背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その13)~異版と発売枚数

2014年04月29日 21時21分59秒 | 写楽論
 

 上に掲げた二枚の絵は、どちらも写楽の「市川鰕蔵の竹村定之進」ですが、左側は現在シカゴ美術館が所蔵している作品、右側は現在ハーバード大学が所蔵している作品です。二つを見比べてみるとすぐにお分かりになると思いますが、着物の色が違います。右の絵の着物は柿色ですが、左は黄色です。変色したわけではないそうです。
 これは異版と言って、摺る時期が違っていたため、使う染料を変えてしまった結果、起ったことだそうです。この時代の手作業の多色摺りの版画では、一日に多くて二百枚仕上げたと言われていますが、数日後か数週間後か数ヶ月後かは分かりませんが、時期を隔てて再版した時には、仕上がりが違ってしまうことがよくあったそうです。 
 それにしても、柿色と黄色の色違いはどうしたことなのでしょうか。
 摺り師が初版の時と違う人に変わって、サンプルがなくて分からないまま、色を変えてしまったのか。再版の時には写楽が立ち会わずに、色の指定をしなかったのか。写楽があえて違う色に変えたのか。柿色が初版で、黄色が再版なのか、あるいはその逆だったのか。
 なにもかも分からないのです。
 雑誌「太陽」(昭和50年2月号 平凡社)の「写楽」特集号の座談会で、美術評論家の瀬木慎一が、写楽の絵の140何枚のうち5分の1くらいに異版があって、その数の多さを指摘し、「鰕蔵の竹村定之進」は柿色の方が多く、役柄から言っても柿色でなければいけないと述べています。そして、演劇評論家の戸板康二は、柿色が団十郎の家の色だから当然だと言っていますが、歌舞伎の名門にはその家独特の色があることを私は初めて知りました。
 団十郎家にゆかりのある柿色が正しい版だとして、なぜ山吹色の版が摺られたのか、また、どちらが初版で、再版はいつごろ摺られたのか。
 これについては、はっきりしないままでした。もしかすると、初版は黄色で摺ってしまい、あとで団十郎家の色は柿色だと分かって、あるいはクレームがついて、再版で柿色のものに摺り直したのではないでしょうか。これは、あくまでも私の推測です。初版は柿色で摺って、再版で黄色に変えるというのは、どうも不自然な気がします。瀬木慎一は版木が残っていて、ずっとあとになって(天保期の終わりに写楽の絵が再評価?されたと言っていますが)、再版したのではないかと述べています。しかし、そんなことはあり得ないと思います。現代の出版社でもあるまいし、版木が残っているわけがない。版木というのは、削り直して、再利用するものだからです。どうも瀬木慎一という美術評論家は、思いつきをすぐ口にしたり、確証もないことを文章にするので、信用できないと私は思っています。それは、ともかく、分かることは、写楽の第1期(寛政6年5月)の大判の大首絵(28種)に異版が多く、第1期の絵はたくさん摺られたということだけのようです。
 とくに「鰕蔵の竹村定之進」は当代一の名優の絵でもあり、おそらくいちばん多く摺られ、また売れ行きも良かったのではないでしょうか。この絵は世界中に20数枚現存すると言われ、写楽の絵ではいちばん多く残っているそうです。持ち主がこの立派な名優の絵を大切に保管していたこともあるでしょうが、たくさん摺られたことは間違いないと思います。
 では、何枚くらいなのでしょうか。1000枚以上なのか、2、300枚なのか、それとももっと少ないのか。これもはっきりしません。
 第1期の写楽の大判の大首絵はどれも、背景が黒雲母摺(くろきらずり)と言って、雲母(うんも=光るので「きら」、「きらら」とも言い、六角板状の結晶をなす珪酸塩鉱物で、花崗岩などに含まれる)の粉に糊か膠(にかわ=当時の接着剤)を混ぜ、擦りつけた(あるいは塗りつけた)豪華版でした。今、絵を見ると、雲母が剥げて光沢が消えてしまっていますが、新品は、キラキラと黒光りして鏡のようだったそうです。
 写楽の大首絵は、人物の衣裳の色も模様もシンプルです。墨と肌の色を除くと、使っている色は2色ないし3色で、これは黒光りする背景に合わせて考えた配色だったと思います。その点、摺りやすかったのではないでしょうか。また、描線も少なく、模様も細かくないので、版木も彫りやすかったのではないかと思います。写楽の絵が出る三年ほど前に同じ版元の蔦屋から出された歌麿の美人の大首絵は、髪の毛や着物の柄もずっと細密で、手間がかかったと思います。写楽の大首絵は意外と制作工程がスムーズだったのではないでしょうか。そうでないと、同時期に約三十種類も一気に発行することなどできません。
 大判で黒雲母摺というのは、費用がかかったと思いますが、材料の雲母が、どれほど高いものなのか、また、一枚あたりの原価がどのくらいかかり、普通の大判の地潰し(背景を単色で塗りつぶすように摺ること)に比べて、どのくらい高くつくのか。これも私にはまったく分かりません。ただ、写楽の大首絵は背景が黒光りし、人物も引き立って見えるので、豪華に見えたことは確かだと思います。
「鰕蔵の竹村定之進」は、1枚いくらで売ったのでしょうか。1枚ずつのバラ売りだったのか、それとも他の絵とセットにして3枚とか5枚とかまとめて、箱入りにでもして売ったのでしょうか。版元は蔦屋ですが、第1期の写楽の大首絵(現存するの絵の種類は28点)は、かなり高い値段で売ったのではないかと思います。第1弾・約30枚の大首絵は十分採算が取れて、儲かったのだと思います。それでなければ、第2弾、第3弾と出すわけがないと思います。



写楽論(その12)~内田千鶴子さんとの出会い

2014年04月29日 06時22分55秒 | 写楽論
 内田千鶴子さんに初めてお会いしたのは、今から2年ほど前(平成24年1月29日)、ご主人の内田有作さんのお別れの会でのことでした。中野サンプラザの10何階かにある大きなホールで、夕方からの会だったと思います。内田有作さんは映画監督の内田吐夢のご次男で、平成23年12月7日、77歳で大腸ガンのため亡くなりました。お葬式は内輪だけの密葬だったので、翌年1月の最終日曜に、親しくしていた方たちを集めてお別れの会を開いたのです。喪主は千鶴子さんでした。
 私は、中村錦之助の映画ファンの会の代表をしながら、上映活動を行なったり、映画の本も編集制作しているものですから、錦之助主演の『宮本武蔵』五部作などを作った監督の内田吐夢についても以前からずっと関心がありました。そうした関係から、平成22年(2010年)夏、私が企画推進役になって、池袋の新文芸坐で内田吐夢没後40年の追悼上映会を催すことになりました。
 あれは確か5月の半ばだったと思いますが、内田有作さんに初めてお会いして協力をお願いしたのです。その時のことは今でも記憶に鮮やかで、有作さんとまるで十年来の知り合いのように意気投合して、朝まで飲み明かしました。有作さんは1970年代初めに東映生田スタジオの所長をしていて、「仮面ライダー」の生みの親の一人として有名なのですが、私はそっちの方はほとんど無知で、関心があるのはお父さんの内田吐夢だったので、その話ばかりしていたと思います。それから、有作さんとのお付き合いが始まって、お会いするといつも朝まで飲みながら話していました。上映会に際し、私が「内田吐夢の全貌」という記念本を作れたのも、有作さんの絶大な支援があったためです。
 奥さんの話も時々お聞きして、「写楽を探せ」という本も有作さんからいただきました。その時、ざっとですが、この本を読みました。内田千鶴子さんが20年近く写楽の研究をしていて、能役者の斎藤十郎兵衛が写楽だったという事実を突き止めているかけているという内容でした。 



 そして、内田吐夢が晩年、最後の大作として「写楽」という映画を作りたいと思い、構想まで練っていたことも知りました。千鶴子さんは、1970年に内田吐夢が亡くなってから、有作さんと結婚したのですが、写楽を研究するきっかけになったのは、内田吐夢がシナリオ作家の水木洋子に書いて、結局投函しなった長文の手紙だったそうです。その手紙の文章は、「写楽を探せ」に掲載されています。
 内田吐夢の上映会は、8月の夏の真っ盛りだったのですが、10日間大盛況でした。おそらくあれほど豪華なトークゲストを招いた上映会は、後にも先にもなかったと思います。淡島千景、有馬稲子、丘さとみ、水谷八重子、風見章子、星美智子のみなさん、そして、マルハン(大手パチンコチェーンで新文芸坐の経営主)の韓昌祐(ハンチャンウ)会長も初日にお祝いにいらしてくれました。有作さんもトークショーで挨拶されました。
 話が長くなりましたが、千鶴子さんにお会いしたのは、有作さんが亡くなってからで、お別れ会の時は、挨拶程度で少ししかお話ししませんでした。それが、納骨、三回忌とお会いしているうちに、千鶴子さんと喫茶店へ行って、いろいろな話をするようになり、多分有作さんもあの世から笑って見ていると思うのですが、最近では月に一度くらいはいっしょに昼飯を食べたりするようになりました。この間も、門前仲町で待ち合わせ、富岡八幡の近くで名物の深川丼を食べ、川べりで桜の花見をしました。だいたいお互いの近況報告と世間話が多いのですが、時々写楽や浮世絵の話をすることもあります。それで、一ヶ月ほど前、思い立って、千鶴子さんの「宇宙をめざした北斎」(日本経済新聞出版社 2011年2月発行)ともう一度「写楽を探せ」を熟読してみたわけです。
 私は大学の頃、美学・芸術学を専門に勉強していて、昨年亡くなりましたが、世界的に有名な哲学者の今道友信先生の教えを受けたこともあり、近頃急に大学時代に不真面目だったことを反省して、まず手始めに何かと縁の深い写楽の浮世絵から勉強し直してみようと思うようになったわけです。


写楽論(その11)~写楽別人説

2014年04月28日 23時38分04秒 | 写楽論
 東洲斎写楽というのは、いったい誰なのか?
 
 この謎に多くの著名人や研究者が答えようとして、思い思いにいろいろな説を発表してきました。中には、あっと驚くような説もあり、世間を騒がせました。
 写楽=北斎説、写楽=歌麿説、写楽=豊国説、写楽=円山応挙説、写楽=司馬江漢説、写楽=谷文晁説、写楽=山東京伝説、写楽=十返舎一九説などなど。
 写楽と結び付ける相手が有名であればあるほど、話題性があって、一般の人たちの注目も集めたようです。写楽と結び付ける相手が地味で知らない人だと、面白くないのか、あまり騒がれませんでした。
 蒔絵師とか秋田蘭画の絵師何某とか歌舞伎役者とかもあり、写楽=蔦屋重三郎説もありました。
 現代の日本人で写楽の有名な絵を知らない人はほとんどいないでしょうし、写楽が謎の人だということもみんな知っているのだと思います。だから、写楽の謎を明かすといった本が出ると、多くの人が興味津々になって買い求めたわけです。しかし、それもほんの一時的な現象で、結局最後には、どれもこれも、専門家や知識人たちからコテンパンにやっつけられ、引っ込んでしまいました。最近は、浮世絵研究者たちも、うんざりしたのか、新説を黙殺するようになってきました。
 写楽探しの熱も冷めてきたようです。写楽=能役者斎藤十郎兵衛説が復活し、定説化したようなムードになっているからだと思います。

 写楽が誰かということに関してはこれまで私も少しは関心を持って来ましたが、実を言うとただ傍観しているだけでした。遅ればせながら、最近になってようやく、それぞれのいわゆる「写楽別人説」も一応調べてみようかと思っている次第です。
 私の知る限り、マスコミも取り上げ、写楽ブームが一般人の間にも盛り上がったのは、昭和50年代だったと思います。



 今、私の手許に雑誌「太陽」の昭和51年(1975年)2月号がありますが、「写楽 謎の絵師」と題した特集号です。松本清張の写楽についての講演が収録されているほかに、写楽研究者たちの寄稿文や対談が載っていて、読み応えのある内容です。10日ほど前に、40年ぶりに再読しましたが、すでに亡くなった人が多く、昔日の感を覚えました。松本清張、戸板康二、粟津潔、瀬木慎一、由良哲次、坂東三津五郎ほかですが、みんな写楽について熱っぽく語っていました。ただ、この頃は、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説がほとんど見向きもされず、写楽別人説も十数種類出て、混乱している最中でした。
 昭和60年代に入り、梅原猛が「写楽 仮名(かめい)の悲劇」(新潮社 昭和62年5月発行)を出して、写楽=豊国説を主張しました。この本は多分ベストセラーになったのではないでしょうか、当時私も買って読みました。(再読した感想は前に書いたとおりです)
 また、浮世絵研究者だった高橋克彦が小説「写楽殺人事件」を発表して、有名になったのもこの頃だったと思います。私は、この小説を含め高橋克彦の小説は一つも読んでいませんが、彼が書いた「浮世絵鑑賞事典」(創樹社 昭和52年7月発行)の解説は、愛読した覚えもあり、先日本棚から引っ張り出して、目下拾い読みしています。
 平成に入ってからも、篠田正浩が映画『写楽』を作りました。ただ、この映画を私はまだ観ていません。ほかにも写楽を題材にした小説やテレビ番組はあったような気がします。私が最初に取り上げた石森史郎氏の小説「東洲斎写楽」は、平成8年(1996年)6月発行です。ご本人は、あまり売れなかったとおっしゃっていますが……。
 おととい、神保町の古本屋で、雑誌「太陽」の平成23年(2011年)5月発行の「写楽」特集号を買って、ざっと目を通してみました。執筆者が若返り(知らない人ばかり)、内容も一変していましたが、熱が冷めて、まったく面白くなくなっていました。受け売りの知識のオンパレードで、まるで教科書でも読んでいるような内容でした。

 それで、振り出しに戻るのですが、石森さんのほかにもう一人、写楽に関する本を書いた方と最近私は個人的に親しくなりました。(このブログの第1回に触れましたが……)
 「写楽を追え 天才絵師はなぜ消えたのか」(イースト・プレス 2007年1月発行)の著者、内田千鶴子(ちづこ)さんです。彼女は、明治以来ずっと定説とされてきた写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を信じ続け、新たに発見した資料によって、この説の信憑性を一歩押し進めた写楽研究者です。千鶴子さん(私はそうお呼びしています)との不思議な出会いについては、次回に書きたいと思います。


写楽論(その10)~ユリウス・クルトと野口米次郎

2014年04月27日 02時00分01秒 | 写楽論
 「写楽は、浮世絵史上、突然変異的に出現した」「写楽は、役者の顔や手をデフォルメして描いた」、また、梅原猛氏のように、「写楽の絵は写実主義的ではなく表現主義的である」などなど、写楽の絵のユニークさを強調するあまり、ちょっと行き過ぎではないかと思われる意見を述べる評論家がいます。
 「突然に」なら良いでしょうが、「突然変異的に」と言うと怪物でも現れたような印象を受けます。写楽という浮世絵師は、当時も怪しげな人物だったことは間違いないでしょうが、彼の役者絵自体を突然変異的なものとする評価はどうかと思います。また、「デフォルメ」も、それほどでもないと思います。役に成りきった役者の表情や姿をできる限り忠実に描こうとして、少し誇張して描いた程度です。
 梅原猛氏がその著「写楽 仮名の悲劇」で力説している表現主義的という言葉は、日本の芸術を西洋の芸術観で解釈する日本の文化人(?)特有の悪弊で、なんとか主義と決めつけるのは良くないと思います。この本は、面白い部分も多々ありますが、梅原氏独特の決めつけと自信過剰で強引な論法が目立ちすぎ、今思うと、「写楽=豊国」説は、彼の血迷った暴論だったと言わざるを得ません。(最近またこの本を再読してみた私の感想です)


 一方、写楽の絵を好まない人たちは、「絵に品がない」「ゲテモノ趣味だ」「過大評価されすぎる」と言います。三番目の写楽の絵は「過大評価されすぎる」という点だけは、私も同感です。

 写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家の一人として絶賛し、「SHARAKU」という研究書を書いたのはドイツ人のユリウス・クルトJulius Kurth(1870-1949)という美術史家だったのですが、このドイツ語の著書は1910年(明治43年)にミュンヘンで発行され、すぐに日本に輸入されて翻訳されたそうです(原書は1922年再版)。クルトは、その3年前に歌麿の研究書を、写楽を出すすぐ前に春信の研究書を出しているほどで、当時西欧で浮世絵研究の第一人者でした。これが日本の美術界でセンセーションを巻き起こし、知識人から一般人の間にまで波及して、大正時代半ばからに写楽ブーム、そして、浮世絵ブームが起っていきます。それまでは、写楽という絵師すら知らず、彼の絵などに見向きもしなかった日本人が写楽に目を向け、江戸時代にもこんな凄い画家がいたと再認識するわけです。私は、クルトの「SHARAKU」をまだ読んでいませんが、ぜひ読んでみたいと思っています。最近アダチ版画研究所から新しい翻訳書が発行されたようなので購入するつもりです。写楽を勉強する上で、その原点となるべき本だと思うからです。

 クルトのこの本をいち早く日本に紹介したのは、詩人で英文学者の野口米次郎(1875~1947)でした。以前私は『レオニー』という映画をDVDで見た時に、彼のことを調べたことがあります。野口米次郎は、有名な彫刻家のイサム・ノグチの父で、レオニーというのは野口米次郎のアメリカ人の妻で、映画は彼女を主人公にした作品でした。米次郎は中村獅童が演じました。このブログに手厳しい映画評を書いたのですが、それはともかく、この時は、クルトの「SHARAKU」を野口米次郎が紹介したことは知りませんでした。それを最近知って驚きました。



 野口米次郎は、大正期前半に日本の偉大な浮世絵師についてさまざまな論文を発表し、それを「六代絵師」(大正8年6月 岩波書店)という本にまとめ、発行します。六代絵師とは、春信、清長、歌麿、写楽、北斎、広重です。
 写楽以外の5人は、彼らが生きている当時もその後も有名で、評価も非常に高い画家だったのですが、写楽だけが特別でした。作画期間も極端に短く(クルトは数年間と考え、その後2年になり、さらに10ヶ月と狭まっていきます)、描いた絵の数も少なく、業績の上では問題にならない画家でした。当時の評価も他の絵師に比べれば数段低く、その後はまったく忘れられた画家だったのです。野口は、クルトに影響されて、写楽に惚れ込み、写楽ブームのいわば火付け役になった日本人です。
 野口が取り上げた浮世絵の六大絵師という評価は、現在では定着した感があります。野口のこの本は、国立国会図書館のデジタルライブラーにあるので、「驚異の大写楽」の章だけ読んでみました。なかなかの名文でした。最初に写楽と野口の対話があり、ゲーテのメフィフトとファウストの対話のようになっています。
 写楽が「人は誤って天才などというが、僕自身は熟慮なる科学者をもって任じている。僕の芸術は、身振りの均合――二つの眼と二本の手、湾曲した顎と額――が生命で、この感激的な身振りを同時に響く高音的色彩の調諧で肯定したものだ」
 と言うと、野口が「君は題材――五代目団十郎にせよ又瀬川菊之丞にせよ又嵐龍蔵にせよ――を科学的に取り扱っても詩を忘れたのでない。真赤な想像を軽視したのでない。君が作ったエフェクトの鋳型、生きた感激を二度と来ぬ最も適当な瞬間を見計らって力一杯注ぎ込んだものである――僕は君をそう了解している」
 といった具合です。この論文の後半には、野口の写楽絵との出会いと感銘、クルトの著「写楽」に対する批判、また野口自身の推論も書いてあって、興味深く読みました。
 写楽に関する日本側の研究は、ここからずいぶん進んでいくのですが、その成果と言えば、140数点に及ぶ写楽の絵の集約と整理、すなわち、制作時期と舞台別の分類、役者と役名の特定といったことなのですが、写楽の実像に関しては推測の域を脱せず、堂々めぐりしていたことが分かります。
 


写楽論(その9)~役者絵の変遷

2014年04月26日 23時55分07秒 | 写楽論
 ここで、少し写楽から離れて、寛永期以前(一世紀遡ります)の役者絵の変遷と、写楽が登場する少し前(寛永期初め)の役者絵の制作状況について触れておきましょう。

 役者絵は、古くは鳥居派の絵師たちの専売特許のようなものでした。
 鳥居派の祖は鳥居清信(1664~1729)です。彼は父親(元信)とともに大坂から江戸に上り、市村座を拠点に江戸の各座で看板絵や絵番付を描くことから始めます。そして、元禄期に人気役者の、現代で言うポスターやブロマイドといった役者絵を描き、普及させていきます。これは、江戸歌舞伎に初代市川団十郎(1660~1704)が現れ、立役の荒事芸で江戸庶民に大人気を博し、歌舞伎が興隆した時期と重なっています。歌舞伎ファンが増え、人気役者が次々に現れるにしたがい、役者絵が美人画と並ぶ浮世絵の一大ジャンルになっていくわけです。


 清信 二代目団十郎 18世紀初め

 鳥居派は清倍(きよます)、二代目清倍、清満(きよみつ)と続き、多くの弟子たちを集め、数十年間、歌舞伎関係の絵を独占していきます。鳥居清満(1735~85)の時代に、多色摺りの錦絵が開発され、清満も錦絵の役者絵を描き始めますが、それまではシンプルな紅擦絵(べにずりえ 墨摺りに紅色、黄色、緑色の単色を摺り加えた版画)でした。そのまた前はずっと、墨摺りの上に手で漆(うるし)や色を手で描き加えるといった漆絵や丹絵(たんえ)でした。

 しかし、鳥居派の役者絵はマンネリ化します。「瓢箪足・蚯蚓描」(ひょうたんあし・みみずがき)と呼ばれるものがその典型です。瓢箪足は、筋肉を表すために手足にくびれを入れ、ひょうたんのように描いた画法で、蚯蚓描は、くねるような太い描線のことです。どちらも、江戸歌舞伎の荒事芸を描くために、仁王像などの仏像や仏画を参照して工夫したダイナミックな画法だったのですが、役者の顔に個性がなく、類型的な描き方になっていました。

 明和期半ばに勝川春章(1726~93)が現れ、役者の特徴をつかんだ写実的な役者絵を描き始め、革新的な画風で一世を風靡します。明和7年(1770年)、一筆斎文調(生没年不明)と共作で役者たちの似顔絵本「絵本舞台扇」を出して人気を呼び、続いて「東扇」(あずまおおぎ)というシリーズで大判の役者絵を出していきます。


 春章 「東扇」中村仲蔵の斧定九郎 

 一筆斎文調が断筆して消えた後も春章は、安永期(1772年~80年)から天明期(1781年~88年)前半にかけ、数多くの写実的な役者絵を描き、一家を成して門弟を育てます。鳥居派に対抗して勝川派が勢力を拡大します。その中から、勝川春好、春英、春朗(のちの北斎)、春潮らが頭角を現し、師匠の春章は版下絵の制作を弟子達たちに譲って、自らは肉筆の美人画に専念していきます。役者の大首絵も春章が「東扇」シリーズで先鞭をつけ、春好、春英がそれを引き継ぎます。春朗(北斎)は、全身像が多く、大首絵はあまり描かなかったようです
 勝川春好(1743~1812)は、半身像の大首絵から、顔をクローズアップした大顔絵を描いて、役者絵に新な境地を開きますが、40代半ばの働き盛りに中風で右手が利かなくなり、左手一本で描き続けます。そのため、寛永期には寡作になり、本の挿絵だけを描いて、浮世絵の版下絵は描かなくなります。


 春好 坂田半五郎(初代)

 勝川春英(1762~1819)は、前回も触れたように春章門下の逸材で、若くして才能を開花させ、師の春章と兄弟子の春好に代わって、役者絵のエキスパートになっていきます。


 春英 中村仲蔵と団十郎(五代目)

 勝川春朗(1760?~1849)は、のちの北斎ですが、寛永6年に勝川派を破門されるまでは、精力的に役者絵や黄表紙の挿絵などを描いていました。

 一方、鳥居派からは鳥居清長(1752~1815)が現れ、安永期から天明期中心に活躍し、実力人気ともに浮世絵界のトップに立ちます。清長は、若い頃は役者絵をかなり描いていたのですが、次第に美人画が多くなり、天明期に入ると独自の画風を確立して、美人画の名手としての評価を不動にします。清長の描いた役者絵では、いわゆる「出語り図」(演じられた舞台の一瞬間を再現した絵で、複数の役者のほかに囃し方の人たちも描いている)が有名ですが、鳥居派のお家芸であった典型的な役者絵はほとんど描かなくなってしまいます。清長が活躍を始めた頃にはすでに春章の役者絵が定評を得ていたので、それを意識して、あえて美人画の道を歩んだのではないかと言われています。


 清長 岩井半四郎と澤村源之助
 
 寛政期に入り、役者絵を描いていたのは、勝川派の春英、春童、春泉たちだったようです。春童(しゅんどう)は春章の古参弟子、春泉(しゅんせん)は春章の末弟で、二人とも師に倣った細判の役者絵を描き、とくに春泉(しゅんせん)の役者絵は、手の描き方などは後の写楽の通じるものが見られるそうです。勝川派にもう一人、春艶(しゅんえん 生没年不明)という絵師がいて、寛政期の半ば、写楽とほぼ同時期に役者絵を描いていたそうですが、寛永8年以降の作品は見つからず、どうやら消えてしまったらしい。写楽と画風が似ているといわれる謎の絵師です。 
 美人画では、寛政2年頃から喜多川歌麿が大判の半身像を描いて、時代を画する目覚しい活躍を始めます。版元はずっと歌麿の面倒を見てきた蔦屋重三郎でした。歌麿は、白雲母摺の背景に美人像を描いて人気を博し、浮世絵界のトップに躍り出ます。しかし、売れっ子になると、蔦屋から離れ、さまざまな版元から絵を出し始めます。これは蔦屋にとっては大きな打撃でした。歌麿は美人画に専念し出してからは役者絵を描かなかったので、蔦屋はずっと役者絵の描ける絵師を探していたようです。しばらくは春朗(北斎)に役者絵を描かせていて、寛永5年頃には春英に依頼して役者の大首絵を描かせたのですが、蔦屋の意に添わなかったのか、春英との仕事は長続きしませんでした。
 寛永6年正月、歌川豊国が版元和泉屋からシリーズ「役者舞台姿絵」を出して華々しく登場します。蔦屋は指をくわえて見ているわけにいきません。その時、やっとこれぞと思う絵師を発見しました。それが写楽でした。蔦屋がどういう経緯で写楽と出会ったのかは、今のところまったく分かりません。