背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

映画「ふたたび SWING ME AGAIN」

2012年06月28日 23時43分12秒 | 日本映画
 DVDで映画「ふたたび SWING ME AGAIN」(2010年11月公開)を観た。
 いい映画だった。暗くて重いテーマが背景にあるのに、それを前面に出さず、老人の青春回帰のドラマにしていて、とても良かった。老人と孫息子との心の交流、老人の昔のバンド仲間たちと暖める旧交も、ヒューマニスティックに描かれ、感心した。

 この映画は一種のロードムービーで、ハンセン病で島の療養所で人生の大半を棒に振った老人・貴島健三郎(財津一郎)が、大学生の孫息子(鈴木亮平)の運転する車であちこちに住む昔の仲間を訪ねていくというストーリーである。主人公の老人は元トランペッターで、昔の仲間とは、50年前に結成していたジャズバンドのメンバー。バンドの名は、クールジャズ・クインテット。レコードを一枚出していて、孫息子は子供の頃、家にあったそのレコードの「ALIVE AGAIN」を聴いて、ジャズが好きになり、大学のジャズ研でトランペットを演奏しているという設定。実は、老人の息子(陣内孝則)は、ハンセン病の父が生きていることを家族にずっと隠していたのだが、父の死期が近づいて初めてみんなに打ち明け、神戸の自宅に招くのだった。だから、孫息子はそのレコードのトランペッターが祖父だったことを知って、驚く。そして、バンドのメンバーを訪問する旅に付き合うことになるのだ。
 この映画、ファーストシーンから徐々に主人公の家族関係やジャズバンドのことを観客に知らせていくので、観ていて飽きないし、惹き付けられていく。財津一郎の存在感が大きく、また孫息子の鈴木亮平という男優もなかなか良い。



 ただ、回想シーンがちょっと多いのが気になった。主人公の50年前の様子がほとんど回想シーンで説明され、しかも二十代の主人公役が財津一郎でないので、違和感を感じた。たとえば、神戸のジャズクラブにバンドの出演が決まって、メンバーが喜んだのも束の間、主人公はハンセン病を発病。主人公が療養しなくてはならなくなって、出演が流れてしまう。これは回想シーン。また、主人公の恋人がバンドの女性ピアニストで、この時すでに婚約者の彼女は妊娠していて、結局主人公と彼女は離れ離れになってしまう。ここも回想シーン。女性は出産後、赤ん坊と引き離され、両親に冷たくあしらわれる。この回想シーンは誰の回想なのか不自然で、描き方も拙劣だった。また彼女がなぜ死んだのかよく分らなかった。自殺でもしたのだろうか。この子供が主人公の息子(陣内)なのだが、この息子の半生は不明。苦労したようだが、この映画のドラマの軸は息子にはないので、説明できなくとも仕方あるまい。
 とはいえ、主人公が孫息子と車の旅に出るまでの流れはうまく描かれ、ユーモラスなシーンもあって、この映画のシナリオライター(矢城潤一)と監督(塩屋俊)の手腕とセンスの良さを感じた。
 また、登場人物で言うと、療養所の看護師(福祉士か)の韓国人の若い女性が重要で、MINJIという女優だが、演技はうまくないが不思議な魅力があった。一人二役で、主人公の恋人のピアニストもやっていた。彼女は最後に主題歌のバラードも唄っているが、この歌が心に滲みた。
 ほかに、孫息子の恋人と姉が出て来るが、たいした役ではない。姉の結婚が破談になったり、恋人が親に反対されて、いったん別れてしまうところなど、サブストーリーとしてやや取ってつけたような印象を受けた。また、主人公の息子の妻(古手川祐子)の描き方は類型的で中途半端だった。
 一方、主人公と孫息子が訪ねるバンドの元メンバーたちの面々は、それぞれ個性的で、キャスティングも良かった。犬塚弘、佐川満男、藤村俊二であるが、みんな年を取ったものだと思った。なかでも犬塚弘がとくに目立っていた。療養所の友人宅で織本順吉も出ていたが、年を取って、最初誰だか分らなかった。
 ラストシーンで、バラバラになったメンバーが50年ぶりに神戸のジャズクラブに集り、ジャズを演奏するのだが、ここは感動的だった。この時、ジャズクラブのオーナー役で渡辺貞夫が出て来て、アルトサックスを演奏するのも見せ場だった。
 最後に主人公の老人は、想い出の教会に赴き、早世した恋人の元へ帰っていくのだが、この終わり方も悲惨ではなく、幸福感が滲み出て、良かったと思う。
 映画「ふたたび」は、最近作られた映画の中では出色の出来ばえで、心に残る一作であった。(了)



 

落語「芝浜」(最終回)

2012年06月28日 17時00分49秒 | 落語
 ずいぶんと長い「芝浜」論になってしまった。
 最後に、補足事項だけ列記しておきたいと思う。
 
 興津要編の「古典落語(上)」(昭和47年 講談社文庫)の「芝浜」を読んだ。昔読んだことがあるが、まったく憶えてなかった。この「芝浜」、どの演者のものを参考にしたのか分らないが、何人かのものを混ぜくって旧作と新作を合体してダイジェスト版にしたような「芝浜」で、気の抜けたサイダーのようだった。魚屋は金さん。

 今村信雄の「落語の世界」(平凡社ライブラリー 昭和31年青蛙房刊の再版)に「小さんと芝浜」という一節があった。この小さんは昭和3年に四代目を襲名した小さんで、先代の小さんの師匠である。それによると、「芝浜」の昔の演じ方にも、三木助のように芝浜の情景描写を挿入する型があったようで、その部分を略す現行の演じ方に苦言を呈している。
「海岸に荷をおろして、パクリパクリ煙草を吸っているうちに、海の向うから太陽が昇って来る。芝浜の夜あけの風景などを十分に描写する。演者の腕はここらに現せるのだから、ここを略してしまっては、この落語をやるかいがない」
 また、「濡れた革財布を、腹がけに入れるか『ばにう』(盤台)に入れるかは、演る人の自由に任せてやりいいようにやらせてよかろう。我々前座の時は、楽屋帳に『芝浜』などとは書かず『ばにう』と書いたものである」(前掲書にある興津要の解説によると、拾った金を旧三遊派は『ばにゅう』へ、柳派は『腹がけのどんぶり』へ入れていたという)
 さらに、「昔は拾得物は役所に届けてなければいけないとか、拾った物を着服したことが露顕すると罰せられるとかの規則はなかったようで、『芝浜』以外には講談でも落語でも拾った物を役所に届け出たという話は全然ない。正直な者が自身先方に尋ねて行って、落し主に渡す話ばかりである。そんな所から考えて見るのに、最初このはなしの出来た時は、金を家主とか、あるいは出入りのお店(たな)に預けたもので、明治になって新しい規則が出来てから、現在のように直したのではなかろうかと思う」
 確かに、道で拾った物は江戸時代にはどうしていたのかという疑問を抱く。前々回に「窓のすさみ」の美談を紹介した。正直な若者が落し主の分らない金十両を町役人に届け、奉行所が三日間お触れを出して、落し主が出て来ないので、若者にお下げ渡しになったという話である。が、これなどはごく稀な事例なのではあるまいか。落語「芝浜」では、女房が拾った財布をどうしたらいいかと大家さんに相談し、大家さんが代わりにお上に届け出て、落し主が現れないので一年後くらいにお下げ渡しになったことになっている。現代の拾得物の扱いと同じであるが、江戸時代にはたしてこんな規則があったのかどうか。落し主が現れなければ、没収されてしまうような気もする。また、拾った金を黙って着服して勝手に使ってしまったら、罰せられるというが、これは盗んだ金とみなされるからだろう。演者によって刑罰を大袈裟にして、島流しにされるとか、死罪になるとかしているが、ここは牢屋に入れられる程度でいいのではなかろうか。

 立川志らくの「落語二四八席辞事典」(2005年講談社)は、時々鋭いことが書いてあるので覗いてみるのだが、「芝浜」の項は師匠の談志の受け売りなのだろう。談志のように女房を可愛い女として演じるのが正解だと言っているが、談志の演じ方はちっとも可愛くなく(とくに談志晩年の「芝浜」の場合)、単に才覚のない憐れな女房にすぎない。志ん朝の「芝浜」の女房の方が数段可愛い。

 この数日間で、いろいろな落語家の「芝浜」を聴いた(あるいは観た)。三木助(昭和29年の録音)、志ん生(三木助没後の録音で昭和36年頃)、談志(若い頃と晩年のもの)、志ん朝(若い頃のもの)、小三治、円楽、さん喬、権太楼。
 笑える「芝浜」と、笑えない「芝浜」がある。
 三木助と志ん生の「芝浜」はどちらも笑える。志ん朝の「芝浜」が一番明るく、笑えるところが大変多い。円楽の「芝浜」も明るい。
 談志の「芝浜」はまったく笑えない。と言うか、笑わせようとしていない。小三治の「芝浜」は、寒々として暗く、間(ま)が多すぎてやや冗長である。
 さん喬と権太楼の「芝浜」は、まだまだ改善の余地あり。後半で女房が打ち明けるところは、オーバー過ぎて良くない。談志も小三治もさん喬も権太楼もなんでこの部分を力んでやるのか、私には分らない。泣きながら許しくれと懇願するように演じるのはどうかと思う。

 ほかにも若手でいろいろな落語家がやっていると思うが、機会があったら聴いてみたいと思っている。


  

落語「芝浜」(その4)

2012年06月27日 22時55分11秒 | 落語
 落語「芝浜」は夫婦の情愛を描いた話なので、亭主と女房の人物像をどう造形するかが重要である。また、演者の解釈力と表現力(芸)の見せどころでもある。
 この夫婦、一体何歳くらいなのだろうか。子供はいないが、連れ添って数年は経っているというので、亭主は二十七、八歳、女房は二十三、四歳なのではなかろうか。志ん生や三木助が演じると、夫婦の年齢がぐっと上がるような印象を受けるが、夫婦とも三十歳は超えていないと思う。
 もちろん、古典落語では、時代設定は江戸後期で、夫婦は芝の浜からそれほど遠くない裏長屋に住んでいる。徒歩1時間以内といったところだろう。
 亭主の熊五郎あるいは勝五郎は、酒好きで怠け者だが、江戸っ子的な好人物。魚売りとしての腕も良く、友達もたくさんいる。やや短気で、喧嘩っ早いところもあるが、人柄も良く、得意先の評判も良い。酒さえ飲まなければ、立派に魚屋でやっていけるのだが、裏長屋の貧乏暮らしが続いて、そのウサを酒で晴らしているようだ。
 女房の方は、いわゆる世話女房でしっかり者。「芝浜」ではこの女房をどう描くかが難しいと思うが、良妻の鑑(かがみ)、ないしは山内一豊の妻的な賢夫人にしたのではあまりにも道徳的で面白くない。
  三木助の演じる女房は、亭主を尻に敷いて操っている姉さん女房という感じで、ぽんぽんとよく喋るし、ああ言えばこう言うといった気の強さがある。亭主より頭が良さそうで策略的なところもある。
 志ん生の演じる女房は、口数も少なく、従順でおとなしい感じがする。それに心配性で、ごく普通の良識的な女房である。
 「芝浜」の前半で、亭主が拾って来た財布の金を勘定し終わって、女房がどう対応するかが第一のポイント。
 旧作の左楽の「芝浜」では、「お前さん、これは拾ったんだね」「そうよ」「落した人があるだろうね」「当り前よ。拾った者がありゃァ落した奴があるわけだ」「拾った物をむやみに使うわけにゃァいかないね、届けなくちゃァ」「冗談言うねえ、往来で拾ったんじゃァねえ、海の中で拾ったんだぜ、おいらに授かった金だ、届けるにゃァ及ばねえ」とあって、女房がだんだん不安になってくる。「それじゃァお前さん、このお金をどうするつもりなの」と訊くと、熊が、着物を買ったり友達と飲んだりしてどんどん金を遣ってしまうようなことを言うので、女房はこれはまずいと思い、「そうかい、このお金はわたしが預かるよ、お前さんはもう一寝入りおしよ」と言って、熊を無理やり寝かしつけるのだ。
 志ん生の「芝浜」もこの部分のやり取りはほとんど同じで、「届けなくちゃ」というセリフはないが、拾った金を勝手に遣ってしまうのはまずいと感じる女房の心理をきちんと描いている。志ん朝の「芝浜」も、志ん生に倣っているので、同じだ。
 それに対し、新作の三木助の「芝浜」では、この部分をまったく変えてしまう。「お前さん、たいした金だねえ」「昔から早起きゃァ三文の徳てえが、どうでえ、八十二両の徳だァ。(中略)俺ァもう明日から商えなんぞいかねえぞ。毎日酒飲んだって、これだけあるんだ、びくともしねえや」「そりゃァそうだね」となって、勝五郎が友達を呼んで宴会をやろうと言うと、女房がまだ朝早いから昼過ぎにしなよという話になって、暇つぶしに熊五郎が昨日飲み残した酒を飲み始めるのだ。女房は酒をついだり、ハゼの佃煮を出したりして、拾った金をどうしようかなどと不安に思っている素振りはまったく見せない。
 
 さて、後半になって、三年後の大晦日、すっかり働き者になった亭主の言葉を聞いて、女房が安心し、金を拾ったことが夢ではなかったことを打ち明ける場面がまさに「芝浜」のヤマである。
 左楽の「芝浜」では、女房が革財布ではなく竹筒を出して中に入った金を見せるのだが、志ん生は革財布、三木助も革財布である。三遊亭円楽の「芝浜」だけは、竹筒にしている。
 左楽の「芝浜」では、女房がなかなか切り出しにくい様子で、お前さんに内緒でへそくりをしたのでお金を勘定してくれと言う。竹筒を出して、お金を見せ、お前さんが芝浜で拾った金だと打ち明け、こう言う。
「お前さんがこのお金を三年前に拾って来てくれた時、わたしは嬉しかったよ。飛び立つほど嬉しかったがね、お前さんの了見を聞いてみると、てんで真面目に稼ぐ考えはなく、ただ飲んだり食ったり、着物を着たり、見栄に使ってしまいなさる様子だから、こりゃ大変、お金はパッパと使ってしまい、後で拾ったということが知れたなら、お前さんもわたしもどんなお咎めを受けるかしれない、だからね、わたしはお前さんが酔って寝てしまったのを幸いに、大家さんに話をすると(以下略)」
 志ん生の「芝浜」でも、女房が革財布を出して打ち明けた後の内容はほぼ同じである。ただし、お咎めのところは具体的にして、
「魚熊さんはこのごろいいなりをして、うまいもんを食べて遊んでるってことを近所の人がほうぼうでしゃべれば、自然とお役人の耳にも入る。お前が番屋に呼び出されて、どうしてそんなことをしているんだとだんだん聞き出されりゃ、暗いところにでも行かなきゃならない。といって、いくら止めたって、このお金をお前さんが使わないじゃいられないだろう。どうしたらいいだろう。しょうがないから、お前さんを寝かしつけて、大家さんに相談して(以下略)」
 さて、三木助の「芝浜」は、女房が「途中で怒らないであたしの話を終わりまで聞いておくれよ、いいかい」と念を押してから、「お前さん、実は見てもらいたいものがあるんだけど」と革財布を取り出す。が、ここからがちょっと長すぎて、正直どうかなと思う。女房の打ち明け話もやや大袈裟で、途中で泣きながら情に訴えて話すので、どうも好感が持てない。女房が、もしかして盗んだ金じゃないかと疑ったと言うのも、良くないと思う。
 断っておくが、私は三木助の「芝浜」の語り口が一番好きなのだが、後半の女房のセリフと亭主のリアクションがどうしても不満で、前半ほど感動しない。女房が前もって酒の仕度をしてあるのもどうかなと思っている。(つづく)


落語「芝浜」(その3)

2012年06月27日 12時47分59秒 | 落語
 「芝浜」について、鑑賞の予備知識をまとめておく。
 まず、落語「芝浜」は、明治の大名人・三遊亭圓朝が「酔っ払い、芝浜、革財布」の三題噺として即席に作ったと言われているが、真偽のほどは不明である。
 近年はこれを俗説だと言う識者が多いようだ。矢野誠一は「落語讀本」(1989年文春文庫)の「芝浜」の項で、「芝浜」が定本「圓朝全集」全十三巻に収められていないことを指摘し、武藤禎夫の考察「幕末時の三題噺の会でつくられた祖型に、圓朝が手を加えて、洗練された筋立てと、奥行きの深い人情ばなしに仕立てたものであろう」を引用し、これに倣っている。
 江戸学の大家・三田村鳶魚(えんぎょ)は、江戸時代の随想集「窓のすさみ」(松崎堯臣 享保9年)の中に紹介されている芝の魚売りの美談を上げ、寛永年間以降にこの話を訓話的に潤色して落語に仕立てたのではないかと推断しているが、この説も確かかどうか分らない。その美談というのは実話で、次のような話である。(「三田村鳶魚全集」第十巻)

 芝に親孝行の魚売りの若者がいて、毎朝日本橋へ魚を仕入れに行き、終日売り歩いて夕暮れ時に帰って来る。ある年の三月初めの夕方、帰途の金杉通りで紙包を拾う。開けてみると金二両と証文一通で、八王子の百姓が娘を奉公に出して得た金であった。そこで若者は、家に帰らずその場から八王子へ赴き、本人を探しあて、拾った紙包を返す。先方が引き留めるのも聞かずに、若者は親が心配していると言って急いでまた芝へ引き返そうとするので、八王子の人も、その礼に若者を馬に乗せて、送って行った。その四、五日後、若者は帰り道にまたもや紙包を拾う。今度は十両だったが、落し主が分らない。そこで、町役人に届け出ると、町役人は、天の惠みであるから、拾い主が持って帰るがよいと言う。が、若者は自分のものにするならお届けはしないと言って帰宅してしまう。町役人も仕方がないから、委細を町奉行へ訴えて指揮を求めると、三日間、金十両の遺失について本主は速やかに申し出よというお触れを出した。が、誰も出て来ない。そこで町奉行は若者を召して日頃の篤実を賞し、本主が名乗り出ない上は拾得金を老親の養い料にせよと申し渡したという。

 この話、落語の「芝浜」とはずいぶん違うように思うが、どうだろう。共通するのは、芝の魚売りが金を拾ったこと、その金がお下げ渡しになることだけである。裏長屋に住む飲兵衛の魚売りの亭主とその女房の話でもなければ、拾った革財布の五十両を亭主がそのままネコババしようとするので、女房が大家に相談して財布を役所に届け出てもらい、拾ったことは夢にして、だめな亭主を改心させ再生させるというストーリーのかけらもない。

 落語「芝浜」の成立について長くなったが、次に「芝浜」に出て来るキーワードについて予備知識を書いておこう。
 芝の魚河岸(うおがし)=江戸時代は日本橋界隈の魚河岸がメインだったが、芝浦にも魚河岸が出来て、江戸中期の享保年間(1716~36年)から栄え出した。ここは雑魚場と言って、主に東京湾の近海から採れた江戸前の生きのいい小魚を扱う問屋が揃っていた。「芝ざかな」と言って、キス、ハゼ、カレイ、シャコ、スズキ、アジなどの他に、ウナギ、アナゴ、海老、蛤、アサリなど多くの魚貝類である。芝の魚河岸は、朝だけでなく、夕方も市場開かれ、繁盛していたという。
 棒手振り(ぼてふり)=天秤棒をかついで物を売り歩くこと、またはその人。魚売りがその代表格。魚売りは、磐台(はんだい、浅くて大きなたらい)を二つ、天秤棒に乗せて、町を売り歩く。一心太助(実在の人物ではないが、講談や映画に登場する)が有名である。
 馬入(ばにゅう)=磐台のこと。「芝浜」では熊五郎が拾った革財布を腹がけのどんぶり(ポケット)か、または馬入に入れて戻って来る。
 切通し(きりどおし)の鐘=切通しの時の鐘については、愛宕山下の青松寺の鐘とするものと、切通坂にある青竜寺の鐘とするものがある。芝の増上寺の鐘とは違う。「芝浜」では、切通しの鐘と言う時もあれば、増上寺の鐘と言う時もある。
 二分金=一両の二分の一。二分小判ともいう。二枚で小判一枚。1818年(文政1)から68年(明治1)まで鋳造。「芝浜」で革財布の中に五十両というと、二分金が五十枚入っていたことになる。江戸時代の物価を現代比較するのは難しいが、おおよそ一分が今の二万円ほどらしく、一両が八万円で、五十両だと四百万円見当になる。
 小粒=小粒金(一分金)または豆板銀。三木助の「芝浜」では、小粒で八十二両と演じた録音があるが、金なのか銀なのか不明で、それが混ざっていたとすると、二百枚近い小粒が財布から出てきたことになる。
 福茶=昆布、黒豆、山椒、梅干などを入れた茶。大晦日、正月、節分などに縁起を祝って飲む。


 

落語「芝浜」(その2)

2012年06月26日 20時27分18秒 | 落語
 三一書房の「古典落語大系 第三巻」(昭和44年刊)に「芝浜」が載っている。これは志ん生の演じた「芝浜」を基にしたもので、編者の一人である江國滋が、解説文の中で三木助の「芝浜」を文学的芝浜とし、志ん生のを落語的芝浜として区別している。
 つまり、文学的芝浜は新作(あるいは改作)、落語的芝浜は旧作ということで、前回、引用した柳亭左楽の「芝浜」(昭和初期の速記)は、もちろん旧作の落語的芝浜である。
 両者の違いはどこにあるかと言うと、時間的な長さも倍近く違うし、主人公の魚屋が新作は勝五郎、旧作が熊五郎という点もあるが、一番の違いは、亭主が最初に起きて出かけた後、芝浜へ行って革財布を拾うまでの場面があるかないか、である。
 旧作では、熊五郎が出かけた後、同じ家の場面が続き、すぐに熊五郎があわてて戻って来て、女房に財布を拾ったことを報告するという形をとる。新作では、場面が変り、勝五郎が師走の寒い夜中に家を出て芝浜に着き、増上寺の鐘(あるいは切通しの鐘)を聞き、海辺で顔を洗い、日の出を拝み、煙草を一服し、波打ち際に浮ぶ紐を見つけて、キセルの雁首で手繰り寄せると革財布だった、というまでの経緯を事細かに描く。この間、勝五郎のモノローグがずっと続くわけだ。
 財布を拾って戻って来てから、夫婦揃って喜び、金の勘定をするまでは同じで、旧作はぴったり五十両、新作は八十二両、四十八両、四十二両とまちまちだが、金額の違いはさほど重要ではない。そこからの展開がたいぶ違っていて、それが問題なのである。
 旧作では、この金でこれからは思う存分贅沢ができると言う熊五郎に対し、女房がちょっと不安になり、拾った金を勝手につかってもいいのかどうかと尋ねるが、熊五郎は取り合わない。そこで女房は財布は預かっておくからもう一度寝るようにとしつこく勧め、熊五郎はまた寝ることになる。昼頃女房が熊五郎をもう一度起す。ここがポイントで、最初と同じように女房が熊五郎を起こす場面が繰り返される。すると熊五郎は、そのまま湯に行って、また帰って来る。この後の場面は旧作ではちゃんとあって、友達がやって来て実際に会話があり、宴会が始まる。その後、熊五郎が酔っ払ってまた寝てしまい、夕方過ぎに目を覚ますという説明があり、ここから女房と熊五郎のやり取りが始まる。女房が酒肴の払いをどうするのかと尋ね、熊五郎が拾った財布の金で払えばいいじゃないかと言うと、女房が驚いて、「そんな財布なんか知らないよ、お前さん、夢みたんだよ」と言うわけだ。
 つまり、ここで旧作では、熊五郎だけでなく、聴いている客のわれわれにも、「あれっ、財布を拾ったのは夢なんだ」と思わせなければならない。そうした演出をとっている。だから、熊五郎が「そうすると、金を拾ったのは夢で、酒を飲んだのはほんとか!」と言う言葉が生きてくるわけだ。ここまですべて一日の出来事である。
 志ん生が三木助の「芝浜」を評して、「あれじゃ、財布を拾ったことが夢にならない」と言った意味は、つまりそういうことなのである。芝浜の情景描写をリアルにやりすぎると、後で客はそれが夢だと思わなくなり、女房が亭主をだましていることも途中でバレてしまう。何度も「芝浜」を聴いていると、そのへんのところはどうでも良くなってしまうが、初めて「芝浜」を聴いた人がどう思うかが、落語の構成上大切なのである。この噺の意外性や面白さを志ん生は復活させようとして、あえて旧作を演じたのだと言えよう。
 新作では、金勘定した後、勝五郎がすぐに友達を呼んで祝い酒をやろうと言うと、女房がまだ朝早いし昼過ぎまで待った方がいいと言う。そこで仕方なく勝五郎は昨夜飲み残した酒を飲んで、いい気持ちになっていく。三木助は、ここで酒好きな勝五郎の様子を描く。さて、昼過ぎに勝五郎が起きてからのその日の出来事は省略して、翌朝になる。そして、また最初と同じように女房が熊五郎を起すわけである。女房が、財布を拾ったことなど知らないし、夢だと言うわけだ。前日の昼過ぎに起きてから湯に行って友達を呼んで宴会をしたことはその時女房の口から語られ、これは夢ではなく事実だと言われる。完全に女房がとぼけて、亭主をだましていることが明らかに客に分ってしまうのだ。

 三木助の文学的芝浜すなわち新作は、昭和二十年代半ばに考案されたもので、安藤鶴夫ほか取り巻きのブレインの意見が反映されたものだと言われるが、本当のところは分らない。三木助の「芝浜」の実演の録音はいくつか残っているようだが、いずれもラジオ放送の時のもので(私が先日聞いた録音は昭和29年暮のもの)、放送用の短縮版だということだ。速記した記録としては、安藤鶴夫編「わが落語鑑賞」(昭和40年刊筑摩叢書)所収の「芝浜」が全長版である。これを読むと、演じるのに多分一時間はかかるのではないかという長さである。
 三木助の「芝浜」のマクラに、隅田川の白魚の話がいろいろと出て来るが、このマクラ、「芝浜」の内容にはあまり合っていないと私は思っている。江戸前の粋なエピソードを紹介しているつもりなのだろうが、かえって嫌味である。芭蕉の俳句を引用するのもぺダンティックで好感が持てない。
 マクラとしては、酒好きはなかなか酒がやめられないといった内容の方が適切だと思う。ただし、志ん生の「芝浜」のように、マクラの後で、酒飲みの熊五郎が昼休みについ酒を飲んでしまい、魚を腐らせて商売をしくじる話を入れるのもあまり良くないと思っている。そこまで熊五郎をだらしなくするのはどうであろうか。志ん朝の「芝浜」はこの部分をさらに増幅して演じるので、ダレる。正直、あまり良いとは思えない。やはり、さりげない一般論のマクラがあって、ストレートに、女房が亭主を起す場面に入るといった演じ方が最適だと思う。
 談志の「芝浜」は、三木助の文学的芝浜を継承したものだが(旧作の演じ方は談志には向かないと思う)、マクラに難があるとはいえ、はなしの入り方は一番いい。私の聴いた談志の「芝浜」はずいぶん前に録音されたものらしく、声も若々しく、話し方も一気呵成で素晴らしいと思った。随所に工夫が感じられ、三木助の「芝浜」と比較して見ると、明らかにその改良版である。どこかで、談志が三木助の「芝浜」はあまり好きでないような発言をしているのを読んだことがあるが、細かい描写は完全に三木助の「芝浜」を模倣していることは確かだ。(つづく)
*先日インターネットで談志の晩年(5年ほど前)の「芝浜」を観たが、ひどがった。芸が荒れて、品がなく、くどすぎて、これでは三木助の「芝浜」の改悪版だと思った。若い頃の談志の「芝浜」の方がはるかに良かった。途中でやめようと思ったが、最後まで見ていたら、女房の打ち明け話がくどいのなんの、泣いたり嘆願したり、もう最悪だった。