背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

片岡鉄兵の「生ける人形」

2012年08月02日 16時31分12秒 | 
 片岡鉄兵の小説「生ける人形」について触れておきたい。
 片岡鉄兵(1894~1944)は、横光利一、川端康成、岸田国士、今東光らと大正13年(1924年)に同人誌「文藝時代」を創刊し、いわゆる新感覚派の代表的小説家の一人であったが、プロレタリア文学に感化され、昭和3年(1928年)「生ける人形」を書いた頃にはすでに左傾化していた。
 改造社版「現代日本文學全集 新興文学集」(昭和4年)に「生ける人形」が収録されていたので読んでみた。
 あらすじを書いておく。

 主人公の瀬木大助は、出世の野心に燃えている三十代半ばの独身者。田舎で、ある政党の院外団員として活動後、同郷の青原代議士のツテで、東京に出て、丸の内のビルの7階にある興信所で勤め始める。男だけの所員四、五名の小さな事務所で、みんな仕事もなく、将棋を指したりしてぶらぶらしている。
そこへ女子社員が入社する。細川弘子という断髪洋装のモダンガールで、邦文タイピストとして雇われたのだった。田舎者の瀬木はそんな弘子に魅力を感じ、図々しくもデートに誘う。
この興信所の社長は繁本という中年男で、政界の裏を探って、代議士の選挙資金調達の不正などを調べ、金をゆすり取るようなことをしている。瀬木はその手腕を社長に見込まれ、青原代議士への、ある銀行の不正貸出しを調査し、財界の黒幕X伯爵が経営する大銀行との合併を画策する。
弘子とのデートの日、瀬木は新宿で偶然、昔の恋人梨枝子に出会う。梨枝子は年配の会社員と結婚したが、夫に先立たれ、未亡人になっていた。梨枝子との再会を約束して、瀬木は弘子と神宮球場で野球観戦をするが、弘子をホテルに誘って断られてしまう。弘子はモダンガールとはいえ、簡単に男に身をゆだねる女ではなかった。弘子に拒まれ、瀬木は再会した梨枝子とよりを戻し、同棲するようになる。が、若い頃のような関係は取り戻せず、亡夫への思いを残した梨枝子に不満をおぼえる。
その後、弘子は会社を辞め去って行き、梨枝子とも別れる。瀬木は同僚からも妬まれ、また社長の信任も失って、興信所から立ち去り、メーデーの群集を眺めながら思案に暮れるのだった。

 新聞連載を意識して書いたためか、かなり通俗的な小説で、文体・内容ともに新感覚派と言えるような新しさがなく、またプロレタリア文学と呼べるような小説でもなかった。社会問題の意識が甘く、無産階級の労働者の立場から資本主義社会に対する痛烈な批判が込められているわけでもない。登場人物の個性も類型的で、たぶん片岡自身の現代人としての生活経験の浅さと無産・有産階級双方の人物観察の不足から来るのであろうが、政財界のからくりも、資本家や代議士の人間像も描けていない。また、丸の内の興信所に勤める所員たちもただ暇をもてあましているだけで、勤労者としての存在感がない。それに、この興信所というのが怪しげで、仕事の中身がまったく見えないのだ。
 この小説は、むしろ、大都会の現代風俗の一面を皮相的に描くことに終始し、作者は、中流市民のモダニズムに共鳴しているといった印象を受ける。今読むと凡庸な中編小説であるが、震災後に復興した昭和初期の都心の様子を知る上では興味深いと感じる箇所も多々あった。



『生ける人形』(その2)

2012年08月02日 05時33分42秒 | 日本映画
 映画評論家の筈見恒夫も名著「映画五十年史」(昭和17年 鱒書房)の「第八章 傾向映画前後(昭和2年~8年)」の中で、『生ける人形』を取り上げ、丁寧な解説を加えている。少し長いが引用しておこう。

 瀬木大助という成上り者が、政界や実業界の裏面を巧みに泳ぎ廻って、虚偽と策謀を処世哲学の根本とするが、最後の一瞬には叩きのめされる。つまり瀬木の如き田舎出の青二才に切り廻されるように、今の社会は甘いものではないのだ。資本主義の機構はより巨大で、より複雑である。瀬木は、今までの映画が主人公として扱ったような正義観の持主ではない。むしろ、逆の立場にある小悪党である。しかし、当時のわれわれは、瀬木大助的な処世哲学に、一面の共感を持たぬでもなかった。『生ける人形』は、そうした現代生活と、現代人の性格に触れたものとして、特筆する価値がある。
 内田吐夢は、『漕艇王』の明朗な喜活劇的構成で認められたが、『生ける人形』は彼の名を第一線的なものにした。瀬木に扮した小杉勇、軽薄でスマートな都会女に扮した入江たか子、ともに日本映画の今までに現れなかった個性であり、タイプであった。
 この作品が、反響を穫ち得ると、待ち兼ねたように、各社の一流監督が轡を並べて、左翼的な題材を手がけた。
 

 双葉十三郎もリアルタイムで『生ける人形』を観て、鮮烈な印象を受けた一人である。「日本映画 ぼくの300本」(平成16年 文春新書)の中で『生ける人形』に高い評価を加え、こんなコメントを書いている。記憶がほとんど摩滅したコメントであるが、参考までに。

 後世の『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)を思わせる社会派ドラマ。(中略)
 体制や権力への批判、あるいは虐げられた者への共感、といった抵抗、抗議の傾向のある“傾向映画”が当時はやり始めていたが、この映画は現代劇におけるそのはしり。内田吐夢の演出はパンチ力があり、堂々とした作品に仕上げていた。この人の重い正統的な表現力は終生変らず。日本のキング・ヴィドア、オットー・プレミンジャーという感じだ。小杉勇は地味で美男でもないが、存在感ある俳優として数多くの佳作に出演している。また企業ものというテーマも珍しかった。

 『生ける人形』については、後年内田吐夢自身が語ったコメントがあるので、紹介しておこう。(キネマ旬報 1960年12月増刊号「日本映画監督特集」)

 この頃から、左翼思想を加味した「傾向映画」といわれる作品が時代劇でも現代劇でも、いくつか作られ、これが一つの流行に発展しました。これは朝日新聞に連載された小説で、一人の小市民が自分は資本主義のカラクリを利用したつもりで、最後には逆にそれにおしつぶされてしまうという筋で、傾向映画の仲間に入る作品です。しかし、左翼思想といっても今から考えるとずいぶん形式的なもので、ぼく自身ほんとうにその思想を理解していたわけではありませんでした。第一、これをつくることは会社の企画でしたし、まあ、時流に乗ったとでもいう方がいいのではないでしょうか。
 しかし、ぼくとしては小林正君と組んで以来、諷刺喜劇に新しいものをねらっていましたし、その線ではある程度成功したのではないかと思います。それからもう一つ、この作品と前後してぼくの演出上の手法が変りました。非常に感覚的なものをとり入れて、映画の表現力というもの、映画の形式というものを純粋に考えるようになりました。



『生ける人形』(その1)

2012年08月02日 05時23分14秒 | 日本映画
 『生ける人形』(1929年4月公開 白黒サイレント 8巻 日活太秦撮影所)は、フィルムが現存しない“幻の名作”の一本である。原作は新進気鋭の片岡鉄兵が朝日新聞に連載した現代小説で、監督は若き日の内田吐夢。いわゆる傾向映画(左翼的な傾向のある映画)のはしりと呼ばれる社会派ドラマであった。脚色は俊才小林正(まさし)、撮影は松澤又男が受け持った。当時日活京都で吐夢とコンビを組んでいた二人である。
 
 ストーリーはこうだ。
 田舎の院外団にいた瀬木大助は、野心を抱いて上京し、先輩の青原代議士の紹介で丸ビルにある繁本興信所という会社に勤める。主な業務は、政界や実業界の醜聞を調査し、ゆすりに近い手口で金を巻き上げることだった。瀬木はそこでタイピストの美しい細川弘子と知り合い、また昔の恋人の梨枝子とヨリを戻しながら、一発大仕事を狙っていた。ある日、某銀行の青原代議士への不正献金を探り当て、繁本社長や黒幕のX伯爵の協力を得て銀行の乗っ取りを企てる。が、途中で彼らに裏切られ、うまい汁だけ吸われて、弊履のごとく捨てられるのだった。

 配役は、主役の瀬木大助に小杉勇、相手役の細川弘子に入江たか子。ほかに築地浪子(梨枝子)、高木永二(青原代議士)、三桝豊(繁本社長)、対馬ルイ子、村田宏寿。
 小杉勇も入江たか子も『生ける人形』で演技者として認められ、高い評価を得る。とくに小杉勇の演じた瀬木大助という役は、従来の映画の主役には類のない独特な個性だった。現代劇の男の主役といえば、都会的でモダンなインテリ風の二枚目青年か、またはスポーツマンタイプのたくましい若者が普通であった。が、小杉の役は、田舎から東京に出てきた野心的な男で、仕事に対しても女性に対しても挑戦的で自信満々、目的のためには手段を選ばず、悪事にも手を染める非情の人物であった。入江たか子の役は、断髪洋装のモダンガール、都会派の新しい職業婦人(今で言うキャリアウーマン)であった。
 
 片岡鉄兵の小説「生ける人形」は、同時に劇化され、1929年(昭和4年)4月に新築地劇団によって築地小劇場で、さらに帝劇で上演され、好評を博したという。映画『生ける人形』の公開もほぼ同時期であった。
 当時この映画を絶賛した映画評論家に飯島正がいる。
 「映画春秋」(1929年7月号)誌上の映画評で飯島は、『生ける人形』が最近の日本映画では「とびぬけて立派なもの」であり、「本当に現代生活にふさわしい素材と思想をもったはじめての映画である」と書いた。そして、「形式をあくまで内容に即したものとして駆使した」内田吐夢の手腕を称え、映画の随所に見られる「外国ものの模倣といわれかねないあたらしい技法」を、題材に即した表現手法であるがゆえに、「観客がそれに気づかないくらい」に使いこなしていると評価した。
 
 飯島の指摘する「あたらしい技法」とは、具体的にどのようなものであったか? この映画を観られない今となっては、知るよしもないが、恐らくそれは、キャメラアングルや構図の奇抜さだったのではないかと思われる。
 『生ける人形』のスチール写真の中に、天井から俯瞰した構図のものがある。床一面に広げた新聞紙が何枚も敷いてあり、そこに、頭を抱えて悶えるように横たわっている小杉勇と、笑顔を向けて勝ち誇ったように突っ立っている入江たか子が写っている。なんとも奇抜な構図で、見方を変えれば、壁に貼った新聞に、小杉勇と入江たか子の二人の現代人がまるで標本のごとくピンで留められているようにも見える。無論、スチール写真は宣伝用に別撮りしたものなので、実際に映画の中でそうした場面が使われたかどうかは分からないが、監督内田吐夢の実験的な表現手法の一端をうかがうことができると思う。



 もう一枚、小杉勇と入江たか子が腕を組んでビルの谷間を散歩している場面を捉えたスチール写真がある。こちらはローアングルの構図で、コートの下から露出した入江たか子の長くて生々しい右脚がすぐに目に留まる写真である。が、よく見ると、背景にあるビルの輪郭が変で、入江たか子の左側(向かって右側)にあるビルが傾いている。遠近法で描いたビルの絵を書割に使ったのであろう。このビル街は東京丸の内という設定であるが、映画製作の現場は京都の日活太秦撮影所だった。現代の大都会東京を舞台にしたモダニズム映画を京都で撮影するという製作条件は、大きな制約であった。出演者やスタッフを連れて東京ロケを敢行することも無理だったとすれば、セット撮影に頼らざるをえない。内田吐夢は、そうした制約を逆手にとって、セットやキャメラアングルに工夫を凝らし、『生ける人形』というタイトル通り、人形芝居のように象徴的なセットを使い、戯画的でデフォルメされた撮影手法を試みたのではないかと思う。



 飯島正はさらに続けて、『生ける人形』のテーマについて、「いままでの日本映画にはかつて見られないところのものであった」と言い、この映画のように「ハッキリした暴露的テエマをもったものは、日本映画はもちろん外国映画にも(ソヴェトはのぞく)見いだしえないところであろう」とまで言っている。飯島の論評は、漠然としていて具体的な内容がつかめないが、映画『生ける人形』を観て、感服した様子だけはありありと伝わってくる。(つづく)



『浮雲』

2012年08月01日 04時59分38秒 | 日本映画
 男と女の情愛を描いたあまたある映画の中でも、成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年 東宝)ほど、身勝手で最低な男に振り回され、自暴自棄になりながらも男を愛し続ける女を、苛酷なまでに描いた作品は、そうザラにはないだろう。
 ゆき子という薄幸のヒロイン(高峰秀子)は、戦時中仏印(仏領インドシナ=現・ベトナム)へ渡り、勤め先の農林省で、技官の富岡という、毒舌家だがハンサムで魅力的な中年男(森雅之)と出会い、恋愛をし、関係を持つ。それは夢のように幸福な日々だった。富岡には日本に妻があったが、ゆき子に結婚の約束までする。
 昭和21年冬。終戦後1年以上経って、ゆき子は引き揚げ船で日本へ帰って来る。(映画のファーストシーンはここからで、仏印での富岡との出会いは回想シーンで挿入される。)
 ゆき子は郷里へも寄らずそのまま、先に帰国した富岡の東京の家を訪ねる。実母と妻が出て来て、ジロジロ観られた後、富岡が浮かぬ顔で現れる。富岡に誘われ、外で歩きながら話す二人。富岡はいったん着替えに家に戻り、ゆき子と富岡の二人は、連れ立って闇市の立つ盛り場に面した安ホテルに入る。そこでゆき子は富岡から金を渡され、別れ話を切り出される。ゆき子は富岡に裏切られたのだった。連れ込み宿の薄暗くて汚い一室である。ローキー・トーンの白黒の画面(玉井正夫の撮影)に映し出される男と女の姿が、幻影のように揺れ動き、ここから2時間に及ぶ胸を締めつけられるような切ないドラマが始まる。
 敗戦後日本に帰り現実の生活に戻った富岡にとっては、ゆき子との関係はすでに終ってしまった過去の出来事だった。ゆき子は富岡をひどい男となじり、泣き崩れる。
 敗戦後の荒廃した日本の、未来に明りが見えない時代が背景である。この時代背景が転落していく女の境遇を一層暗鬱なものにしていく。
 この映画、ゆき子と富岡の二人だけのシーンが何と多いことだろう。それぞれに見どころがあり、男と女のあからさまな言葉の応酬があって、心理の格闘が繰り広げられる。どちらかが半狂乱になるといった修羅場もなく、ベッドシーンはもちろんキスシーンすらないが(仏印での回想シーンでキス寸前まで行くカットがある)、濃密な男女の関係が十二分に描き出されていた。



 『浮雲』は、林芙美子原作、水木洋子脚色の暗くて悲しい女性映画である。いや、女性映画と言っては語弊があるかもしれない。『浮雲』を観て感動し、この作品を「私の観た映画ベストテン」の上位に置く男性も相当多いからだ。かく言う私もそうである。観客の対象を女性とし、女性の心を揺り動かすために作られた映画を女性映画だとすれば、『浮雲』はそうした範疇に収まらない作品であろう。
 『浮雲』はメロドラマである。が、通俗的なメロドラマを超えたメロドラマだとも言えよう。歌詞のある主題歌はないが、『浮雲』のバックに何度となく流れる斉藤一郎のエキゾチックな音楽は、そのストーリーと相俟って女性だけでなく男性の観客の涙腺も刺激する絶大な効果を発する。

 ちんどん屋が「りんごの唄」を演奏し、街にはジングルベルが流れる年の瀬である。
 ゆき子はこんな不実な富岡という男のどこが良くて、またヨリを戻そうとするのだろうか。富岡はきっぱりと別れ話を口にしたが、ゆき子の方はまた会いたくてたまらない。なぜか?
 ゆき子は、戦時中の仏印での彼との至福の恋愛体験が忘れられず、日本に帰って来てからも、その夢の続きを追っているからである。ゆき子は生活に窮し米兵のオンリーにまで身を落とすが、バラック建ての異様な愛の巣へ富岡を呼び寄せるのだった。久しぶりに会ったゆき子の生活ぶりを見て富岡は辛辣な皮肉しか言わない。が、富岡にも多少の未練はあったのだろう。古雑巾のような女房に比べれば、ゆき子は捨てたとはいえ魅力のある女である。バラックに米兵が訪ねに来て、中へ入れずどこかへ送って行くゆき子。なかなか帰らないゆき子を明りもつけずにじっと待っている富岡。ゆき子が帰り、ろうそくの明りを灯す。交わりを求める富岡の下心にゆき子は不快感を覚えるのだった。富岡が立ち去ってから、後を追いかけるゆき子の姿は、寒々としてわびしい。
 結局、富岡との関係は一時的に戻り、正月に伊香保へ温泉旅行をして、何泊か居続け、子供まで身籠ることになる。が、温泉場のバーの亭主(加東大介)の愛人である若い女(岡田茉莉子)といつの間にか関係を持ち、東京に連れて来て安アパートで同棲している富岡を見て、ゆき子は失望し、子供は堕胎する。
 その後、ゆき子は昔処女を奪い自分を弄んだ義兄(山形勲)がエセ新興宗教の教祖になったことを知り、義兄の囲い者になって金に不自由のない生活を送るようになる。そんなある日、落ちぶれ果てた富岡が金を借りに来て、ゆき子は彼の妻が死んだことを知り、喜ぶのである。そして、のるかそるかの行動を出る。義兄の金を盗んで旅館に立て籠もり、自殺するという電報を打って富岡を呼び寄せるのだ。が、それも失敗に終わり、最後にゆき子は富岡に懇願して、任地先の遠い屋久島まで寄り添って付いていく。

 ラストの道行きの場面は、ゆき子の死を暗示して、悲しい。鹿児島から二人の乗った船が出て、「蛍の光」のメロディーが流れる場面くらいから、やるせなさが込み上げてくる。途中で小船に乗り換え、船の上で二人寄り添って雨に打たれ、島に着くと病身のゆき子が担架で運ばれ、山小屋のような家に担ぎ込まれる。病床に臥せって安堵の表情を浮かべるゆき子だが、死は突然やって来る。
 かすかに口を開け、満足気に薄ら笑いを浮かべているゆき子の死に顔。そこに仏印での幸福だった頃の姿が映し出される。ゆき子の唇に紅を引き、嗚咽する富岡。ラストカットは布団の前で泣き崩れる富岡を俯瞰で捉える。死んだゆき子の魂が、上から富岡を眺め、幸せそうに微笑んでいるのではあるまいかと思わせるカットである。
 ゆき子の富岡への愛が成就し、ゆき子は安らかに昇天したのだ。そう私は思うことにしている。(了)