背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その35)~これまでの総括と雑感

2014年05月24日 23時38分07秒 | 写楽論
 「諸家人名江戸方角分」と「浮世絵類考」について、長々と書いてきましたが、現在のところ私が考えていることをまとめてみます。

 まず、「諸家人名江戸方角分」は、後世の作ではないかという疑念が消えません。ここに書かれた情報は、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいたが、文政元年までにすでに死亡している(死亡の表記はあとで付け加えたという説明もある)、ということだけです。地蔵橋という特定された地点が書かれていますが、写楽が八丁堀に住んでいるという記述は、「浮世絵類考」の三馬の補記にもあるわけですから、別にそれほど重視せずに、無視してもかまわないのではないかと思います。三馬がこの「江戸方角分」を見て補記を書いたとか、斎藤月岑が「江戸方角分」の記述から調査して、能役者の斎藤十郎兵衛を突き止めたとかいった推定は、根拠がないと思います。中野三敏氏ほか、「江戸方角分」にある大田南畝の奥書を信じて疑わない学者たちは、傍証も示して、これが本物だとぜひ証明していただきたい。著者でも編集者でもいいですが、三代目瀬川富三郎という人がどういう人物だということもよく分かっておらず、原本の存在も不確かで、写本が1冊、その転写本が1冊しかない「江戸方角分」を、文化14年頃に三代目瀬川富三郎が書いたものであると即断してしまう軽卒さは、学者としてのレベルの低さを露呈していると思います。
 次に、「浮世絵類考」の写楽についての三馬の補記ですが、八丁堀に住んでいるという情報は、町の風聞にしろ、重要なことです。三馬は写楽が誰だか知らなかったかもしれませんが、写楽という絵師の描いた役者絵を見ていたことは確かでしょうし、写楽が流派に属さない独特な絵師だという認識は持っていました。三馬の「稗史億説年代記」にある孤島で示した写楽の表記がそれを明らかにしています。
 「浮世絵類考」の補記で、最も重要なのは、栄松斎長喜老人が写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)という名だと言っていたという情報です。この朱筆の頭注を、誰がいつ書いたのかは分かりませんが、一応、後世のでっち上げではないのかということも疑ってかからなければならないと思います。それには、この頭注が書かれている二つの写本、「奈河本」と「達磨屋五一本」を比較し、頭注の筆跡を確かめ、詳細に検討してみる必要があります。この頭注は、私の推測では、天保2年以降に書かれたものであり、栄松斎長喜はすでに亡くなっていたと思われます。写楽が出現してから、30数年後の記載であり、なぜその頃になって、このような情報が飛び出したのか不思議な印象を受けます。
 斎藤月岑の補記、「斎藤十郎兵衛、阿波侯の能役者なり」は天保15年、写楽出現50年後の記述であり、これも何を根拠に書いたのかが不明です。しかし、月岑がこれを書いた以上、何か確かな情報をつかんでいたことは間違いありません。月岑は、「奈河本」も「達磨屋五一本」も当時見ていなかったことは確実ですが、「写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)」だという話を別のルートから入手したようです。「能役者」だということは、月岑が調査して突き止めたのではないかと思います。その時、月岑は、国学者の村田春海(故人)の家の隣りに阿波侯お抱えの斎藤与右衛門という能役者が住んでいて、その父が斎藤十郎兵衛ということを知ったのではないでしょうか。それにしても、写楽とこの斎藤十郎兵衛を結びつけるには、別の根拠がなくてはなりません。
 写楽=能役者斎藤十郎兵衛説で、いちばん弱いところは、斎藤十郎兵衛の画歴がまったく不明なことです。斎藤十郎兵衛という能役者が実在した人物であることは分かっていて、歿年も生年も家族構成もつかめているのですが、絵を描いていたという記録がまったくないわけです。また、版元の蔦屋重三郎との関係も分からず、そのつながりの細い線すら見えない状態にあります。写楽が描いた歌舞伎役者たちと斎藤十郎兵衛との関係も見えません。
 浮世絵師の英泉は「無名翁随筆」を書いた天保4年当時、写楽がどういう人物かについての情報をまったく知らなかったわけですが、斎藤月岑や「無名庵随筆」の写本を月岑に貸した石塚豊芥子がどこから写楽=阿波侯の士・斎藤十郎兵衛という情報を得たのか、いろいろな推測はできますが、立証資料がまったくありません。

 写楽という人物の捜索は、これまで主に四つの方面から行われてきました。
 一、画風と落款
 ニ、「浮世絵類考」の補記
 三、版元蔦屋重三郎とその周辺の人間関係
 四、歌舞伎役者および関係者
 ほかに、東洲斎写楽という名前の謎解きからの探究もあります。

 一は、これまでの写楽別人説の発生源でした。現在では、写楽=北斎説(田中政道氏)がそうです。能役者斎藤十郎兵衛説は、写楽の役者絵の顔が能面にそっくりだとする主張(定村忠士氏)、着物の文様が能衣裳から取ったとする主張(内田千鶴子氏)、写楽の二人像はシテとワキの構図であるという主張など。
 また、イタリアの美術史研究家のモレルリが発見した識別法を用い、写楽が描いた人物の耳と鼻の線の特徴から絵師を特定する研究もあります。松木寛氏の著書「蔦屋重三郎」には、写楽絵の耳の線の特徴から第一期・二期と第三期・四期は別の絵師であるという説が書かれています。
 私も第一期の大首絵と第三期の大首絵は、違う絵師が描いたとのではないかと思っています。初代写楽(東州斎)と二代目写楽存在説を私は考えています。 
 二については、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を肯定するか否定するかの出発点でしかなく、これ以上発展性がないような気もします。斎藤月岑とその関係者たちを調べて、能役者斎藤十郎兵衛説の根拠を調べるということも必要でしょうが、何か新しい事実が出て来るかどうか。
 三からは、蔦屋重三郎説、十返舎一九説、蔦屋工房の複数絵師説などが生まれています。榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」は、蔦屋重三郎論の先駆的研究で、読み応えがありますが、蔦重が写楽であるという立証はできませんでした。しかし、寛政の改革が始まってからの蔦重の動向についてはもっと調査しなければならないと思います。写楽という人物の来歴を知っていた最も重要な人物は蔦重であったことは絶対に間違いないからです。
 蔦重は寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で幕府から財産半減という処罰を受けたあと、経営上の危機に直面します。幕府の出版取締りで売れっ子作家が次々といなくなった上に、頼みの綱だった京伝の洒落本まで販売できなくなります。浮世絵では歌麿の美人画に望みを託しますが、それも寛永5年までで、その後、歌麿の離反もあり、この頃の蔦重は、死ぬほど悩んだのではないかと思います。しかし、蔦重は、聡明で発想も豊か、頭の切り替えも早い人物です。これは、ちらっと私の頭の片隅に浮かぶことなのですが、寛政6年前後に蔦重は京都大坂へ旅に行ったのではないか、そして、そこで役者絵を描いていた特異な才能を見つけ、のちに彼を江戸に呼んだのではないか。どうも私は、写楽が上方とつながりがあったような気がしてならないのです。写楽別人説には、上方の絵師の流光斎如圭だとする説があります。また、上方で活躍して江戸に下った沢村宗十郎や瀬川菊之丞との関係を重視する見方もあります。二人の絵をたくさん描いているからです。
 写楽の役者絵を見ていると、どうも江戸前ではないような感じがします。描き方が、エゲツナイのです。しゃれっ気もありません。春英や豊国や国政の大首絵と比べてみると、私なんかはこの三人の絵も大変好きなのですが(写楽がダントツに素晴らしいとは思いません)、なんか違う印象を受けます。
 四からは、池田満寿夫氏の中村此蔵説、歌舞伎研究者の渡辺保氏の狂言作者篠田金治説があります。どちらも根拠薄弱で、納得できませんが、ほとんど役者絵を描くことに終始した写楽が歌舞伎役者や関係者と深いつながりがあったという説は、もっと突き詰めてみなければならないと思っています。歌舞伎堂艶鏡=中村重助説に私は興味を覚えます。落合直成という人が大正時代に立証したとされていますが、その根拠を調べてみたい。また、以前に書きましたが、大谷鬼次が東洲という俳号で、中村助五郎が魚楽という俳号だったことも何かのヒントで、もっと調べると、東洲斎写楽という名前の謎が解けるかもしれない、と思っています。先日、榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」を読んでいたら、歌舞伎研究家の伊原青々園がそれを指摘していたことを知りました。写楽は、鬼次や助五郎と親しくしていたのではないかという意見です。

 この一ヶ月、写楽についていろいろな本を読んできましたが、現在私が興味を持っているのは、三と四からの捜索で、蔦屋重三郎と彼の周辺にいた絵師や作者たち、そして、歌舞伎役者と狂言作者たちの寛政6年前後の動向です。
 それと、写楽については、ゼロから出発した方が良いのではないかという気がしています。
 最近思うのですが、写楽は、「しゃらく」と読むのかどうかも分からないわけです。もしかすると、本人は「しゃがく」と読むつもりだったのかもしれません。写楽は、自分の画号「東洲齋寫樂」(落款通り旧字にしておきます)にだけは、非常にこだわっていたと思います。デビュー時から、斎号(一家を成した人物が使うもので、武家出身の本画師の使用例が多い)をつけ、五字で画数の多い、彫師泣かせの名前です。第一期・第二期の役者絵では、この画号を窮屈そうな余白に必ず入れています。時には二行にしても書き込んでいます。
 写楽は、その来歴をわざと隠したという見方も本当なのかなあと私は思っています。謎の絵師写楽が一人歩きして、後世の研究者が謎をふくらませすぎるようなきらいがあるのではないでしょうか。来歴、本名、生歿年など、写楽と同時代に活躍した浮世絵師の中にも、人物像がまったく分からない絵師がたくさんいます。喜多川歌麿だって、不明なことだらけなのです。栄松斎長喜も作画期が長いわりに、実像はまったくつかめていません。短期間で消えた絵師には、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶という謎の絵師もいます。まあ、写楽とは創作力と絵の素晴らしさの点で比較にはなりませんが……。
 浮世絵師というのは、町の絵描きで、職人の一種ですから、社会的身分も評価も低く、その絵を買って楽しむ庶民も、絵に描かれた人物や情景には興味を覚えても、絵師という人間に対してはにはほとんど関心がなかったのではないでしょうか。役者絵でいえば、描かれた役者にはものすごい興味を示しても、絵師にはその興味の10分の1もなかったように思います。ブロマイドを買って、スターの顔や姿に関心があっても、撮影者に関心がないとの同様です。
 絵師の本名、出身地、生家のことなどはどうでもよく、また第三者(たとえば戯作者)がそれを本人から聞いてどこかに書いておこうとすることもなかった、ということだと思います。要するに、作品がすべてで、売れるかどうかが勝負でした。江戸時代には、近代の個人主義といった観念はありません。独創性を重視する芸術家という意識もありません。人の絵を真似ても平気だったと思います。今で言う「パクリ」が平然と行われていたようです。ただし、浮世絵は職人芸ですから、同じ絵がそう簡単にできるわけではありません。
 写楽の絵は確かに独特ですが、近代美術の観点からそれを特別扱いするのは、問題があるような気がします。美術史研究者たちの写楽論は、読んでいて面白くありません。
 画家や詩人や小説家の写楽論の方がずっと面白く、写楽絵の愛好者(変わった人が多いようです)の写楽論も興味深いものがあります。
 



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