背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

小松政夫とイッセー尾形のびーめん生活2012(その2)

2012年04月30日 05時35分27秒 | 演劇
 2時間半ほどの公演だった。
 一番目の漫才師のコントは、二人の調子がまだ出ず、内容的にもあまり面白くなかった。二人の顔の表情や話し方も作りすぎ。また、時代設定が高度成長期の初めの頃だったが、冷蔵庫や魔法瓶の話は笑えず、新幹線が開通して乗り物のスピードを比較する話もなぜ今の時代にやるのか分らず。イッセーさんがはたく手を小松さんがよける動作も昔よくやっていたドタバタ的アクションで、会話の途中で何度も入れるのは虚仮おどしで、どうも違和感を覚える。漫才を超える漫才でないユニークなコントを創作しなければ、二人芝居の意味がない。
 二番目のロシア劇の演出家と女優のコントも正直言ってあまり面白くなかった。このコントには若い女の子も出演して三人芝居だったが、若い女の子を入れなければならない必要性が分らず。また女優役の小松さんが新派まがいの演技を何度も繰り返しやってみせる部分は、それほど面白くないし、観客に受けたとは思えない。
 三番目は、高齢の警備員二人のコント。座っていた二人がやっと立ち上がって、見回りを始め、道場に出て武術の型を実演してみせるのだが、アクションに頼りすぎだと思う。
 ここまで観て、私はイッセーさんは一人芝居の方が断然面白いのではないかと感じ始める。二人が舞台の両端で着替えをしている間、どうしてなのかと考えていたのだが、分ってきた。
 これは桃井かおりさんや永作博美さんとの共演ビデオを観て感じたことでもあるが、現実に対話の相手がイッセーさんの前にいると、彼が投げかけたセリフが相手に限定されることによって、言葉の重みをなくし、かえって空疎になってしまうのだ。それに対し、相手へのセリフを見えない相手に向かって言うと、逆に言葉が一人歩きしてイマジネーションが膨らみ、セリフも意味深く感じられてくるにちがいない。たとえて言えば、キャッチボールの相手は、見えないか、あるいは目の前に居ない方が良いのである。そして、キャッチボールの見えない相手は、観客のイマジネーションの中では見えているのだし、時には観客自身でもあり得る。つまり、イッセーさんの一人芝居の面白さとインパクトの強さは、観客が参加したところにドラマが生まれるからにちがいない。そして、一人芝居だからこそ、イッセーさんのセリフも、セリフを発するイッセーさんの個性も際立つのだ。現実に相手が居たのでは、セリフを聞いた観客が相手はどんな人なのだろうと想像力を膨らませる余地がなくなり、興味も薄れてしまうのだろう。
 四番目はたいこ持ちと会社の会長のコント。この辺から小松さんが乗ってきて本領を発揮し出す。イッセーさんは小松さんを立てるというか、彼にほぼ任せっきりで、時々突っ込みを入れる程度。イッセーさんがお返しだといって急にドイツ語で歌い出す。「野ばら」だ。誤魔化さずちゃんとドイツ語で歌っていたので驚く。
 最後がトランジスターラジオの海外営業マン二人のコント。回る国々がめちゃくちゃで、各国の代表音楽をイッセーさんが演奏し、小松さんが歌うというパターン。アメリカのコロラド、メキシコ、ジャマイカ、スイスなど。途中で、ハワイから来た日系人のミチヨさんとういう人物が登場し、小松さんがミチヨさんと上司の二役を演じ分け、大変なことになる。最後のコントでは小松さんのテンションが上がり、大熱演。小松さんは69歳で、肉体的にも限界に近いのに、芸人根性がすごいなあと感心する。
 さて、イッセーさんと小松さんの二人芝居の評価はどうであろうか。二人の個性を生かすというのが至難の技なのである。二人芝居だとイッセーさんが相手の引き立て役に回り、個性を消してしまわないと、面白くならないように感じる。実際、今日の芝居でもイッセーさんが小松さんの一人芝居を傍観するといったコント(四番目と最後)が最も面白く、これだと、イッセーファンから見ると、不満が残るのではなかろうか。
 帰りに永田さんを千代田線の入口まで送っていく。その時、二人芝居についての私の正直な感想を言うと、永田さんは二人芝居も幅を広げる意味でいいんじゃないかと肯定的な意見だった。私はどうも承服できず、「二人芝居だと、イッセーさんが相手の良さを引き出そうとして、脇に回り、黒子のようになちゃいますよね。悪いけど小松さん一人だったら原宿のクエストホールを連日満員にすることなんかできないし、小松さんが好きで、あえてプロデューサー的役回りをしているのかもしれませんね」と私が言うと、「そうだね。そこがイッセーさんのやさしい、いいところなんだよ。でも小松さんからいろいろ吸収しようとしているのかもしれないよ」と、さすが永田さん。これで一応納得して、永田さんと別れた。




小松政夫とイッセー尾形のびーめん生活2012

2012年04月30日 01時33分40秒 | 演劇
 イッセー尾形さんと小松政夫さんの二人芝居を観に原宿のクエストホールへ行ってきた。4月28日から30日までの三日公演で、今日(29日)の日曜は昼の部と夜の部の二回あるが、私が観に行ったのは夜の部。午後6時開場、7時開演。
 午後4時半ごろ原宿に着く。日曜で天気も良く、表参道は人が溢れるほど多い。開場まで1時間以上あったので、クエストビル4階の蕎麦屋へ行く。松原庵という店で、本店は鎌倉の由比ガ浜にあるそうだ。ノンアルコールビールとせいろを注文。カウンター席からの眺めが良く、大通りを歩く人々が見下ろせ、街路樹の緑もまばゆい。この蕎麦屋は初めて入ったが、そばは手打ちで腰があり美味く、ツユの味も醤油とダシの味がほど良い。せいろが一番安く、900円だったが、まあこの立地条件でシャレた奇麗な店なので、値段は良心的だと言えるだろう。蕎麦を食べ終わり、文庫本を読む。江藤淳の遺作「妻と私」と「幼年時代」を収録した本で、これを読むのは二度目。江藤淳は私が愛読する文芸評論家の一人で、この著書は胸が詰まる内容である。まず、吉本隆明と石原慎太郎の追悼文を読む。石原慎太郎の文章は亡き盟友への万感の思いがこもった名文だと思う。
 5時半過ぎに3階のクエストホールへ。まだ開場前だが中に入れてもらう。この一年半ほど私はイッセーさんの公演が東京であるたびに必ず足を運んでいる。事務所の女社長の森田清子さんとも親しくさせていただいている。ロビーでは若いスタッフが開場前の準備で忙しそう。スタッフに指示を出している清子さんを見つけたので声を掛けると、「あら、ちゃんと来たのね」と嬉しそうな表情。ソファに演出家の森田雄三さんと小松政夫さんがいらしたので挨拶。小松政夫さんとは初対面だったので、自己紹介し名刺を差し上げ、ちょっとだけ話す。購買部で小松さんの本「のぼせもんやけん」上下巻と雄三さんの新書本「間の取れる人、間抜けな人」を買い、小松さんに二冊ともサインしてもらう。小松さんの半生記二巻本は映画化の話があるらしいが、小松さんが「車のコロナが今ないみたいでね」と言っていて、その時はどういうことか意味が分らなかった。が、休憩時間に小松さんの本の第一章を読むと、高校を出て博多から横浜へ来て、しばらくトヨタ車のコロナのセールスマンをしていたとあり、納得。小松さんに植木等さんの本を書いた戸井十月さんと私は知り合いだと言うと、「へえそうなの。あの人、まだバイクで世界を回っているの」と尋ねられる。戸井さんはバイクで五大陸横断を終え、その後体調を悪くしていると伝える。
 ホールの入口の方へ行くと、なんと池袋の新文芸坐の元支配人(現・顧問)の永田稔さんがいて、森田清子さんと話しているではないか。奇遇である。永田さんも「なんで君がここにいるの」といった表情。永田さんには5年ほど前に私が新文芸坐に錦之助映画祭りの企画を持ちかけて以来、いろいろとお世話になっている。永田さんはずっと以前からイッセーさんのファンだと言う。新文芸坐の開館の時には高田文夫さんの紹介でイッセーさんが一人芝居をしに来てくれたのだそうだ。清子さんともその時からの知己らしい。
 そうこうするうちに開演。席は前の方の真ん中のいい席で、Eの9番。小松政夫さんとの二人芝居を観るのは今日が初めてである。(つづく)


川上史津子出演作『深夜裁判』を鑑賞(つづき)

2012年04月29日 05時24分09秒 | 日本映画
 映画館のホームページの作品データを参考に、観た感想を書いていく。

 まず、『ポール&マヨネーズ』(20分)。これは篠原哲雄監督ではなく、陣内天飛という人の監督の短篇。シュウマイなのか肉マンなのか分らなかったが、その製造工場で共に働く中年のおばさんと不良っぽい若い女の子との触れ合いを描いたもの。といっても内容は奇抜。おばさんはマヨネーズが大好きで、なんにでもマヨネーズをつけて食べるほど。しかも、若い女の子に弁当のおかずを無理やり食べさせようとするおせっかいなおばさん。一方、若い女の子は、昼は工場で働き、夜はライブハウスでショーに出演しているという二重生活者。おばさんが女の子が勧める切符を買ってライブハウスへ行くと、なんと女の子がヌードダンサーのような衣裳でポールに上って絡みつきスネークダンスを踊っているのでびっくり。このおばさん、若い頃はダンサーを目指していたという理由もあって、すっかり女の子のファンになってしまう。この短篇、映像的にも面白く、展開もなかなか奇想天外で良かった。ただ、見終わって考えると、なぜ、おばさんと女の子にしたのか分らず。せっかくなら男と女にすればもっと良かったのにと思う。マヨネーズの好きななよなよした若い男と、筋肉質のつっぱり女のダンサーとの関係の方がもっと説得力があったのではあるまいか。
 二作目『下校するにはまだ早い』(40分)。監督は篠原哲雄、脚本は日比野ひとし(舞台挨拶したプロデューサーの平埜敬太氏のペンネーム)。小学校のPTAと先生たちの男女の入り乱れた恋模様を描いたコメディねらいの作品。展開がわざとらしく、また無理やりあれとこれをひっつけて、話を面白くしようとした作為があざとく、途中で観るに耐えなくなる。笑えるところもなく、コメディにもなっていなし、また風刺にもなっていない中途半端な作品。最後は、それまで互いに浮気をしているのではないかと嫉妬していた主人公夫婦が、妻が夫に子供が出来たことを打ち明けことで、手をつないで仲良く焼肉を食べに行くという、取って付けたような結末。
 三作目『柔らかい土』(3分)。3分というこんな短い作品だとはつゆ知らず、あっと間に終って、唖然。仕事が嫌になってうつ病になった女の子が、送られてきた土に感動して、また仕事に復帰する話だったと、観終って納得。

 四作目『深夜裁判』(55分)。中原俊監督の『12人の優しい日本人』は佳作、大林宣彦監督の『理由』は力作だと思うが、『深夜裁判』は、この二つの作品を足して二で割ったような作品だと思ったが、どちらと比較しても、雲泥の差で劣ることはあっても、優るところはない。裁判所の会議室かなにか知らないが、審議の場面が面白くないのでは話にならない。川上史津子さんには悪いが、隣りにいたもう一人の女性とのキャラクターの対照が際立たたなかった。
 これはシナリオ上の問題だと思うが、登場人物が多すぎて、だれもかれも面白おかしく描こうとしたため、観ている方は途中でだれに関心を持って観ればよいか分らなくなって、とういうよりむしろ人物の個性を理解するのが面倒くさくなって、結局だれも面白く感じられなくなってしまったのだと思う。主役は漫画描きの男のはずだが、この男のドラマがきちっと描けていないので、軸がなくなってしまったのが最大の欠陥だろう。あと、これは技術的な問題だが、この作品、カラーで撮った画像を色抜きしてモノクロにしたのだろうが、ところどころ青みと赤みが抜けていない画面があって気になった。それと、ラストはカラーになって病院のシーンになるが、この話のオチは私にはまったく不可解だった。観ていて一番魅力的だったのは、主人公と漫画誌の編集者と若いホモみたいな漫画家の三人が登場するシーンで、その次は、主人公が風俗嬢とカーセックスをするシーンであった。
 私も現在シナリオを書いているので、自戒の念を込めて言うのだが、群像劇は難しいなあと思う。
 大林宣彦監督の『理由』は、原作が宮部みゆき女史で、脚本が石森史郎さんだが、石森さんから私はいろいろなことを教わっている。また、私の書いたシナリオを読んでいただき、手厳しい批判をいただいている。石森さんから絶対守れと口をすっぱくして言われていることは、次の三か条である。
①誰の(単数)の話なのか
②その人物(主人公)は、ドラマが展開する最初と、対立や葛藤の結果、あるいは様々なドラマに翻弄された結果とでは、大きく局面と状況(situation)が変っていなければならない。
③ひと口で語ることの出来る物語(主題)であること。


  

川上史津子出演作『深夜裁判』を鑑賞

2012年04月29日 02時24分32秒 | 日本映画
 下北沢のトリウッドという小さな映画館へ『深夜裁判』という映画を観に行った。
 知り合いの川上史津子さん(エロ短歌の歌人で、昔で言うアングラ女優)からメールをもらい、この映画に準主役級の女弁護人の役で出ているのでぜひ観に来てほしいというお誘いがあったからだ。齢不惑で映画出演だというし、多分ノーギャラで出て、憐れにも上映中は連日映画館で客引きみたいなことをやっているらしいので、観ずに済ますわけにはいかない。
 『深夜裁判』という映画の監督は、篠原哲雄氏。以前同監督の『月とキャベツ』(『月とスッポン』のようなタイトルとだけ記憶にあったが川上さんに教えてもらった)という作品のDVDを新宿のツタヤで借りたことがあるが、奇をてらった恋愛映画で途中でやめて返却した覚えがある。『深夜裁判』という映画もきっと退屈するだろうなと思いつつも、最近の映画もできるだけ観なければいけないという義務感もあって、自宅で夕食を済ませると、下北沢へと向かった。
 私は明大前に住んでいるので、下北沢は急行で一駅の近さなのだが、下北沢という街は、どうも居心地が悪く、用事がない限りほとんど行くことがない。あまりいい思い出もない。気取ったイタリアレストランでバカ高いイカ墨スパゲッティを食べて幻滅したこと、どこの小劇場だったか忘れたが中村獅童さんが出演している現代劇を観に行ったらこれが観念的なセリフばかりの芝居で、うんざりしながら2時間近く過ごしたこと、私が作った本を置いてもらっても売れない書店しかないこと(博文堂、三省堂、ヴレッジバンガード)などである。
 以前、下北沢のはずれに映画館があって、何度か行ったことがあるが、確か3年ほど前につぶれてしまった。トリウッドという映画館は初耳で、新しく出来たのだろうか。メールの案内に従い、駅を南口で降りて、商店街をまっすぐ行って、有名なパン屋を通り越し、五さ路を左へ直角に曲ってすぐのところ、古着屋の二階にトリウッド(Tollywood)はあった。意味不明の名称で、ハリウッド(Hollywood)のもじりなのか。
 受付で川上史津子の名を言うと、彼女が妊婦服のようなドレスを着て出て来て、目をまんまるくして喜ぶ。切符を予約せずに来たのに、割引にしてくれた。
 彼女と5分ほど立ち話。ビックニュースがあるというので聞くと、この映画に続いてまた映画出演したという。「あたし、映画女優づいて来ちゃった!」今度は主役で、深作欣二の息子さんが監督する映画で「脱いだのよ」だって。「おっぱいあるの?その年で脱がれてもなあ……」
 午後8時から入場。ほんとに小さなミニシアターだ。客席が40くらいか。
 お客さんは十数人で、若い人ばかり。「おれが一番年寄りかよ」といった感じ。いつも行く名画座(新文芸坐やラピュタ阿佐ヶ谷や浅草名画座ほか)は高齢者の方が多い。 だんだん様子が分ってくる。ここは主に自主製作映画を上映しているところらしい。そしてこの二週間は「篠原哲雄ショートムービーパーティ」と題して、短篇と中篇を計4本、一日二回ずつ上映。しかも連日出演者の舞台挨拶があり、その司会進行役が川上史津子なのだ。
 妊婦服の彼女が出て来て挨拶をすると、少ない観客から暖かい拍手があり、次にゾロゾロ十人くらい男女の出演者が登場してずらっとスクリーンの前に並ぶ。みんな普段着でシロウトみたいに地味。偉そうにプロデューサーも登場して、最初に彼の話だったが、長ったらしくて面白くない。彼は平埜さんと言って、映画が終ってから飲み屋でご一緒したので悪口は言えないが、これは正直な第一印象。上映作品3本の脚本も書いたそうだ。その後、順番に出演者の簡単な挨拶があり、一人一人に観客からパラパラと暖かい拍手。もちろん私も拍手。みんな自己紹介をして名前を言うが、多すぎて覚え切れず。有名な役者さんは誰もいなかったようだが、一応全員役者らしい。あるいは役者を目指してかんばっているらしい。一人、松葉杖をついて足を引きずっている女の子がいて、ちょっと可愛いかったので気になる。もう一人、長い髪をしてメガネをかけて映画の中に出て来ますから見逃さないでください、と言った女の子の話が印象に残る。
 30分ほどこうした舞台挨拶があって、いよいよ映画の上映開始。ハナから期待していないし、2時間を超える長篇はないので、気は楽。(つづく)


「ひとりっ子の深層心理がわかる本」(4月24日)

2012年04月24日 20時59分34秒 | 
 香山リカ「親子という病」読了。最終章はやや尻切れとんぼ。
 
 田村正晨「ひとりっ子の深層心理がわかる本」も読了。
 ひとりっ子の画一化されたマイナスイメージは、以下のごとく。
 社会性(協調性)に乏しい、わがままで自分勝手、依存心が強い、ひ弱、自立心が弱い。
 著者はこうした先入観をことごとく打ち消し、新たな「ひとりっ子観」を提示している。
それによると、ひとりっ子は、「達成動機」が高い。つまり、高い目標を設定して、そこにたどり着くために最大限の努力をしようとする。この特質は、親にほめられて育ったためと、ひとりで空想する時間が多かったためだと言う。したがって、ひとりっ子は、自己信頼感が強く、完璧主義者でもある。
 しかし、挫折すると落ち込みが激しく、立ち直りに時間がかかる。自己嫌悪に陥りやすい傾向がある。
 また、敏感で、感性が豊かなのが、ひとりっ子の特質である。兄弟のいる子より、気持ちが「温かく」、思いやりの気持ちが強い。人の痛みを敏感にキャッチする。が、人への対応はぎこちない。
 ひとりっ子が多い職種は、芸術家や研究者である。ほかに、オーケストラの指揮者、音楽家、作家、ボランティア活動家、コンピューターのソフト制作者など。
 自分の趣味の延長、自分の好きなことを生かせる職業を選択しやすい。
 作家の村松友視、池田満寿夫はひとりっ子だとのこと。ふたりは、自分の作品が掲載されている雑誌が出版社から送られてくると、他人の書いた小説は絶対に読まない。自分の小説だけを四回も五回も読み、そして「おれの書いた小説はすばらしい。おれは天才ではないか」と、頭の中でくり返すのだそうだ。
 自分以外の作品には興味がない。ひとりっ子の興味の対象は常に「自分」だからである。自分を天才と思いこんで悦に入るといったことも、自己信頼感の表れで、ひとりっ子の芸術家は楽天的でおおらかである。
 画家の岡本太郎も典型的なひとりっ子だそうだ。
 現代の日本は少子化で子供の数は一家平均1.42。(この本が書かれたのは1996年なので、その頃のデータである。)日本は徐々に「ひとりっ子型社会」に移行してきたという。価値観の多様化、個人尊重の社会ということがよく言われるのもその徴候のようだ。
 それに対し、集団や社会のルールに従い、現実的な妥協を志向するのは、「兄弟っ子型社会」で、従来の社会のパターンだった。つまり、高度成長期の競争社会はそうだったと思う。
 最近、電車に乗っていると気づくことだが、若い乗客はみんなケイタイをいじって、自分ひとりの世界に埋没している。一昔前は、オタクとか言って、家にこもっていたが、今はオタクが街に溢れていると思えてならない。これも、ひとりっ子型の社会が進行している表れなのだろう。