背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

岩下志麻

2005年11月12日 23時54分45秒 | 日本映画
 ずいぶん昔のことだが、岩下志麻という女優のことを、「おしまさん」と、「さん」付けで呼んでいる時期があった。これは、岩下志麻が「極道の妻たち」で(ヤクザの)組の大姐御を演じたからなのではない。それよりずっと前のことだ。すでに、岩下志麻は、美しくかつ知的な女優として認められていた。娯楽映画にもテレビにも出ない芸術肌の一流女優、良い映画のためなら大胆な性描写シーンも辞さない女優とみなされ、とくに映画青年の間では、「おしまさん」と、敬愛の念を込めて呼ばれていたのだった。
 ちょうど夫君の篠田正浩監督が松竹を辞めて独立プロを設立し、「心中天の網島」(1969年)を制作した頃である。この映画の主演は、岩下志麻と中村吉右衛門。江戸時代の劇作家近松門左衛門の心中物を描いた作品で、当時大変な話題を呼んだものだった。この頃はいわゆるATG映画(ATGは、アート・シアター・ギルドの略で、独立プロによる映画の上映をする組合)が若者の間で高い評価を受けていた。それは、たとえば大島渚や吉田喜重といたいった監督の映画だった。彼らは女優の奥さん(小山明子や岡田茉莉子)を主演にして映画を撮っていた。篠田正浩もその一人だった。ATG映画の拠点が新宿のアート・シアターという映画館で、「心中天の網島」は、高校生だった私も確かここで見た覚えがある。が、映画の内容はすっかり忘れてしまった。白黒映画で、岩下志麻が顔から肩まで異様な白塗りだったこと、道行の前の濡れ場が良かったという印象しか残っていない。すごく感動した覚えはない。
 岩下志麻は私の好きな女優だが、夫君の篠田監督の映画でなく他の監督の映画に出演した彼女の方が良かったと思う。封切りのとき映画館で見たのではなく、テレビやビデオで見た映画が多いが、野村芳太郎監督の「五弁の椿」「影の車」「鬼畜」、中村登監督の「紀ノ川」「古都」などの作品に出演した岩下志麻に魅力を感じる。特に「五弁の椿」は、私の大好きな映画の一つである。これは山本周五郎原作で、時代劇のサスペンスといった映画だった。岩下志麻は男に復讐する若い娘を熱演していた。おとなしそうな顔をしていて、測り知れない何かを内に秘めている。美しく知的な顔立ちが、かえって女の空恐ろしさを感じさせる。「五弁の椿」は、そんな岩下志麻を強烈に印象付けた素晴らしい映画だったと思う。
<五弁の椿>

「奥様ご用心」

2005年11月09日 15時46分46秒 | フランス映画


 先日フランス映画の「奥様ご用心」(1957年制作)をビデオで見た。世紀の美男俳優と言われ35歳の若さで亡くなったジェラール・フィリップの代表作の一つとして有名な映画だ。十数年前テレビで放映されたとき私はこれをビデオで録画しておいたのだが、どうも見た記憶がないように思えてならなかった。実はずっと「奥様ご用心」のことが気にかかっていた。この映画には私が好きな女優ダニー・カレルとダニエル・ダリューが二人とも出演しているのを知っていたからだ。
 「奥様ご用心」を見て、これは以前まったく見ていなかったことに気づいた。そして、大変面白く感じた。と同時に、驚いたことがいくつかあった。まず、監督がジュリアン・デュヴィヴィエだったこと。彼の映画を私は結構見ているのだが、戦前の作品が多かったように思う。デュヴィヴィエという人はなにしろ多産な監督で、戦後もたくさん映画を作っているが、「奥様ご用心」が彼の作品であるとは、知らなかった。さらに、この映画がまるでデュヴィヴィエらしくないことにも驚いた。例のじっとりと湿った暗さがなく、自由奔放なタッチで、ちょっとした喜劇なのだ。しかも、最後はハッピー・エンドだった。デュヴィヴィエの映画にしては珍しいと思った。彼の映画は「望郷」「旅路の果て」などのように最後は主人公が死ぬ作品が多かったからだ。
 それと「奥様ご用心」には女優アヌーク・エーメも出演していた。これも知らなかった。この映画では端役で、魅力も発揮していなかったが、女優というのはずいぶん変わる(化ける)ものだといつものように思った。その一年後、名作「モンパルナスの灯」(1958年)で、彼女はまたジェラール・フィリップと共演し、画家モディリアーニの献身的な若妻の役を見事に熱演したからである。
 「奥様ご用心」は、原題をポ・ブイユ(Pot-bouille)といい、「ごった煮」あるいは「寄せ鍋」の意味で、洒落た邦題に対し、「ごった煮」とはなんとも卑俗で変わった題名である。この映画の原作者エミール・ゾラの小説の題名をそのままとったのだろうか。原作を読んでいないので分からない。ともかくこの映画は19世紀後半のパリを舞台に老若男女のブルジョワたちが繰り広げる不道徳な恋愛喜劇なのだ。つまり、その入り乱れた様々な人間模様が「ごった煮」というわけだ。フランス独特のコキュ話(人妻を寝取る間男の話)を盛り込み、落語の艶笑噺のフランス版といった感じだった。



 色男を演じるのが美男ジェラール・フィリップ。さすがは舞台俳優だ。彼は暗い影のある悲劇的な主人公もうまいが、こうした軽佻浮薄な色男も得意である。この男、パリの社交界に潜り込んで、可愛い娘、美しい人妻を次から次へとたらしこむ。最初にフィリップにまいってしまうのが、結婚適齢期のダニー・カレルである。カレルは例の弾むようなピチピチした可愛らしさを振りまき、なかなかの好演だった。結局フリップに振られ、別の男と結婚するのだが、フィリップのことが忘れられず、彼と浮気してしまう。夫の留守に彼と同衾した翌朝のしどけない寝姿が良かった。
 そして、ダニエル・ダリューが、婦人服店の女主人役を演じている。ダリュー、40歳のときの出演作で、やや厚化粧だが、気品ある中年女の魅力を出していた。亭主が病気で、一人で店を切り盛りしているが、どことなく熟女の寂しさを漂わせている。色男のジェラール・フィリップが就職して、彼女に迫ってくる。が、ガードを固め、気丈に振舞っているのだが、次第に彼が好きになっていく。時折垣間見せる生娘のような初々しさは、若い頃のダリューを思い起こさせ、実に素晴らしかった。

<カレル、フィリップ、ダリュー>

錦之助は生きている……

2005年11月05日 20時53分42秒 | 日本映画
 明るい錦之助が私は好きだ。気風が良くて、ちょっと粋がって、べらんめぇ調で、強がりを言って……、これなら渥美清の寅さんだって変わらないが、錦之助はあの甘くてとろけるような美しい顔立ちで、威勢のいい啖呵を切る。これは、もうたまらない。「よっ、いなせなおあにいさん!」と声をかけたくなる。男ながらに惚れ惚れとしてしまう。
 女に惚れたときの錦之助も私は好きだ。はにかんだ表情がなんともいえない。鶴田浩二もいいけれど、錦之助は女にとことん尽くす。あの甲斐甲斐しさ!女が病で弱っていれば、飯を炊いておかずを作って……、やさしい言葉を添えてそっとお膳を差し出す。こんな真似はそうはできない。惚れた女と離れ離れになるときは、女のかんざしを懐に入れ肌身離さず持っている。なんと女思いの男なのだろう。
 度胸を据えたときの錦之助も好きだ。きりりと締まった真顔がいい。高倉健みたいに凶暴な顔ではない。健さんの凄みもいいが、錦之助はあんなに力まない。凛々しく、すっきりした晴れがましさがある。
 男同士で語らう錦之助がまたいい。相手の男は、東千代之介、千秋実、三國連太郎などが思い浮かぶ。が、誰であろうと、錦之助といると相手も引き立つ。相手に対する人情がにじみ出て、男同士の心の交流がひしひしと伝わってくる。

 中村錦之助がずっと好きだった。今でも好きで、錦之助を好きな私の気持ちは死ぬまで変わらないだろう。こんなことを言うと、錦之助の女性ファンと間違われるかもしれないが……、あいにく私は、男である。任侠の世界では、男が男に惚れる、なんてことを言うが、錦之助への思いはそれとちょっと似ている。錦之助は、男が憧れる「いい男」の代表、日本人の心のなかにある理想の男である。

 中村錦之助。この名前の響きだけでも懐かしさがこみ上げてくる。正直言って、萬屋錦之介という名前は、私の場合どうもなじめない。なにか別人のような気がするのだ。私のなかで大好きな錦之助ははっきりしている。昭和三十年代東映時代の中村錦之助である。

 古いアルバムに私が三、四歳の頃の白黒写真が残っている。もうセピア色に変色しているが、そこには錦之助が表紙の映画雑誌を前にして満面笑みを浮かべた幼い私が写っている。昭和三十年代初めは東映時代劇の全盛期で、当時は映画館へチャンバラ映画を見に行くことが子供の最大の喜びだった。物心ついたばかりの頃で、私の記憶はおぼろげである。見た映画の内容もまったく思い出せない。ただ、錦之助を真似てチャンバラ遊びに夢中になっていたことは覚えている。大ファンだった錦之助に私はすっかり成りすましていた。錦之助は、私が生まれて初めて憧れた人だった。
 それから、五十年近く経つ。その間、錦之助の出演した映画やテレビは、つとめて見てきたが、心底錦之助に惚れ直したのは、彼が亡くなってからだ。テレビでも錦之助の古い映画を放映するようになり、逃さず見るようにした。また、ビデオで録画した。長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太ッペ」「沓掛時次郎」はこのとき見て、どれも感動した。ちょうどその頃、東映ビデオが次々と発売され始めた。一本五千円した高価なものだったが、ちょくちょく買い求めては見ていた。なかでも「弥太郎笠」「遠州森の石松」「若き日の次郎長 東海の顔役」「花と龍」「股旅三人やくざ」「風と女と旅鴉」「冷飯とおさんとちゃん」が好きな映画である。私がこの文章の前半で書いた錦之助についてのイメージは、実はこのとき見た映画をもとにしたものだ。

 私は今になっても無性に錦之助の映画が見たくなる。錦之助に会いたくてたまらなくなる。なぜかと思うのだが、きっとこうした欲求は幼い頃の私の原体験に根ざしているのかもしれない。私の無意識裡には常に錦之助が棲んでいるような気もしている。
 そして、錦之助は私たち日本人の心のふるさとにいる人である。錦之助の熱烈なファンは、日本人として追い求める理想の自分の姿に錦之助を置きかえているにちがいない。私たちが生きている限り、錦之助は生きている……

*萬屋錦之介・中村錦之助ファンの集い「錦友会」
http://park11.wakwak.com/~ty92727/kin_no_suke2005/

*萬屋錦之介・中村錦之助ファンサイト「一心如錦」
http://park11.wakwak.com/~ty92727/nishiki/nishiki.htm


巨匠内田吐夢の「飢餓海峡」

2005年11月03日 06時04分43秒 | 日本映画
 「飢餓海峡」は水上勉の小説も内田吐夢監督の映画もどちらも好きだ。私の場合、小説を先に読んだ。高校1年の頃で、むさぼるように読んだ覚えがある。映画はビデオを借りて見た。ずっと後になってだ。初めて見たとき、その迫力に圧倒された。が、見終わって少し後悔した。なんでこんな凄い映画を映画館で見なかったんだろう、映画館で見ればもっと感動できたのに、と。何の映画のときだったかは忘れてしまったが、東映の映画館で「飢餓海峡」の予告編を見ていたのだ。しかし、今思うと、「飢餓海峡」は昭和40年1月に封切られた映画で、東京オリンピックの翌年早々だから、私はまだ小学6年の子供だった。封切りで見てもそんなに感動したかどうか……。そう思うことにして、自分を慰めている。
 映画を見てからまた小説を読んだ。それからまたビデオを見た。映画では、爪が重要なモチーフになっていた。そして非常に印象的だった。が、小説には爪の話など書かれていない。そうか、これは内田吐夢の創作だったのかと気づき、感心したものだ。つまり、映画の中では、青森の娼婦(左幸子)が一夜の客(三国連太郎)の爪を切ってやる場面がある。この男、戦後の引揚者で、北海道で強盗殺人を犯し、海を渡って逃げてきたのだ。男は女の身の上を憐れみ、大金をやる。女はその爪を後生大事にとっておく。大恩人様などと言って爪を拝んだりする場面もあったりして、女の一念みたいなものが、男の爪に込められて、実に鮮やかな描写だった。
 「飢餓海峡」は、戦後の混乱期から高度成長期までの日本人の生き様を象徴的に描いた大作だった。どさくさまぎれに強盗殺人を犯し内地に帰って大金持ちの著名人になった男と、青森の片田舎から上京して売春業を続ける貧しい女が、戦後十数年経って再会する。その間ずっと純な気持ちを持ち続けた女、そして女の思いを頭から疑って保身のために女を葬り去る男。結局、遺品の爪が証拠物件になって、男の犯罪は暴かれることになる。経済繁栄を遂げたこの国に暮らしている日本人の多くは、過去の罪をひた隠し成金になってぬくぬくと生きてきたこの主人公の男と大して変わりはない、と私には思えてならなかった。金と地位のためには人間の大切な気持ちを踏みにじる、人間的に成り下がった現代の日本人を内田吐夢は描きたかったのではあるまいか。
 最後にこの映画には、ベテランの元刑事(伴淳三郎)と若手刑事(高倉健)が登場する。この二人の対比も暗示的で、見事に描かれていることを付け加えておく。特に伴淳三郎は心に滲みる名演だった。

東陽一の「化身」

2005年11月01日 03時34分29秒 | 日本映画
 東陽一は、女優の使い方がうまい映画監督である。女優を型にはめず、さりげなく演技させて、しかも女優を美しく撮れる監督だと思う。これまで多くの新進女優が彼の映画に出演して、その後人気女優の道を歩んでいった。「もう頬杖はつかない」の桃井かおり、「レイプ」の田中裕子、「湾岸道路」の樋口可南子、みなそうである。そして、黒木瞳もその一人だった。
 私は東陽一監督の「化身」(1986年)という映画が好きだ。主演は藤竜也と黒木瞳。黒木瞳は宝塚を辞めたばかりの頃だった。助演に作詞家の阿木耀子と三田佳子が出ていた。原作は渡辺淳一の同名小説で、正直言って、小説より映画の方が優れていたと思う。小説は上下二巻あってやたらと長く、途中で飽きて投げ出した覚えがある。私はどうも渡辺淳一という作家が体質的に合わない感じを持っている。彼の映画論も好きでない。
 「化身」という映画を私は三度見ている。理由ははっきりしている。藤竜也が好きなこと、この映画の黒木瞳が素晴らしいこと、そして映画の出来が良いこと。さらに付け加えれば、最後に流れる高橋真梨子の主題歌「黄昏人」が好きなことであろうか。
 この映画は、題名通り、女性が美しく化けていくストーリーである。主人公は秋葉という中年作家(藤竜也)で、妻(三田佳子)とは離婚し、今は母親と二人で暮らしている。彼には古くからの愛人(阿木耀子)がいるのだが、やや腐れ縁に近く、関係はだれている。そんなある日、とあるバーで霧子という名の田舎出の若い女の子(黒木瞳)に出会う。彼女はバイトで働いているのだが、化粧気のない初々しさに秋葉は一目惚れしてしまう。まあ、よくある話で、中年男が若い女に入れ込んでいくと、どうなるか?まず、女の欲しがる服やなんかを買い与える。女は着飾って美しくなる。それを見て男は喜び、女は嬉しさを肉体で表し、男に尽くす。こうなるとずぶずぶとはまっていく。挙句の果ては女をマンションに住まわせ、アクセサリーの店まで持たしてやる。昔の愛人は嫉妬する。若い女は増長して自己主張が強くなる。離婚した妻は冷たい目で見る……。
 この映画、藤竜也と黒木瞳のツーショットが実にいいのだ。女がめきめき美しくなっていくのに対し、男はだんだん駄目になっていく。次第に逆転していく関係。「化身」は、男と女のこうした変化を映像の流れに沿って巧みに描いた秀作だったと思う。