
 この記載には、能役者という身分は書かれておらず、士分というだけですが、浮世絵師の栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)の話だということに信憑性があります。


栄松斎長喜 「高島屋おひさ」(柱絵の部分図)
*写楽の「松本幸四郎の肴屋五郎兵衛」が描かれた団扇を持っている。写楽の絵とは絵柄が左右反対向きになっている。

 栄松斎長喜は、版元の蔦屋重三郎から美人画を数多く出していて、歌麿、写楽が作画していた寛政期に彼らの近くにいた絵師だったからです。また、長喜は、写楽の絵のある団扇を持った美人画を描いているほどで、写楽が誰だか知っていたことは十分考えられることです。実は、この栄松斎長喜という絵師も経歴不詳で、出身も生年・没年も分かりません。写本の頭注に、栄松斎長喜老人の話とありますが、この書き込みをした人(誰かは不明)が長喜から伝え聞いた(あるいは又聞きした)のは、文化年間(1804~18)ではないかと推定されます。





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