背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

落語「芝浜」(その2)

2012年06月26日 20時27分18秒 | 落語
 三一書房の「古典落語大系 第三巻」(昭和44年刊)に「芝浜」が載っている。これは志ん生の演じた「芝浜」を基にしたもので、編者の一人である江國滋が、解説文の中で三木助の「芝浜」を文学的芝浜とし、志ん生のを落語的芝浜として区別している。
 つまり、文学的芝浜は新作(あるいは改作)、落語的芝浜は旧作ということで、前回、引用した柳亭左楽の「芝浜」(昭和初期の速記)は、もちろん旧作の落語的芝浜である。
 両者の違いはどこにあるかと言うと、時間的な長さも倍近く違うし、主人公の魚屋が新作は勝五郎、旧作が熊五郎という点もあるが、一番の違いは、亭主が最初に起きて出かけた後、芝浜へ行って革財布を拾うまでの場面があるかないか、である。
 旧作では、熊五郎が出かけた後、同じ家の場面が続き、すぐに熊五郎があわてて戻って来て、女房に財布を拾ったことを報告するという形をとる。新作では、場面が変り、勝五郎が師走の寒い夜中に家を出て芝浜に着き、増上寺の鐘(あるいは切通しの鐘)を聞き、海辺で顔を洗い、日の出を拝み、煙草を一服し、波打ち際に浮ぶ紐を見つけて、キセルの雁首で手繰り寄せると革財布だった、というまでの経緯を事細かに描く。この間、勝五郎のモノローグがずっと続くわけだ。
 財布を拾って戻って来てから、夫婦揃って喜び、金の勘定をするまでは同じで、旧作はぴったり五十両、新作は八十二両、四十八両、四十二両とまちまちだが、金額の違いはさほど重要ではない。そこからの展開がたいぶ違っていて、それが問題なのである。
 旧作では、この金でこれからは思う存分贅沢ができると言う熊五郎に対し、女房がちょっと不安になり、拾った金を勝手につかってもいいのかどうかと尋ねるが、熊五郎は取り合わない。そこで女房は財布は預かっておくからもう一度寝るようにとしつこく勧め、熊五郎はまた寝ることになる。昼頃女房が熊五郎をもう一度起す。ここがポイントで、最初と同じように女房が熊五郎を起こす場面が繰り返される。すると熊五郎は、そのまま湯に行って、また帰って来る。この後の場面は旧作ではちゃんとあって、友達がやって来て実際に会話があり、宴会が始まる。その後、熊五郎が酔っ払ってまた寝てしまい、夕方過ぎに目を覚ますという説明があり、ここから女房と熊五郎のやり取りが始まる。女房が酒肴の払いをどうするのかと尋ね、熊五郎が拾った財布の金で払えばいいじゃないかと言うと、女房が驚いて、「そんな財布なんか知らないよ、お前さん、夢みたんだよ」と言うわけだ。
 つまり、ここで旧作では、熊五郎だけでなく、聴いている客のわれわれにも、「あれっ、財布を拾ったのは夢なんだ」と思わせなければならない。そうした演出をとっている。だから、熊五郎が「そうすると、金を拾ったのは夢で、酒を飲んだのはほんとか!」と言う言葉が生きてくるわけだ。ここまですべて一日の出来事である。
 志ん生が三木助の「芝浜」を評して、「あれじゃ、財布を拾ったことが夢にならない」と言った意味は、つまりそういうことなのである。芝浜の情景描写をリアルにやりすぎると、後で客はそれが夢だと思わなくなり、女房が亭主をだましていることも途中でバレてしまう。何度も「芝浜」を聴いていると、そのへんのところはどうでも良くなってしまうが、初めて「芝浜」を聴いた人がどう思うかが、落語の構成上大切なのである。この噺の意外性や面白さを志ん生は復活させようとして、あえて旧作を演じたのだと言えよう。
 新作では、金勘定した後、勝五郎がすぐに友達を呼んで祝い酒をやろうと言うと、女房がまだ朝早いし昼過ぎまで待った方がいいと言う。そこで仕方なく勝五郎は昨夜飲み残した酒を飲んで、いい気持ちになっていく。三木助は、ここで酒好きな勝五郎の様子を描く。さて、昼過ぎに勝五郎が起きてからのその日の出来事は省略して、翌朝になる。そして、また最初と同じように女房が熊五郎を起すわけである。女房が、財布を拾ったことなど知らないし、夢だと言うわけだ。前日の昼過ぎに起きてから湯に行って友達を呼んで宴会をしたことはその時女房の口から語られ、これは夢ではなく事実だと言われる。完全に女房がとぼけて、亭主をだましていることが明らかに客に分ってしまうのだ。

 三木助の文学的芝浜すなわち新作は、昭和二十年代半ばに考案されたもので、安藤鶴夫ほか取り巻きのブレインの意見が反映されたものだと言われるが、本当のところは分らない。三木助の「芝浜」の実演の録音はいくつか残っているようだが、いずれもラジオ放送の時のもので(私が先日聞いた録音は昭和29年暮のもの)、放送用の短縮版だということだ。速記した記録としては、安藤鶴夫編「わが落語鑑賞」(昭和40年刊筑摩叢書)所収の「芝浜」が全長版である。これを読むと、演じるのに多分一時間はかかるのではないかという長さである。
 三木助の「芝浜」のマクラに、隅田川の白魚の話がいろいろと出て来るが、このマクラ、「芝浜」の内容にはあまり合っていないと私は思っている。江戸前の粋なエピソードを紹介しているつもりなのだろうが、かえって嫌味である。芭蕉の俳句を引用するのもぺダンティックで好感が持てない。
 マクラとしては、酒好きはなかなか酒がやめられないといった内容の方が適切だと思う。ただし、志ん生の「芝浜」のように、マクラの後で、酒飲みの熊五郎が昼休みについ酒を飲んでしまい、魚を腐らせて商売をしくじる話を入れるのもあまり良くないと思っている。そこまで熊五郎をだらしなくするのはどうであろうか。志ん朝の「芝浜」はこの部分をさらに増幅して演じるので、ダレる。正直、あまり良いとは思えない。やはり、さりげない一般論のマクラがあって、ストレートに、女房が亭主を起す場面に入るといった演じ方が最適だと思う。
 談志の「芝浜」は、三木助の文学的芝浜を継承したものだが(旧作の演じ方は談志には向かないと思う)、マクラに難があるとはいえ、はなしの入り方は一番いい。私の聴いた談志の「芝浜」はずいぶん前に録音されたものらしく、声も若々しく、話し方も一気呵成で素晴らしいと思った。随所に工夫が感じられ、三木助の「芝浜」と比較して見ると、明らかにその改良版である。どこかで、談志が三木助の「芝浜」はあまり好きでないような発言をしているのを読んだことがあるが、細かい描写は完全に三木助の「芝浜」を模倣していることは確かだ。(つづく)
*先日インターネットで談志の晩年(5年ほど前)の「芝浜」を観たが、ひどがった。芸が荒れて、品がなく、くどすぎて、これでは三木助の「芝浜」の改悪版だと思った。若い頃の談志の「芝浜」の方がはるかに良かった。途中でやめようと思ったが、最後まで見ていたら、女房の打ち明け話がくどいのなんの、泣いたり嘆願したり、もう最悪だった。
  



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