背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その35)~これまでの総括と雑感

2014年05月24日 23時38分07秒 | 写楽論
 「諸家人名江戸方角分」と「浮世絵類考」について、長々と書いてきましたが、現在のところ私が考えていることをまとめてみます。

 まず、「諸家人名江戸方角分」は、後世の作ではないかという疑念が消えません。ここに書かれた情報は、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいたが、文政元年までにすでに死亡している(死亡の表記はあとで付け加えたという説明もある)、ということだけです。地蔵橋という特定された地点が書かれていますが、写楽が八丁堀に住んでいるという記述は、「浮世絵類考」の三馬の補記にもあるわけですから、別にそれほど重視せずに、無視してもかまわないのではないかと思います。三馬がこの「江戸方角分」を見て補記を書いたとか、斎藤月岑が「江戸方角分」の記述から調査して、能役者の斎藤十郎兵衛を突き止めたとかいった推定は、根拠がないと思います。中野三敏氏ほか、「江戸方角分」にある大田南畝の奥書を信じて疑わない学者たちは、傍証も示して、これが本物だとぜひ証明していただきたい。著者でも編集者でもいいですが、三代目瀬川富三郎という人がどういう人物だということもよく分かっておらず、原本の存在も不確かで、写本が1冊、その転写本が1冊しかない「江戸方角分」を、文化14年頃に三代目瀬川富三郎が書いたものであると即断してしまう軽卒さは、学者としてのレベルの低さを露呈していると思います。
 次に、「浮世絵類考」の写楽についての三馬の補記ですが、八丁堀に住んでいるという情報は、町の風聞にしろ、重要なことです。三馬は写楽が誰だか知らなかったかもしれませんが、写楽という絵師の描いた役者絵を見ていたことは確かでしょうし、写楽が流派に属さない独特な絵師だという認識は持っていました。三馬の「稗史億説年代記」にある孤島で示した写楽の表記がそれを明らかにしています。
 「浮世絵類考」の補記で、最も重要なのは、栄松斎長喜老人が写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)という名だと言っていたという情報です。この朱筆の頭注を、誰がいつ書いたのかは分かりませんが、一応、後世のでっち上げではないのかということも疑ってかからなければならないと思います。それには、この頭注が書かれている二つの写本、「奈河本」と「達磨屋五一本」を比較し、頭注の筆跡を確かめ、詳細に検討してみる必要があります。この頭注は、私の推測では、天保2年以降に書かれたものであり、栄松斎長喜はすでに亡くなっていたと思われます。写楽が出現してから、30数年後の記載であり、なぜその頃になって、このような情報が飛び出したのか不思議な印象を受けます。
 斎藤月岑の補記、「斎藤十郎兵衛、阿波侯の能役者なり」は天保15年、写楽出現50年後の記述であり、これも何を根拠に書いたのかが不明です。しかし、月岑がこれを書いた以上、何か確かな情報をつかんでいたことは間違いありません。月岑は、「奈河本」も「達磨屋五一本」も当時見ていなかったことは確実ですが、「写楽は阿州侯の士で斎藤十郎平(兵衛)」だという話を別のルートから入手したようです。「能役者」だということは、月岑が調査して突き止めたのではないかと思います。その時、月岑は、国学者の村田春海(故人)の家の隣りに阿波侯お抱えの斎藤与右衛門という能役者が住んでいて、その父が斎藤十郎兵衛ということを知ったのではないでしょうか。それにしても、写楽とこの斎藤十郎兵衛を結びつけるには、別の根拠がなくてはなりません。
 写楽=能役者斎藤十郎兵衛説で、いちばん弱いところは、斎藤十郎兵衛の画歴がまったく不明なことです。斎藤十郎兵衛という能役者が実在した人物であることは分かっていて、歿年も生年も家族構成もつかめているのですが、絵を描いていたという記録がまったくないわけです。また、版元の蔦屋重三郎との関係も分からず、そのつながりの細い線すら見えない状態にあります。写楽が描いた歌舞伎役者たちと斎藤十郎兵衛との関係も見えません。
 浮世絵師の英泉は「無名翁随筆」を書いた天保4年当時、写楽がどういう人物かについての情報をまったく知らなかったわけですが、斎藤月岑や「無名庵随筆」の写本を月岑に貸した石塚豊芥子がどこから写楽=阿波侯の士・斎藤十郎兵衛という情報を得たのか、いろいろな推測はできますが、立証資料がまったくありません。

 写楽という人物の捜索は、これまで主に四つの方面から行われてきました。
 一、画風と落款
 ニ、「浮世絵類考」の補記
 三、版元蔦屋重三郎とその周辺の人間関係
 四、歌舞伎役者および関係者
 ほかに、東洲斎写楽という名前の謎解きからの探究もあります。

 一は、これまでの写楽別人説の発生源でした。現在では、写楽=北斎説(田中政道氏)がそうです。能役者斎藤十郎兵衛説は、写楽の役者絵の顔が能面にそっくりだとする主張(定村忠士氏)、着物の文様が能衣裳から取ったとする主張(内田千鶴子氏)、写楽の二人像はシテとワキの構図であるという主張など。
 また、イタリアの美術史研究家のモレルリが発見した識別法を用い、写楽が描いた人物の耳と鼻の線の特徴から絵師を特定する研究もあります。松木寛氏の著書「蔦屋重三郎」には、写楽絵の耳の線の特徴から第一期・二期と第三期・四期は別の絵師であるという説が書かれています。
 私も第一期の大首絵と第三期の大首絵は、違う絵師が描いたとのではないかと思っています。初代写楽(東州斎)と二代目写楽存在説を私は考えています。 
 二については、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を肯定するか否定するかの出発点でしかなく、これ以上発展性がないような気もします。斎藤月岑とその関係者たちを調べて、能役者斎藤十郎兵衛説の根拠を調べるということも必要でしょうが、何か新しい事実が出て来るかどうか。
 三からは、蔦屋重三郎説、十返舎一九説、蔦屋工房の複数絵師説などが生まれています。榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」は、蔦屋重三郎論の先駆的研究で、読み応えがありますが、蔦重が写楽であるという立証はできませんでした。しかし、寛政の改革が始まってからの蔦重の動向についてはもっと調査しなければならないと思います。写楽という人物の来歴を知っていた最も重要な人物は蔦重であったことは絶対に間違いないからです。
 蔦重は寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で幕府から財産半減という処罰を受けたあと、経営上の危機に直面します。幕府の出版取締りで売れっ子作家が次々といなくなった上に、頼みの綱だった京伝の洒落本まで販売できなくなります。浮世絵では歌麿の美人画に望みを託しますが、それも寛永5年までで、その後、歌麿の離反もあり、この頃の蔦重は、死ぬほど悩んだのではないかと思います。しかし、蔦重は、聡明で発想も豊か、頭の切り替えも早い人物です。これは、ちらっと私の頭の片隅に浮かぶことなのですが、寛政6年前後に蔦重は京都大坂へ旅に行ったのではないか、そして、そこで役者絵を描いていた特異な才能を見つけ、のちに彼を江戸に呼んだのではないか。どうも私は、写楽が上方とつながりがあったような気がしてならないのです。写楽別人説には、上方の絵師の流光斎如圭だとする説があります。また、上方で活躍して江戸に下った沢村宗十郎や瀬川菊之丞との関係を重視する見方もあります。二人の絵をたくさん描いているからです。
 写楽の役者絵を見ていると、どうも江戸前ではないような感じがします。描き方が、エゲツナイのです。しゃれっ気もありません。春英や豊国や国政の大首絵と比べてみると、私なんかはこの三人の絵も大変好きなのですが(写楽がダントツに素晴らしいとは思いません)、なんか違う印象を受けます。
 四からは、池田満寿夫氏の中村此蔵説、歌舞伎研究者の渡辺保氏の狂言作者篠田金治説があります。どちらも根拠薄弱で、納得できませんが、ほとんど役者絵を描くことに終始した写楽が歌舞伎役者や関係者と深いつながりがあったという説は、もっと突き詰めてみなければならないと思っています。歌舞伎堂艶鏡=中村重助説に私は興味を覚えます。落合直成という人が大正時代に立証したとされていますが、その根拠を調べてみたい。また、以前に書きましたが、大谷鬼次が東洲という俳号で、中村助五郎が魚楽という俳号だったことも何かのヒントで、もっと調べると、東洲斎写楽という名前の謎が解けるかもしれない、と思っています。先日、榎本雄斎氏の「写楽 まぼろしの天才」を読んでいたら、歌舞伎研究家の伊原青々園がそれを指摘していたことを知りました。写楽は、鬼次や助五郎と親しくしていたのではないかという意見です。

 この一ヶ月、写楽についていろいろな本を読んできましたが、現在私が興味を持っているのは、三と四からの捜索で、蔦屋重三郎と彼の周辺にいた絵師や作者たち、そして、歌舞伎役者と狂言作者たちの寛政6年前後の動向です。
 それと、写楽については、ゼロから出発した方が良いのではないかという気がしています。
 最近思うのですが、写楽は、「しゃらく」と読むのかどうかも分からないわけです。もしかすると、本人は「しゃがく」と読むつもりだったのかもしれません。写楽は、自分の画号「東洲齋寫樂」(落款通り旧字にしておきます)にだけは、非常にこだわっていたと思います。デビュー時から、斎号(一家を成した人物が使うもので、武家出身の本画師の使用例が多い)をつけ、五字で画数の多い、彫師泣かせの名前です。第一期・第二期の役者絵では、この画号を窮屈そうな余白に必ず入れています。時には二行にしても書き込んでいます。
 写楽は、その来歴をわざと隠したという見方も本当なのかなあと私は思っています。謎の絵師写楽が一人歩きして、後世の研究者が謎をふくらませすぎるようなきらいがあるのではないでしょうか。来歴、本名、生歿年など、写楽と同時代に活躍した浮世絵師の中にも、人物像がまったく分からない絵師がたくさんいます。喜多川歌麿だって、不明なことだらけなのです。栄松斎長喜も作画期が長いわりに、実像はまったくつかめていません。短期間で消えた絵師には、歌舞伎堂艶鏡、勝川春艶という謎の絵師もいます。まあ、写楽とは創作力と絵の素晴らしさの点で比較にはなりませんが……。
 浮世絵師というのは、町の絵描きで、職人の一種ですから、社会的身分も評価も低く、その絵を買って楽しむ庶民も、絵に描かれた人物や情景には興味を覚えても、絵師という人間に対してはにはほとんど関心がなかったのではないでしょうか。役者絵でいえば、描かれた役者にはものすごい興味を示しても、絵師にはその興味の10分の1もなかったように思います。ブロマイドを買って、スターの顔や姿に関心があっても、撮影者に関心がないとの同様です。
 絵師の本名、出身地、生家のことなどはどうでもよく、また第三者(たとえば戯作者)がそれを本人から聞いてどこかに書いておこうとすることもなかった、ということだと思います。要するに、作品がすべてで、売れるかどうかが勝負でした。江戸時代には、近代の個人主義といった観念はありません。独創性を重視する芸術家という意識もありません。人の絵を真似ても平気だったと思います。今で言う「パクリ」が平然と行われていたようです。ただし、浮世絵は職人芸ですから、同じ絵がそう簡単にできるわけではありません。
 写楽の絵は確かに独特ですが、近代美術の観点からそれを特別扱いするのは、問題があるような気がします。美術史研究者たちの写楽論は、読んでいて面白くありません。
 画家や詩人や小説家の写楽論の方がずっと面白く、写楽絵の愛好者(変わった人が多いようです)の写楽論も興味深いものがあります。
 


写楽論(その34)~「浮世絵類考」(8)

2014年05月24日 23時15分21秒 | 写楽論
その後の「浮世絵類考」の変遷史と写楽についての補記は以下の通りです。

 享和2年(1802)、山東京伝が「浮世絵類考追考」を書く。これは、京伝が手書きして綴った私家版と言えるもので、「浮世絵類考」を参照しながら、さらに初期の浮世絵師を付け加え、考証的な文を書き足したもの。菱川氏および英氏の系図も作成。同年10月に、京伝は「浮世絵類考追考」を脱稿する。
 ただし、京伝は写楽について一言も加えていない。

 文政元年(1818)、大田南畝が京伝(文化13年=1816年に死去)の私家版「浮世絵類考追考」を巻末に加え、「類考」本文、笹屋邦教の「付録」と合わせ、三部作として完成させる。
京伝の「追考」の後にある南畝の奥書は、

右追考 山東京伝手書本
    文政元年戊寅六月晦日            七十翁蜀山人


 文政元年(1818)から文政4年(1821)頃までに、式亭三馬(1776~1822)が本文、付録、追考の三部作に補記を書き込む。三馬が参照した「浮世絵類考」三部作は、南畝の稿本なのか、それとも誰かがそれを書写した写本だったのか、不明である。ともかく、三部作が完成して間もなく、それが三馬の手に渡ったことは間違いない。しかも、三馬は、時間をかけて、調査し、念入りに書き込んでいる。また、絵師によって書き足りないことは、「委シクハ別ニ記ス」と加えているように、別原稿を用意していたことは明らかである。三馬の自筆本は現存せず、おそらくかなりの分量の別原稿も、三馬の死(文政5年1月)によって、未定稿のまま消失したようである。
 写楽について、三馬の補記は、「三馬按、写楽号東周斎、江戸八丁堀ニ住ス、僅ニ半年余行ハルゝノミ」(写本によって記述の多少の違いあり)である。
 「類考」研究者の由良哲次は、三馬の補記のある「類考」三部作で、最も原初段階に近い写本として、「スターン氏本」を挙げ、三馬の補記は、「三馬按るに写楽号東周斎江戸八町堀に住す僅に半年余行るといふ」とあると述べ、最後の「といふ」という伝聞表現を重視しています。つまり、三馬は、写楽の住所について、町の風聞を記したのであり、写楽のことを三馬はよく知らなかったという説を由良哲次はとっているわけです。また、句読点で区切るのも、原文に忠実ではなく、良くないと主張しています。
 由良哲次には遺作とも言える大著「総校日本浮世絵類考」(画文堂 昭和54年)があるが、私はまだ読んでいません。季刊「浮世絵」35・36号所収の由良哲次の論文によってその一端を知るだけです。また、文献学者の北小路健氏が美術雑誌「萌春」197号~246号(昭和46年3月~50年8月)に連載した「浮世絵類考論究」も類考研究にとっては定評のあるものらしいのですが、これも未読です。

 前回書いた古い写本に以下の二つを追加しておきます。
五、「神習本
 井上頼国旧蔵、現在神宮文庫所蔵。「浮世絵人名考」とあり、奥書に、
文化十年八月 以南畝翁蔵本写、野木瓜亭主人
 これは野木瓜亭こと大草公弼という幕臣で考証家だった人が所蔵していた写本だそうです。「曳尾庵本」(文化12年書写)より2年前の写本です。(前回書いた「曳尾庵本」について、曳尾庵は此君亭という人の写本を転写したことが分かりました。此君亭は、文化5年に写本を作成したとのこと)
「神習本」は「野木瓜亭本」とも呼ばれている写本で、その異本には写楽について次のような補記があることが知られています。

以画俳優肖像得時名又能油画号有隣享和元年卒

 後半が問題で、「また油絵をよくし、号を有隣、享和元年死去」という内容です。これは浮世絵研究者の井上和雄が雑誌「浮世絵」48号(大正8年6月)で紹介したもの。しかし、写本の転写本だそうで、本文と同一筆者が記入したのか、後の人の筆か判明しない(原本は所在不明)。(鈴木重三編、講談社版・浮世絵美人画役者絵6「写楽」より)

六、「坂田文庫本
 坂田文庫蔵、南葵文庫蔵、現在東京大学総合図書館所蔵。明治初期の外務省役人で古書収集家の坂田諸遠(もろとお)が所有していた写本。表紙に「浮世絵類考」、内題に「浮世絵師の伝」。奥書には、文政4年4月、不二の屋が写したといったことが書かれている。写楽については、朱筆で「イニ写楽斎トモ阿リ」と「東洲斎ト云」とある。また、その前ページに、国政の項があり、その次に、朱筆で「画名何ト云哉 俗名金次」とあり、その下に「薬研堀不動前通り、隅田川両岸一覧の筆者」と書いてある。これは葛飾北斎(文化3年に「隅田川両岸一覧」の画本を出している)の記述が混入したのではないかと言われている。

七、「風山本
 神宮文庫の木村黙老「聞ままの記」十六巻収録の「浮世絵師考」。奥書に「右者己が心覚えのために写し置くもの也 文政辛巳年季南呂初旬 風山漁者筆」とある。文政4年8月の写本である。
 写楽について、「東洲斎と号す俗名金次」と「隅田川両岸一覧の作者にてやけん堀不動前通りに住す」が書き加えられている。「坂田文庫本」(風山漁者という書写した人がこの元本を参照したのではないかと由良哲次は推測している)の不明確な記述が写楽の中に紛れ込んでいる。

 以上は、三馬の補記のない写本。
 次に三馬の補記のある写本は、数多くあるそうですが、代表的なものを以下に挙げておきます。

一、「スターン氏本」(季刊「浮世絵」35号所収の由良哲次「写楽と稗史億説年代記および浮世絵類考」に紹介がある)
 アメリカ人のスターン博士(ワシントン市、国立フリアガレリー副館長)所蔵の写本。最後のページの奥書に「天保二竜春三月十一日写之 相徳 蔵本」とある。つまり天保2年に書写されたもの。この写本の所有者は、転々と変わり、浮世絵師の国周、達磨屋五一、書店三原堂などを経て、スターン氏に渡ったという。現在この写本が所蔵場所、またコピーを閲覧できるのかも不明。

二、「松平本
 大曲駒村編「浮世絵類考」(近代デジタルライブラリーで閲覧可)が底本にしたもの。歌舞伎作者の奈河本助が蔵前の書店田中長次郎から購入し(天保2年4月8日)、美作津山藩主の松平確堂の所有になった写本。

三、「静嘉堂文庫本
 岩崎弥之助・小弥太の父子二代にわたるコレクション(静嘉堂文庫)に納められている写本。世田谷の静嘉堂美術館で閲覧可。

四、「酉山堂本
 酉山堂(ゆうざんどう)は、江戸時代後期の書肆で、主人は酉山堂保次郎。斎藤月岑が書き写して参照した「浮世絵類考」の写本は、この「酉山堂本」と呼ばれるもの。現在横浜市図書館が所蔵していて、その複製が国立国会図書館にある。狩野亮吉博士、三田村鳶魚が一時期所有していたと言われる。

五、「奈河本助本
 二と同じく奈河本助の所蔵本。現在内閣文庫にある。閲覧可。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎平というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

六、「達磨屋吾一本
現在天理大学図書館所蔵。
「写楽は阿州侯の士にて俗称斎藤十郎兵衛というよし、栄松斎長喜老人の話なり(改行)周一作洲」という朱書の頭注がある。

ほかに、三馬の補記がある写本かどうか、今のところ未調査ですが、
故法室本」というのがあります。鈴木南稜の蔵書。内容も所蔵場所も私は未調査です。

 さて、その後の「浮世絵類考」増補本としては、
●渓斎英泉の「無名翁随筆」(=「続浮世絵類考」)
 天保4年(1833年)、浮世絵師・渓斎英泉が概説「大和絵師浮世絵之考」と「吾妻錦絵之考」を巻頭に置き、新たに浮世絵師(合計86名)を加え、本文も大幅に補記したもの。上下二巻。良写本見当たらず、国立国会図書館蔵の「燕石十種」所収の翻刻本があるのみ(ただし、「燕石十種」は昭和54年発行の中央公論社版がある)。写楽に「五代目白猿……」以下、描いた役者の名前の列記が加わる。ただし、「奈河本」「達磨屋五一本」に書き込まれた長喜からの伝聞の頭注はない。

●斎藤月岑の「増補浮世絵類考
 天保15年(1844年)、斎藤月岑(1804~1878)が「浮世絵類考」の写本と友人の石塚豊芥子所蔵の「無名翁随筆」を補記したもの。天地人の三巻。「ケンブリッジ本」(ケンブリッジ大学図書館所蔵)は、月岑の自筆本であり、増補版発行のための原稿というべきもの。「近世文芸 資料と考証」2号3号(七人社 板坂元編・棚町知弥翻字)に翻刻がある。ところどころに空白部が残っているようだが、月岑はまだ書き加えるつもりだったらしい。この原稿は月岑の生存中は、出版されなかった。途中で版元に渡さず、出版を断念したのではあるまいか?しかし、下記の新増補版がこの本をもとに作られたということは、この写本が出回ったことは確かである。
 斎藤月岑によって、写楽について、以下の記述がなされる。

○写 楽      天明寛政中の人
   俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり
 号 東洲斎
歌舞伎役者の似顔を写せしが、あまりに真を画んとて、あらぬさまに書なせしかば、長く世に行れず、一両年にして止む 類考
  三馬云、僅に半年余行はるゝのみ
    五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広治 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に画、廻りに雲母を摺たるもの多し

 また、月岑の「増補浮世絵類考」は、明治24年刊「温知叢書」第四篇に収録されたものがあるが、この元本はケンブリッジ本より古いものらしく、写楽の「俗称斎藤十郎兵衛」と「阿波侯の能役者なり」の記載が入っていない。岩波文庫版の仲田勝之助編「浮世絵類考」によると、写楽の項は「無名翁随筆」と同内容だったらしく、岩波文庫の表記では、その記載は下記の「新増補浮世絵類考」初出となっている。戦後の写楽研究にとって、この岩波文庫版(戦後も続刊されたのだろうか?)の普及とその影響の大きさを考えると、写楽に関する「俗称斎藤……」以下の箇所が、【新】という表記で掲載されたことは、「新増補浮世絵類考」の信頼度の低さ(仲田もはしがきで、その編者を「龍田舎秋錦なるもの」と書いて、軽視している)を考え合わせると、その信憑性を不確かなものにした元凶だったといえるのではなかろうか。

●龍田舎錦秋の「新増補浮世絵類考
 慶應4年、龍田舎秋錦(この人物は不詳)が斎藤月岑の「増補浮世絵類考」を参照し、新たに絵師を加えて再編集し、序をつけて完成したもの。明治22年(1889年)、この「新増補浮世絵類考」は単行本化され、再版。近代ライブラリーで閲覧可。

 ほかに、書き込み入りの写本として、関根只誠の写本、三代目柳亭種彦の写本などがあるそうです。


写楽論(その33)~「浮世絵類考」(7)

2014年05月23日 09時19分57秒 | 写楽論
 現存する「浮世絵類考」の写本、異本は国内外に120種以上あるとのことですが、そのうち原初段階の写本(「南畝原撰本」に最も近いもの)でよく知られているものが4種類あります。それを以下に挙げておきます。

一、「神宮文庫本
 伊勢神宮所蔵。高松藩家老 で文人の木村黙老(1774~1856)の自筆本「聞ままの記」(全83巻の49巻に所収)。「浮世絵考証」と題する。黙老が筆写した原本は、享和2年(1802)、蝦夷地探検家で有名な近藤重蔵(1771~1829)が山東京伝所蔵の「浮世絵類考」写本から転写したものだとされている。

二、「岩波文庫底本のT氏所蔵本
 岩波文庫「浮世絵類考」(昭和16年9月発行)の序文で編者の仲田勝之助が不明瞭にしか書いていないが、T氏(誰だか不明)が持っていた写本で、享和3年(1803)ごろに作成されたとのこと。佳本だと言っているが、このT氏本も現物は編者が目にしただけで、確かめようがない。仲田勝之助は、著名な美術評論家で写楽研究者でもあったが、学問的厳密さという点ではルーズで、T氏なる謎の人物の所蔵本を底本にし、その他、翻刻本の検証もせずに、岩波文庫で売り出したので、その功も罪も共に大きいと思う。
「浮世絵類考」の研究者で、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説を真っ向から否定した哲学者・由良哲次(1897~1979)は、岩波文庫版「浮世絵類考」を、「支離滅裂の感があるほどの雑収録である」と批判している。
 また、岩波文庫では、T氏所蔵本の記述にならい、見出しを「写楽」ではなく「写楽斎」にしているのも特異である。

三、「六樹園本」(白揚文庫本)
 文化5年(1808)8月、石川雅望(宿屋飯盛・六樹園)がおそらく南畝の原撰本から写して書き込みを入れた稿本を、文政9年に狂歌師の野四楼が転写したもの。「浮世絵師之考」という題名になっている。(北小路健氏が雑誌『萌春』に連載した「浮世絵類考 論究・10」に全文がある。加藤好夫氏「浮世絵文献資料館」に転載されている)

四、「曳尾庵本
 文化12年(1815年)、加藤曳尾庵が、南畝から直接原本を借りたか、あるいは山東京伝か南畝と親しい他の友人からその写本を借りて書写し、補記を加えた写本。曳尾庵本も、前述の写本2種同様、山東京伝の「追考」のない(三馬の補記もない)写本で、南畝原撰本に準拠している。しかし、曳尾庵の自筆本は未発見。その自筆本の写本の一つを古書収集家の林若樹(1875~1938)が所蔵していたが、その写本は現在行方不明。「曳尾庵本」として現在閲覧できるものは、昭和7年発行の「孚水ぶんこ臨時号」島田筑波校訂の翻刻本だけ。これは、昭和2年に三田村鳶魚が林若樹の蔵本を借り、一夜で書写したもので、誤記もあるとのこと。林若樹所蔵の写本自体も曳尾庵の自筆本ではないようなので、この翻刻本は、全幅の信頼は置けないといわれていると言われている。
 曳尾庵本では絵師の数は37人。写楽について「筆力雅趣ありて賞すべし」とコメントを加えたのは曳尾庵だとされている。

 曳尾庵による跋文を以下に引用しておきます。
*大曲駒村編「浮世絵類考」(昭和16年発行)のまえがき「翻刻に当りて」(昭和13年10月 校訂者の大曲駒村・記)からの引用。句読点は校訂者によるもの。

この書は蜀山人の編にして、寛政の初の比集められし物ならんか。予古老の談話につきて、猶其居所、事実を潤し侍る。今文化十余りの比までに至り、役者絵、錦絵むかしに倍して晴朗妖艶、奇品麗秀、今に過ぎたるものは後世にも有るべからずと思はる
文化十二亥のとし                   曳尾庵 戯誌


 ここで加藤曳尾庵は、「蜀山人の編纂で、寛政の初めのころ集められたものだろう」と書いています。「予古老の談話につきて、猶其居所、事実を潤し侍る」という文は、「私はお年寄りの談話にもとづいて、さらにその住所や事実を書き入れた」ということ。また、当時(文化十二年=1815年)における画風さまざまな浮世絵の流行を、「今に過ぎたるものは後世にも有るべからず」と述べています。
 加藤曳尾庵(1763~1829?)という人は江戸中期の医師、文人、俳諧師で、大田蜀山人ほど有名ではありませんが、経歴が変わって、調べてみると大変興味をそそられる人物です。
 宝暦13年、水戸の生まれで、幼名は平吉、水戸藩士沼田氏の三男。父と江戸に出て、水戸藩邸に勤めていたのですが、20代半ばで浪人になり、8年ほど諸国を遍歴し、寛政8年(1796)、34歳の時に江戸に定住。
 その後、幕府の奥医師から医術を学び、文化2年(1805)、下谷の医師加藤玄悦の看板「亀の甲医師」を継いで、神田須田町に町医を開業し、加藤玄亀(彦亀)と名乗ります。亀の甲医師というのは明和期から流行した歯科・咽喉科の医者で、入れ歯の材料に亀の甲を使ったのでその名の由来があるように思われますが、定かではありません。
 この頃から、曳尾庵は狂歌、俳諧、浄瑠璃、茶道をたしなみ、好古癖が昂じたようです。号は、曳尾庵のほかに長息、南水、召竹など。また、ライフワークとも言うべき、随想「我衣」の執筆を始めます。諸侯や文化人との付き合いも広がって、14歳年長の大田南畝をはじめ、同年代の山東京伝、山東京山(京伝の弟)、曲亭馬琴、谷文晁たちとも交流があったようです。
 文化9年、妻子を置いて旅へ出て、また江戸に戻ってからは一人身となって、住所を転々と変えます。文化11年2月、ようやく猿楽町の裏手に二間の小さな家を借り、妻子を呼んで落ち着きます。文化13年7月、知人の推挙を得て、麹町三宅侯(田原藩)のお抱え医師に登用され、同屋敷内に転居。文政2年3月まで勤めます。その間、同藩士・渡辺崋山と親交を結んでいます。以後は、板橋に寓居し、医業、手習いの師匠をして余生を送り、文政12年ごろ亡くなったと推定されます。(参考文献:幸田成友「『我衣』とその著者」明治43年)
 主著「我衣」(わがころも)(19巻21冊)は曳尾庵が20年かけて記した厖大な随想集で、寛永より宝暦までの世態風俗および化政期の同種の風聞などを年代順に配列したもので、江戸風俗を知るうえで重要な史料となっています。文化12年2月8日に松平鳩翁屋敷にて、大黒屋光太夫(江戸に向かう途中漂流し、ロシアに9年半滞在して、帰国した伊勢出身の船頭)に面会し、ロシアの話をいろいろ聞いたことも書かれているそうです。

 加藤曳尾庵が「浮世絵類考」を書写して、書き込みを入れたのは、文化12年ですから、ちょうど大黒屋光太夫に会った後で、猿楽町に小さな家を借りて住んでいたころです。曳尾庵は、南畝の稿本を借りたか、山東京伝が手書きした写本を借りたのか、ともかく「浮世絵類考」を写して、いろいろ書き入れたようです。


写楽論(その32)~「浮世絵類考」(6)

2014年05月23日 09時14分33秒 | 写楽論
 大田南畝という偉大な文人について私は今のところ勉強不足で、南畝の書いたものでは、この「浮世絵類考」のほかに下記の書誌に載っている短い引用文をいつか読んだだけです。小池正胤氏の「反骨者大田南畝と山東京伝」(1998年 教育出版)と、加藤好夫氏が「浮世絵芸術」126号に寄稿した「大田南畝に書き留められた浮世絵師達」です。(加藤氏は「浮世絵文献資料館」という素晴らしいホームページを作成している方で、これは大変参考になります)
 また、南畝について、詳しい上に分かりやすくまとめてある文章として、ホームページ「日本語と日本文化 壺齋閑話」(引地博信氏執筆作成)にある「大田南畝」が参考になります。
 大田南畝のことについてはここでは最小限にとどめるとして、寛政の改革以後の南畝の動向だけを書いておきます。

 南畝が、狂歌による世相風刺を自粛し、文筆業から離れるのは、天明7年(1787)、松平定信が老中首座に就いて寛政の改革を開始してからです。田沼政治の腐敗が粛清され、関係者の更迭と処罰が行われましたが、南畝の後援者もその中にいたらしく、南畝は自分に累が及ぶことを危惧したのではないかとも言われています。知り合いでもある武士階級の戯作者二人が幕政批判のかどでお上から咎を受けたことも、南畝にとってショックでした。朋誠堂喜三二の断筆(天明8年)と恋川春町の死去(寛政元年)です。
 幕府から次々に倹約令が出され、贅沢の禁止、風紀取締り、出版統制が厳しくなり、安永・天明期の文化的高揚と熱気が、冷や水でもかけられたように冷めて、自由放埓な雰囲気が消え、束縛された重苦しいムードが漂い始めていました。
 寛政3年3月、山東京伝の筆禍事件で、京伝が手鎖50日、版元の蔦屋重三郎が身代半減(財産半分没収)の処罰を受け、10月には石川雅望(狂名:宿屋飯盛)が贈賄罪で江戸払いになります。南畝にとって親交の深いこの三人の処罰は第二のショックでした。南畝が狂歌を発表するのを辞め、「浮世絵考証」を書き始めたのはこの頃です。また、南畝は、人生の転換期を自覚し、幕僚として生きる道を模索し始めます。
 南畝は寛政5年(1793年)に45歳になりますが、かつて狂歌ブームを巻き起こし、戯作に従事し、かつ遊興にひたり、江戸文芸サロンのリーダー格として著名文化人たちと交友を深めながら歩んできた20代30代を思い浮かべ、懐古気分に浸りながら、自分の今後の人生を考えたのだと思います。松平定信が失脚したのは同年7月です。
 寛政6年(1794年)春、南畝46歳の時、幕府の人材登用試験(学問吟味という)を受けて合格します。(寛政4年秋に受験した時は不合格でした) 4月に登城し、出仕するや毎日、山積した公文書の整理に取り掛かかり、休みなしに働いて狂歌をひねる暇もなかったようです。
 蔦屋から写楽が役者絵約30枚を引っさげてデビューしたのはこの年の5月ですが、南畝が写楽の絵を見たかどうかは怪しいものです。なにしろ就職して間もない頃ですから、南畝は落ち度のないように仕事に専念していたのではないでしょうか。
 その後、膨大な文書の整理や地方出張での調査など、20年以上にわたり幕府の一官吏として勤務に励みました。(文政6年、大田南畝は75歳で大往生します)

 再び「浮世絵類考」の話に戻ります。
 寛政12年5月あるいはその少し前に、南畝は、笹屋新七邦教が作成した浮世絵師の系譜「古今大和絵浮世絵始系」を入手します。この系譜は、版元の鱗形屋から出版されたものでした。笹屋新七邦教という人は江戸本銀町一丁目の縫箔屋主人とありますが、経歴不詳で、南畝との関係も不明です。南畝はこの系譜を書写し、それを終えると、自らが作成した「浮世絵考証」の後ろにこの系譜を付録として添え、奥書(下記参照)をしたためて、一冊の本として綴じます。これが5月末日のことです。

右の始系は本銀町縫箔屋主人笹屋新七所書なり。写して類考の後に付記す、参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ。
庚申夏五晦                    杏花園 (蜀山印)


「庚申夏五晦」は、寛政12年夏五月晦日のことで、「杏花園」は南畝の別号です。「参考にして其実を訂すべし。猶後考をまつ」、つまり「参考にしてそれが事実でなければ訂正しなければならない。今後の検討をまちたい」ということです。この時点で、南畝は「類考」という名称を使っています。
 寛政12年(1800年)5月末日に、「浮世絵類考」は一冊の本として完成します。これを後世の「浮世絵類考」研究者たちは「南畝原撰本」と呼んでいます。
 その後、南畝自身、折を見て、多少書き加えたり、書き直したりしたかもしれませんが、「南畝原撰本浮世絵類考」は南畝直筆、私家版のこの一冊だけです。
 この原本を南畝の知人や関係者たちが、手書きで写し始めるわけですが、この原初段階の写本から、それをまた書き写した写本が生まれ、普及していきます。現在、「南畝原撰本浮世絵類考」は未発見で、おそらく今後も出てこないと思われます。


写楽論(その31)~「浮世絵類考」(5)

2014年05月21日 19時16分09秒 | 写楽論
「浮世絵類考」の話に戻ります。
 この本は、浮世絵師に関して、江戸時代に作られた唯一の事典で、どの浮世絵師を研究するにもこの本に書かれている記述がその出発点になるほどの重要な史料です。
 まず最初に江戸時代の浮世絵師について何かを書き残こしておこうと思い立ったのは、大田南畝(蜀山人 1749~1823)でした。それは寛永期の初め(1790年ごろ)だったと推定されています。(いわゆる「曳尾庵(えいびあん)本」の跋文にそのことが書かれていますが、それについては改めて述べます)
 大田南畝は、大田蜀山人といった方が通りが良いのですが、彼が蜀山人の号を使い始めたのは50歳を過ぎてからのことです。そこで、彼の20代から40代初めにかけての主要な文学的業績を考える時には、大田南畝と呼ぶのが通例になっています。
 さて、南畝は、江戸時代の初期から目ぼしい浮世絵師を選んで、知っていることをメモのように書き始めたようです。博覧強記の南畝にも分からないことは、知人に聞いたりして、少しずつ書き足していったのだと思います。南畝が大変な蔵書家だったことはよく知られていますが、古い浮世絵もかなり多く持っていたにちがいありません。本の挿絵や手元のあった浮世絵を参考にしながら、絵師を選び、コメントを書いていったのでしょう。
 当時、浮世絵師は、狩野派、土佐派、琳派といった本画専門の絵師、いうなればアカデミックな絵師に比べ、町絵師と呼ばれ、身分も社会的評価も数段低かったのですが、逆に大衆的な知名度は高く、現役で有名な浮世絵師でもざっと挙げただけで20人以上はいたことでしょう。江戸時代中期に活躍し、すでに亡くなった浮世絵師で伝説的となった絵師も何人かいたでしょう。

 南畝が浮世絵師覚書のような本を作ろうと企図したことは、今にして思えば、大変意義深いことだったわけで、南畝が後世に残した功績は非常に大きかったと言えます。浮世絵研究者はみな、南畝が端緒を開いた浮世絵師事典の恩恵をこうむっているからです。
 南畝は、この覚書(「浮世絵考証」と呼ばれる)を、寛政5年終わりまでには清書して、ほぼ完成させていたと思われます。岩佐又兵衛に始まり、喜多川歌麿まで、見出しに上げた絵師の数約25名だったようです。

喜多川歌麿  神田弁慶橋久右衛門町
            俗名勇助 名人
はじめは鳥山石燕門人にて狩野家の絵を学ぶ、後男女の風俗を画て絵草紙屋蔦屋重三郎方に寓居す、錦絵多し。今弁慶橋に住す。千代男女風俗絵種々工夫して当時双ぶ方なし、名人。
(仲田勝之助編、岩波文庫「浮世絵類考」が底本にしたT氏所蔵本にある記述)

 この時点では、写楽も豊国も見出しになく、コメントも書いていなかったと思います。多分、南畝は2年ほど「浮世絵考証」は書斎のどこかにしまっておいて、手をつけずにいたのではないでしょうか。
 なぜかと言うと、南畝は寛政6年の春に幕府の人材登用試験(「学問吟味」といい、朱子学者を公募した)を受験し、これに合格、早速出仕して以後、山積した古文書の整理に日々追われるからです。

 寛政8年以降に、南畝は、「浮世絵考証」をまた引っ張り出して、何人か書き足したようです。歌麿の後に、栄之、国政、写楽、窪俊満、二代目宗理、豊国、春朗、歌舞伎堂、春潮、豊広が並んでいますが、どうも私はこのうちの何人かは南畝自身が書いたのではないような気もします。岩波文庫の底本のT氏本を信用すれば、国政、春朗、歌舞伎堂は、南畝の原撰本には書かれていなかったことになっています。岩波文庫ではこの三人は加藤曳尾庵が書き加えたようになっています。国政以降の絵師たちの配列がアットランダムで、師弟、作画期の古い順に並んでない、二代目宗理と春朗は同一人物(北斎のこと)であるののも不思議です。
 国政は、この9人の中では最も後輩なのに、栄之に続いて二番目に置かれています。国政が注目されるのは寛政7年の役者絵からです。
 歌舞伎堂は寛政7年の数ヶ月間だけが作画期ですし、役者絵を販売したかどうかも分からない絵師なのに、見出しに挙げたのはどうしてか分かりません。
 豊広は、豊国と歌川豊春の同門で作画開始がほぼ同時期なのに、豊国の後に三人挟んで、置かれています。そして、国政は、豊国の弟子なのに、豊国の4人前に置かれているのも奇妙です。
 また、本来なら、春朗も春潮も勝川春章の弟子なので、師匠の後に置くべきところです(春好と春英は、春章の見出しの横に弟子と書いて終わりです。春好は、春章のコメント中にも触れてあるので良いとしても、春英は名前だけです)。
 豊国と豊広も歌川豊春の弟子なのでその後に並べて置いた方がベターですし、歌麿のすぐ前が豊春なので、最後のページだけ書き直せば、二人を入れられたのに、そうしていません。
 この頃、南畝はよほど多忙だったようです。歌麿の本文途中まではすでに清書してあったので、書き直す手間を惜しんで、こういう形になったのかもしれません。