背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

ジェーン・フォンダ

2006年02月25日 19時37分42秒 | アメリカ映画

 ジェーン・フォンダにぞっこん惚れていた時期がある。あの豹のような顔、ぐっと見つめる鋭い目つき、意志の強そうな口元、そして、豊満でも痩せぎすでもない締まった肢体に魅せられていた。女とはこういうものだと、中学生の私は思った。もう今から40年も前のことだ。ジェーン・フォンダ(1937年~)に強く惹きつけられた最初の映画は、忘れもしない、「危険がいっぱい」(1963年)だった。フランスのルネ・クレマンが監督し、アラン・ドロンと共演したサスペンスあふれる白黒映画で、私は一発でジェーン・フォンダという女優のとりこになった。あの美男子アラン・ドロンを意のままに操り、時には弄ぶほどの魅力的ですごい女だった。もちろん、これは映画の役柄に過ぎなかったとはいえ、私の目には、ドロンでさえ、彼女の前ではかしずきそうな予感を抱いた。これは後で知ったことだが、「危険がいっぱい」というフランス映画に出演したことはジェーン・フォンダにとって人生の転機になった。ドロンが彼女を友人の映画監督ロジェ・ヴァディムに紹介したからである。
 ロジェ・ヴァディムという男は、男性の映画ファンにとっては羨望の的というか、嫉妬の対象にすらなった監督である。ドン・ファン監督とさえ言われ、若くて美しい女優を餌食にして映画を作ることで有名だった。カトリーヌ・ドヌーヴの後釜として、ヴァディムは事もあろうにジェーン・フォンダに手をつけた。ドヌーヴもフォンダも好きな私としてはヴァディムという男は憎き敵(かたき)なのだ。しかし、もうそのヴァディムも今はこの世に無い。

<ロジェ・ヴァディム(1928年~2000年)>
 ドロンに紹介され、ヴァディムはジェーン・フォンダを自作「輪舞」(1964年)に出演させた。制作時の二人のアツアツぶりはジャーナリズムの話題をさらったほどだと言う。ドヌーヴとは二年間の同棲生活の末、子供まで孕ませて彼女を棄てたヴァディムだったが、フォンダとは「輪舞」の直後に結婚した。そして、二人の結婚生活は八年続く。
 ヴァディムが若妻ジェーンを主役にして撮った映画は、「獲物の分け前」(66年)と「バーバレラ」(68年)である。どちらも、映画の出来はそこそこなのだが、ジェーン・フォンダだけは最高に輝いていた。先日、「獲物の分け前」を再見した。ストーリーは今にしてみればありきたりで、近親間の不倫話である。フォンダは20歳も年の離れた金持ちの実業家(ミッシェル・ピコリ)の妻の役。郊外の豪邸で若いピチピチした肉体をもてあまし、仕事で留守がちな夫に対し性的不満を抱いている。家には大学生の義理の息子(夫の連れっ子)が同居していて、二人とも我慢ができず、ついにただならぬ関係になってしまう。そして、二人で駆け落ちしようとする。この映画の中で、フォンダはセミ・ヌードを披露し、魅力の限りを振りまいている。

<獲物の分け前>
 この頃のフォンダは、演技力はまだまだ (後に開眼する)だが、しなるような瑞々しい肢体には男ならしゃぶりつきたくなるだろう。いや、ムチでも打ちたくなる。そんな男の願望に対し、これでもかと見せ付けた映画が次作「バーバレラ」だった。これはSF的な作品で、ジェーン・フォンダの衣装の大胆さが評判になった。私は高校生の時、封切りで「バーバレラ」を見て、彼女に圧倒されたのを覚えている。ぜひもう一度見たい映画だが、フォンダの魅力だけで成り立っていた作品なので、今見たら失望しそうな気もしている。(冒頭に掲げた写真は「バーバレラ」の彼女である。)
 他にもジェーン・フォンダの出演作はたくさんある。アメリカ映画では、デヴュー作「のっぽ物語」(60年、アンソニー・パーキンス演じるバスケットボール選手との青春恋愛ドラマ)、「裸足で散歩」(67年)、「ひとりぼっちの青春」(69年)が佳作である。そして、ヴァディムとの仲が冷え切っていくにしたがい、ジェーン・フォンダは別の面で過激になっていく。いわゆるセクシー女優から脱皮して、演技派女優の道へと歩み出すと同時に、反戦運動の女闘士としても活躍し始めた。演技派への転身は歓迎すべきことであったが、なりふりかまわず政治活動に傾いていく彼女を見ることは、ファンのわれわれにとって大きな驚きで、いささか眉をひそめたくなる言動に思えたことも確かである。
 その後、「コール・ガール」(71年)、「ジュリア」(77年)、「帰郷」(78年)、「チャイナ・シンドローム」(79年)、「黄昏」(81年、生き別れずっと恨んでいた父親ヘンリー・フォンダと共演した名作)と、ジェーン・フォンダは次々と大作に挑戦し演技派女優としての地位を築いていく。が、もうこの頃には、彼女への私の熱情もすっかり冷めていたのだから、ファンというのも気まぐれなものだ。女優への熱き思いは、映画の良し悪しとは無関係に、ファンの心の中で勝手に募っていくものなのかもしれない。

ドリス・デイの「夜を楽しく」

2006年02月25日 15時49分17秒 | アメリカ映画

 ドリス・デイとロック・ハドソン共演のロマンティック・コメディ「夜を楽しく」(1959年)を見た。この映画、昔テレビで見たことがあった。その時は、とても楽しい映画だと思っただけだったが、今もう一度見ると、ハッピーな気分を通り越して、懐かしさで胸が一杯になった。古き良き50年代のアメリカに久しぶりに再会したとでも言おうか。今のアメリカ、私が嫌いになってしまったアメリカとは違う、私が好きだった頃のアメリカがそこにはあった。そして、前向きで底抜けに楽天的なアメリカ人がいた。
 ドリス・デイ。彼女は女優というよりも大衆的な歌手だった。いや、50年代にアメリカ人に最も愛された女性芸能人と言った方が良いかもしれない。決して美人ではないが、家庭的で親しみやすく、ひと頃アメリカでは結婚したい女性のナンバーワンだったかと思う。(同時代のマリリン・モンローは恋人にしたい女性ナンバーワンだった。)調べてみると、ドリス・デイは父親がドイツ人で(そう言えば、彼女はドイツ人っぽい顔をしている)、そして本名がやたらと長い。ドリス・メアリー・アン・フォン・ケッペルホッフ。それに比べ、芸名はずいぶん縮めたものだ。あの明るい人柄からは想像できないが、実生活では大変不幸だったようだ。両親の離婚(8歳の時)、交通事故(14歳)、若くして結婚・出産・離婚(なんと18歳)。ドリスの大ヒット曲「センチメンタル・ジャーニー」は、1944年彼女が20歳の頃の歌である。愛する者との惜別を歌った悲しい曲だが、きっと自分の気持ちを込めて歌ったのだろう。そして、一躍人気歌手になり、二度目の結婚をするが、1年もせず離婚。その後映画界にデヴューし、また結婚。仕事が多忙で、ノイローゼに罹り、三番目の夫とも死別(43歳の時)。映画女優を引退してしまう。(以後テレビのショー番組にだけ出演していた。)その間、ドリス・デイは歌に映画にとあの元気と愛嬌を振りまき、人々を幸福にしてきた。ヒット曲には「二人でお茶を」「先生のお気に入り」「ケセラセラ」などがあるが、他にも良い歌がたくさんある。彼女の歌声を聴いていると、自然と心がぬくもる。私はドリスの歌が大好きである。この映画の原題である「ピロウ・トーク(Pillow Talk)」という主題歌も粋な歌だった。挿入歌「ローリー・ローリー」を歌う場面も圧巻である。
 さて、原題の「ピロウ・トーク」とは、男と女が枕を共にして睦み合う時の会話、つまり「睦言(むつごと)」という意味だが、映画の内容はタイトルとはずいぶんかけ離れていた。ベッド・シーンなど一つもないからだ。邦題の「夜を楽しく」もシャレた訳だが、要するにこの映画は「夜を楽しく」過ごしたいという女性のエロチックな願望を面白おかしく描いたものだった。
 ドリス・デイは、ジャン・モロー(フランス女優ジャンヌ・モローをもじったのか?)という名の売れっ子のインテリア・デザイナーである。今で言うキャリア・ウーマンなのだが、あいにく30歳を過ぎても独身で、恋人もいない。ニューヨークの高級アパートで一人暮らしをしているが、共同電話が悩みの種である。共同電話というのがいかにも旧時代のシロモノで、携帯全盛の今なら考えられないことだが、同じ回線を二軒で分かち合うため、片方がお話中だと一方は電話を使えない。それに互いの会話が筒抜け、盗聴も可能で、第三者として割り込むこともできる。この共同電話のもう一人の使用者がロック・ハドソンで、顔は見たこともないが声だけは知っている男、実は女たらしの作曲家なのだ。朝っぱらから女と長電話、「昨夜は良かった、愛してるよ」みたいな話をしているのだから、堪らない。ピアノでいつも同じラブ・ソングを弾き語り、女の呼び名だけ歌詞を変えて君のために作ったなんてウソをつき、受話器の向こうにいる相手に聴かせたりしている。もう、文句の一つや二つもつけたくなる。途中で割り込み、「いい加減にして、早く切ってよ!」となる。すると、男も負けていない。「欲求不満をこっちにぶつけないでくれ!」男女間の欲求不満は、「ベッドルーム・プロブレム」(bedroom problems)という英語を遣っていた。ずいぶん直接的な表現だ。ドリス・デイが化粧台の鏡に向かい、「ベッドルーム・プロブレム?」と一人つぶやくシーンがあって、この時の表情がなんとも可愛い。ここから、共同電話のパートナーである二人の関係が意外な方向に発展していくのだが、それは見てのお楽しみ。

 ところで、ロック・ハドソン。ハリウッドの二枚目俳優で、50年代後半から60年代にかけて人気絶頂だった。シリアスな演技よりも、ちょっと三枚目的なコミカルな演技をするハドソンが私は好きだった。ハンサムな男優はどうしても大根役者に見られがちで、若い頃はとくにそうだが、年を取ってくると枯れた味が出てくることも多い。ゲーリー・クーパーなんかそうだ。しかし、ロック・ハドソンは、リメイク版「武器よさらば」(1957年)でクーパーと同じ主役を演じたにもかかわらず、60年代半ばを境に映画俳優としてのキャリアをほとんど終えてしまった。あれだけ人気があったのに、中年になると落ち目も早かった。この映画「夜を楽しく」からドリス・デイとの共演が2本続くが、この頃が彼の全盛期だった。そして、ハドソンの最期はみじめだった。1985年のこと。エイズにかかって死んだことが大々的に報道されたのである。享年60歳。当時、エイズ死を遂げた最初の有名芸能人ということで話題を独占したが、なんとも後味の悪い最期だった。「ジャイアンツ」(1956年)で共演したエリザベス・テーラーなど、ハドソンをかばって、マスコミの悪意ある報道を批判したほどである。
 話が急に暗くなってしまった。「夜を楽しく」という映画は、セリフのやりとりが実に面白い。助演者も良い。ハドソンの相棒にトニー・ランドール、彼も欠かせぬ存在だった。家政婦役のセルマ・リッター、彼女もいい味を出していた。フランスの男優マルセル・ダリオも出演していたが、彼だけはちょっとオーバー・アクションで浮いている印象を受けた。
 久しぶりに昔懐かしいアメリカのロマンティック・コメディを観て、今また私はこの手の映画に「はまりそうな」予感がしている。

倍賞千恵子の「下町の太陽」

2006年02月19日 08時44分23秒 | 日本映画

 倍賞千恵子と言えば、「男はつらいよ」のさくら役をあまりにも長い間続けていたので、そのイメージが定着してしまったようだ。彼女は二十歳後半から五十歳半ばを過ぎるまで、ずっと寅さんの妹として歩んできた。まさに女優人生の大半を「男はつらいよ」に捧げてしまった。いや、渥美清と山田洋次に捧げてしまったと言えるかもしれない。それはそれでえらいことだと私は思うのだが、半面「男はつらいよ」に出演し始める前から倍賞千恵子が好きだった私としては、さくら役一筋に絞って女優人生を過ごしてしまった彼女を惜しむ気持ちも抑えきれない。
 私はSKD(松竹歌劇団)時代の倍賞を知らない。初めて彼女を見たのは歌手としてだった。あの透き通るような美声で「下町の太陽」を歌っているのを何度もテレビで見て、子供心に素晴らしい歌手だと思った。「下町の太陽」は大ヒットして、確かレコード大賞の新人賞を取ったはずである。それから、時々喜劇映画に出演している彼女を見たことはあった。が、倍賞千恵子は映画女優というより歌手だという印象が強かった。「忘れ名草をあなたに」もヒットしたが、私も口ずさむほど好きな歌だった。
 「男はつらいよ」以前に倍賞千恵子が主演した映画で私が好きな作品は、「下町の太陽」(1963年)と「霧の旗」(1965年)である。どちらも山田洋次の若き日の監督作品で、倍賞と山田は切っても切れない関係なのだと思わざるをえない。この二作を私は映画館で観たのではない。封切り後10年ほど経ってテレビで見た。そしてビデオで見直して、歌手としてだけでなく女優としての倍賞千恵子のファンになった。
 「下町の太陽」は、歌が先で、歌のイメージを翻案して後で映画にしたものである。「男はつらいよ」の原型とも言える作品で、東京下町で暮らす老若男女の人間模様を描いた山田洋次の意欲作だった。ここには寅さんのような強烈なキャラクターは登場しないが、荒川の土手や工場や下町の風景は随所に出てくる。倍賞千恵子は町子(ずいぶん単純な名前だ)という女工員で、母親に先立たれ残された父親と弟二人の世話をしながら、恋や結婚問題に悩む若い女性を演じている。家族を励ます明るさと人を大切にする愛情の細やかさは寅さんの妹さくらに通じるものだが、この映画の倍賞はちょっと気丈で、自分の生き方を真面目に考えようとする前向きな姿勢がある。そこに好感が持てる。町子には付き合っている同僚の男(早川保)がいるのだが、出世欲が強い男の自己中心的な幸福感に次第に疑問を抱き始める。その時、町子に一目惚れした男(勝呂誉)が現れる。鉄工所で働く工員で、町子は彼のひた向きな愛と地道な生き方に共感を覚え、彼との結婚を匂わせてこの映画は終わる。この二人の関係は、「男はつらいよ」(第1作)のさくらとひろしのロマンスの前段階みたいなもので、「下町の太陽」はまさに後年の山田作品を方向付ける画期的な作品だった。
 倍賞千恵子は「霧の旗」では、まったく違った若い女性を見事に演じているが、この映画については稿を改めて書きたい。松本清張原作の映画には私が好きな作品も多く、「霧の旗」はぜひその中で取り上げたいと思う。