背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

小笠原明峰と小笠原プロ(その2)

2012年07月19日 19時28分51秒 | 日本映画
 小笠原プロによる最初の作品は、自主製作ではなく、外部から持ち込まれた企画で、依頼主およびスポンサーがあった。日本ボーイスカウト運動の先駆的指導者・三島章道(しょうどう)である。彼の企画発案でボーイスカウトの宣伝用の短篇映画を製作しようというのだ。
 三島章道(1897~1965)も子爵の息子である。本名は通陽(みちはる)、学習院出身。祖父は警視総監の三島通庸、父は日本銀行総裁の三島弥太郎。華族のお坊ちゃんというのは、暇と金があると何をやり出すか分らない。1922年(大正11年)、ボーイスカウト日本連盟の前身「少年団日本連盟」が後藤新平を中心に結成されると、章道は25歳で副理事長に選ばれる。以後、ボーイスカウトの組織作りに邁進。一方、妻の三島純は「日本女子補導団」を設立し、ガールスカウト運動に尽力するというのだから、この夫婦も変わっている。
 この話を明峰に持って来たのは、知人の近藤経一である。
 近藤経一(1897~1986)は、東京帝國大学出身の新進の劇作家で小説家だった。彼は、武者小路実篤に師事し「白樺」の同人であったが、新劇だけでなく映画にも夢を抱いていた。1924年1月、後述の女優・原光代と結婚し、ハネムーンにハリウッドへ行って、そのまま1年間滞在。ジャック阿部(阿部豊)と知り合う。25年帰国し、日活で映画のプロデューサーになり、アメリカから阿部豊を呼び寄せ、日活の監督に推薦。が、間もなく退社し、「特作映画社」というプロダクションを作り、映画製作を始める。第1回作品が『極楽島の女王』(1925年 小笠原明峰監督、高島愛子主演、内田吐夢、栗原トーマス出演)とういう冒険大作で、これは「世にも恐るべき駄作だった」(岸松雄評)。特作映画社はもう1本作って倒産。近藤の夢は破れ、その後月刊誌「映画時代」(文藝春秋社刊)の編集長になった人物である。

 さて、戻って1923年(大正12年)初春、小笠原プロ初めての映画製作が始まる。
 原案は誰が作ったのか分らないが、脚本・監督は明峰自身が手がけた。この映画のタイトルは『愛の導き』。データは以下の通り。

 『愛の導き』 1923年3月24日公開 帝國劇場 3巻 小笠原プロ
監督・脚本:小笠原明峰 撮影:稲見興美 助手:気賀靖吾
出演:古川緑波(浮浪者細田忠一)、原光代(令嬢鶴見千枝子)、春日明子(母鶴見俊子)、北島貞子(本野春子)、平戸延介(神坂雪雄=富豪の倅)、三田道秋(ボーイスカウト団長)、南部信雄(ボーイスカウト飛行士)、明石久子

 撮影担当の稲見興美は、横浜の大正活映で栗原トーマス監督の『アマチュア倶楽部』(原作・脚本は谷崎潤一郎)を始めとし、数本の作品の撮影を担当したキャメラマンである。1921年10月、大正活映の撮影所が閉鎖され、スタッフ・俳優は解散という憂き目にあったが、その落武者たちが明峰のもとにやって来たのだ。稲見のほかに、装置の尾崎庄太郎、俳優では鈴木すみ子(澄子)などである。(大正活映の残党はその後も加わっていく。監督の栗原トーマス、内田吐夢ほか)
 主役(悪役)は古川緑波(ロッパ)。脇役は平戸延介、後に映画監督になった山本嘉次郎である。ヒロイン役は原光代。
 浮浪者(古川緑波)が道楽息子(平戸延介)に頼まれて別荘から令嬢(原光代)をさらうが、折から野営中の少年団が彼女を助け出し、捕まった浮浪者は悪いことをしたと悔悟するといったストーリーだったらしい。
 3巻というから30分ほどの短篇だが、初公開したのが帝國劇場というのがすごい。

 原光代(1902~?)は、帝劇専属の売り出し中の舞台女優で、近藤経一が呼び寄せてこの映画に出演。翌24年、近藤経一と結婚、共にハリウッドへ渡り、チャップリン、ダグラス・フェアバンクスの知遇を得、一年間滞米。帰国後、25年に日活京都に入るが間もなく退社。が、27年1月復帰し、ハリウッドで知り合った阿部豊監督の『彼をめぐる五人の女』に芸者役で出演。同年数本に出演し、東坊城恭長監督の『鉄路の狼』を最後に引退した。


  古川緑波

 古川緑波(ロッパ 1903~1961)は、元は男爵の息子で、六男坊だったために古川家へ養子に出されたという経歴の持ち主。実父は医学博士で宮内庁侍医の加藤照麿、祖父は政治学者で東京帝國大学総長も務めた加藤弘之で、男爵の家柄だった。緑波(本名・郁郎)は少年の頃からカツドウが大好きで、高校(早稲田第一高等学院)の時には同名のペンネームで映画誌に投書を始め、最年少で「キネマ旬報」の編集同人になる。若いに似ず博覧強記で、物真似の名人だった。多分もうこの頃には小笠原明峰と意気投合し友人になっていたのだろう。映画製作の話が持ち上がると、主役に抜擢された。


  山本嘉次郎

 山本嘉次郎(1902~1973)は、自他ともに認めるカツドウヤである。慶應義塾普通部の頃からカツドウ、芝居、オペラと観まくり、慶応義塾大学理財科に進んでからは仲間と音楽会やオペレッタや上映会を催したり、自主映画を作ったりで、とうとう大学は中退。その頃の芸名が平戸延介である。1921年、映画製作をやめた横浜の大正活映のスタジオを借りて、『真夏の夜の夢』という映画を作ったが、そこで知り合ったのがカツドウ役者の猛者(もさ)たち、江川宇礼雄、高橋英一(エーパンこと岡田時彦)、横田豊秋(芸名・宇留木浩、後年P.C.Lで山本嘉次郎監督の『坊ちゃん』の主役を演じ、一躍有名になったが、ほどなく急死)、竹村信雄、内田吐夢だった。結局、『真夏の夜の夢』は現像の失敗でオシャカ。
 が、それにも凝りず、この映画の出資者でマネージャーも務めた大金持ちの道楽息子を引っ張り込み、22年、「無名映画協会」というプロダクションを設立。通称「カンドウキネマ」。この道楽息子が親から勘当(カンドウ)された手切れ金を元手に作ったからだ。そこで何本か短篇喜劇を撮った。その配給会社が、森岩雄の設立した中央映画社で、山本嘉次郎と森岩雄の長い関係がここから始まる。その後「カンドウキネマ」は解散。1822年の終わりに、嘉次郎は日活向島撮影所に監督見習いとして入社。
 彼が、どういう経緯で小笠原プロの『愛の導き』に出演したかは不明だが、翌23年初春、日活向島での多忙な仕事の合間を縫って、いわば友情出演することになる。
 彼の経歴を書き出したらキリがない。山本嘉次郎著「カツドウヤ紳士録」(昭和26年 講談社)とその改訂版「カツドウヤ水路」(昭和40年 筑摩書房)は一読に値する名著なので、興味のある方はお読みいただきたい。

 小笠原プロのことをいろいろ調べて書き始めていったら、まるでカツドウヤ列伝のようになってしまった。現代ではあり得ないようなユニークな人物ばかりが登場するので興味をひかれ、ついつい長くなってしまうが、ご容赦願いたい。(続く)




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1 コメント

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Unknown (maria)
2019-10-28 13:44:50
私は近藤経一と原光代の孫です。
本人達からはほとんど何も聞いていないので、
このような情報がありがたいです。
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